3

 深山が野澤と分かれたのは、二十時を過ぎた頃だった。

 その日はもう遅いので、彼は署には顔見せに立ち寄って、すぐに帰ろうと思った。

「長話し過ぎたな……」

 深山は車のデジタル時計を見ながらつぶやいた。本当は事件の話だけして帰るつもりだったが、野澤に会うのも久しぶりだったのもあって、いつの間に高校時代の友人の結婚式の話になっていた。

 彼は車を発進させた。署に戻るには大通りを通った方が早いのだが、今の時間帯だと帰宅中の車やタクシーでいっぱいだろうと考え、少し遠回りをしていくことにした。

 その道は住宅街に沿っているが、だからこそこの時間帯は数人の通行者がいるだけで車はほとんど通っていなかった。

 彼は車を走らせながら今日野澤と話していたことを振り返っていた。


「被害者はたった一言だけこう呟いたそうだ。……『てんし』と」


「天使、ねぇ……」

 最初にそれを聞いたときには興奮すら覚えたが、今冷静になって考えてみると、やっぱりそれだけでは事件とエンジェルダストとの関連性は低い。それに、野澤が話した目撃者の言っていることが本当かどうか分からない。もし、本当に何か言葉を残していたというのが本当なら、この上ない手がかりになるはずだ。それを確かめるためにも、事件直前に被害者と一緒にいた女性には早く目覚めてもらいたいのだが……。

「こればっかりはなぁ……」

 深山はため息をこぼした。

 署に戻る前にもう一度彼女が入院している病院に寄ってみようか。そう思い、角の道を曲がろうとした時、

「!!」

 目の前に人影がよぎった。

 深山は驚いたが、咄嗟に急ブレーキをかけた。そんなにスピードは出ていなかったため、車はすぐに停車した。

「……っぶな」

 深山はフロントガラスの向こうを除いた。さっきの人影はない。

 もしかして、轢いてしまったのか? しかし、ぶつかったような感覚はなかった。

 半分焦りを感じつつ、深山は車を降りた。

 車の前まで移動すると、道路に誰かがうずくまっているのが見えた。深山は慌ててその人物のところへ駆けつけた。

「だ、大丈夫ですか?!」

 側によって見てみると、それは大人の男性だった。顔を覗きこむと、男は驚くほど真っ青な顔色をしていた。深山はそれを見てさらに慌てた。

「あ、あの、どこか怪我したんですか? すんません、俺ちょっと考え込んでて」

 男は何も答えない。

 とにかく病院に連れて行かなければ。深山はそう思い、救急車を呼ぼうとジャケットから携帯電話を取り出した。

 不意に男は顔を上げた。その顔はまさに死人のようだった。深山はそれを見て、一瞬携帯を落としそうになった。

 男は何かを言いたげに口をパクパクさせた。

「え? な、なに?」

 深山は男に顔を近づけた。男はかすれた声でやっとのことで言葉を発した。

「て……」

「て?」

「……ん……し……」

「て……ん、し? ……って、え?!」

 つい最近聞いたその言葉に、深山は驚いて男を見た。

 が、その瞬間、男はその姿を消した。正確には彼の肉体がその形をなくしたと言った方がいい。

 深山はたった今何が起こったのか理解できず、全身に飛び散った肉片も気にせず、その場で固まっていた。

 彼の頭が現状を理解できたのは数分経ってからだった。

 深山は自分の身体を見回した。幸運にも今が夜で、小さな街灯の光だけが明かりとなるものがなかったので、自分が今どんな格好なのかはっきりと見なくてすんだが、それでもきつすぎる鉄の匂いと顔や腕や服についた細かくやわらかな感触は、彼が喫茶店で口にしたものを全て戻すのには十分すぎた。

「ぅ……げほっ……」

 すべてを出してすっきりしたのか、彼の頭はだんだんと冷静さを取り戻してきた。彼はさっきから手にしていた携帯電話のボタンを押し始めた。

「署に……知らせないと……」

 後は発信ボタンを押すだけ。彼は震える手で受話器のマークを押そうとした。が、その時、後頭部に強い衝撃を感じて、彼は意識を手放した――。


 警察になるのは子供の頃からの夢だった。

 警察になって悪い奴らをみんな捕まえて良い人だけの世界を作る。それが小さい頃の夢だった。中学高校にもなるとさすがにそんな夢物語は考えなくなったが、警察になるという夢だけは変わらなかった。公務員だから食うに困らない、という理由もあったと思う。でも何か、使命感というか、警察になることが自分の中は常識であるように思えていた。だから警察になった。

 しかし、警察になったらなったで、それはずいぶんと平凡な毎日だった。自分がなぜこの仕事についたのか分からなくなるほどに。元々理由はよく分からなかったが、実際なってみて更に分からなくなった。

 俺、なんでこの仕事してるんだろう? 人々を護るため? 犯罪を防ぐため?

 そういえば、昔警察になれば良い人だけの世界を作れるとか思ってたことあったな。結構本気だったような……。でも、そんなの不可能だよな……。良い人間なんていやしない。皆心の中では悪いことも考えてる。純粋に良い奴なんてこの世に何人いるかどうか……。昔の俺もバカだったな。なんか笑えてきた……。


「にやにやと気味が悪いな。どんな夢見てるんだ?」

 鋭く突き刺さるような言葉に、深山は目を覚ました。身体を起こそうとしたが、頭がズキズキと痛み、不可能に終わった。

「無理に動くな。脳に問題はないが、衝撃はあっただろうからな。少しフラフラするだろう」

 さっきと同じ声が言った。口調は男っぽいが、声質は女のそれだった。

 深山は声のするほうを向いた。眼鏡をかけたインテリ風の女がすぐ側の壁に寄りかかって座り、俺を見下ろしていた。服もズボンも真っ黒でその上に羽織っている白衣がまぶしいほどだった。医者かとも思ったが、患者の前で煙草をすう医者はいないので、その考えは却下した。

「これもらってるよ。本当は声をかけてからにしようかと思ったんだが、何せ吸うのは久しぶりだからね。待てなかった」

 女はクスクスと笑うと白衣のポケットから彼の愛用の煙草を取りだした。

「あんた誰? っていうかここどこ? 病院?」

「病院じゃあないな。自分の目で確認してみたら?」

 まだよく頭が回らないせいか、深山は女の言うことに素直に従った。

 そこは随分小さな部屋だった。床も壁も灰色で、壁の一部にこれまた灰色のドアがついている。ドアには小さな窓がついていたが鉄格子がはめられている。他に窓はない。女はドアとは反対側の壁際に座っていて、深山はちょうど部屋の真ん中に寝転がっていることになる。しかし、その中でも深山が一番気になったのは、この部屋には何も無いということである。天井からぶら下がっている電灯以外は本当に何もない。これではまるで……、

「牢屋みたいだな」

「まさに牢屋だよ」

 深山の独り言が聞こえたのか、女が答えた。

「どういうことだ? 俺は罪人じゃなくて警察だぞ」

「知ってるよ。深山由貴也巡査部長」

 女は白衣のさっきとは反対のポケットから警察手帳を取り出した。

「それは、俺の……!」

 深山の言葉を無視して、手帳を白衣のポケットにしまうと、今度は別の手帳を取り出した。深山はその手帳にも見覚えがあった。

「ふーん、なるほどね」

 女はページを捲りながら、にやにやと笑った。

「勝手に人の手帳見るな。返せ」

 その手帳は、深山が仕事で使っている手帳だった。つまり、これまで扱ってきた事件の情報がみっちりと詰め込まれているのだ。

 深山は強引に奪い返そうとしたが、体が言うことを利かず、上半身を起こすので精一杯だった。しかたなく、また横になった。

 一般人にあれを見られるなんて、小野さんにばれたらどやされるじゃすまないな、と深山は心の中でつぶやきため息をついた。

 女は特にペンを挟んでいるページをじっくり読んでいた。

 ペンが挟んであるってことは、エンジェルダストの事件のところか。あれに関しては、野澤から聞いた話以外特に何も書いていないから、そんなにじっくり見ることもないだろうに。

 深山がいい加減返せと言おうとしたとき、女が手帳と閉じ、満面の笑みで言った。

「おめでとう。ビンゴだよ、深山君」

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