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「はぁ~~~」

 深山は自分のデスクにつくと、大きなため息をついた。

「若いもんが何ため息なんかついてんだ。幸せが逃げてくぞ」

「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないですって、小野さん」

 深山は机に突っ伏して、自分の向かい側に座っている小野と呼んだ男に非難の声を浴びせた。

「あー、そういやお前、あの事件の担当になったんだよなぁ。ご愁傷様」

 小野はからかうようにそう言ったが、その声にはいくらか同情も混じっているようだった。

 あの事件というのは、つい先日起こった、なんとも不可解な死亡事件のことだ(あえて「死亡」事件と呼んだのは、まだ殺人事件かどうかはっきりとは分からないからである)。事件が起きたのは九月二十七日午後二時半ごろ。場所はある交差点沿いの歩道。そこで男が通行中、死亡した。それだけならまだマシだが、厄介なのはその原因。目撃者の話によると、なんでもいきなり身体が爆発したとか。

「ありえないでしょ。身体が爆発するなんて」

 深山は姿勢は変えず、目だけ書類に向けた。

「でも、どの目撃者もみんな同じことを言ってるらしいしなぁ」

「でもひとりでに爆発するなんて不可能でしょ。被害者が爆弾物でも飲んでいない限り」

「あ、それあるかもな。体内はもう調べたのか?」

「小野さん、分かってて言ってるでしょ。調べるどころか、どれが胃袋で、どれが心臓かも分からないくらい滅茶苦茶なんですよ。おかげで被害者が一体誰なのかも未だに判別できない有様なんですから……せめて男のすぐ近くにいたっていう女性と話ができればなぁ……」

 深山はもう一度大きくため息をついた。事件当時、男のすぐ側に若い女性がいたらしいが、事件のショックが激しいのか、その場で気を失ったまま未だに意識を取り戻していなかった。

「そうだなぁ……ん、そういやお前、もう現場には行ったのか?」

 小野のいきなりの話題転換に、深山はギクリとした。せっかく忘れていたのに……。

 実は、深山は現場にはまだ行っていなかった。周りから聞こえてくる話によると、現場のいたるところに血や肉片がこびりつき、現場を見た鑑識課の連中のうち三人がその日食べたものを全て出したほどらしい。その話を聞いた深山は、自然と足が現場から遠のいた。

 深山が黙りこくっていると、小野がデスク越しに覗いてきた。

「おーい、なんで急にだんまりなんだぁ? まさか、まだ行ってないんじゃないだろうな?」

「……だって、俺スプラッタ苦手だし……」

「何、子供みたいなこと言ってんだ。現場百回! さっさと行って来い!」

「うぅ……分かりましたよ」

 深山は渋々と腰を上げた。いくら事件を担当していないとはいえ、小野は深山の先輩であり、先輩のいうことを聞くのはどこの世界でも同じなのである。


 深山は署を出るとぶつぶつと文句を言った。

「なーにが、現場百回だっての。小野さんだってまだ三十代なのに、結構古い考え方してるよなぁ」

 ちなみに、深山の年齢は二十代後半である。髪も茶髪に染めているため、上司達によく睨まれたりしているが、実力は外見を上回るほどなので、それほどきつく言われたりはしたことはなかった。

 深山は車に乗り込むとポケットから携帯を取り出しボタンを押した。

「俺には現場に行かなくても現場の情報ぐらい得ることができるんですよー。どうせ今はマスコミと野次馬でろくな調査なんてできないだろうからな」

 数回のコールのあと、一人の男が電話に出た。

「野澤か、俺だけど」

『よぉ、深山。そろそろ連絡が来ると思ってたよ。どうせお前のことだから、ぐちゃぐちゃで気味悪い、とか言ってまだ現場も見ちゃいないんだろ』

 野澤と呼ばれた男はそう言って、はははと笑った。

「大当たりだよ。ってことはもう仕入れといてくれたか?」

『ああ。ある程度はな。何しろ奇妙な事件だからな。こっちも情報収集は苦労してんだよ。だから、そっちの方も期待してるぞ』

「分かってるって。あんま変わんないだろうけどな。じゃあいつもの喫茶店でな」

 深山はそういうと電話を切って、車を出した。

 野澤は深山とは高校時代からの友人で、社会に出てからも付き合いを持っていた友人の一人だった。現在はフリージャーナリストとして活動していて、深山とは友人のよしみでよく情報交換をしていた。


 喫茶店に着くと、野澤はすでに来ていて、コーヒーを飲んでいた。なんだか何かを言いたくてしょうがない、といった雰囲気だった。

 深山が店員に同じものを頼むと、野澤は声を潜めて言った。

「深山。お前、『エンジェル・ダスト』って知ってるか?」

「エンジェル・ダスト? なんだ唐突に? 俺は事件の話を聞きに来たんだけど」

「いいから、知ってるのか?」

 野澤の真剣そのものの表情に眉をひそめながら、それでも深山はいいや、と答えた。

 すると野澤は気の抜けたようなため息をこぼした。それはやっぱりか、と言っている様にも思えたし、仮にも警察官なのに、とあきれている様にも取れた。

「エンジェル・ダストってのは麻薬の一つだよ。幻覚剤として有名だ。聞いたことないか?」

 それは刑事としての彼に聞いているのだと分かったので、深山は記憶の引き出しを引っ掻き回した。

 そういえば、前に別の課の同僚に聞いたことがある。そんな名前のドラッグが一時期若者の間で流行っていたって。しかし、彼の所属する第一課では、麻薬関係の事件はあまり扱わないのと、ちょうどその時別の大きな事件を抱えていたせいもあって、すぐに忘れてしまっていた。

「それで、それがどうかしたのか?」

 野澤は周りを確認してから、さらに声を落として言った。

「俺も知り合いの同業者に聞いた話なんだが、実は、今回の事件にそれが絡んでいるらしい。……俺だって、信じられないし、本当かどうかも正確には分からないんだからな」

 野澤は明らかに信じていないという表情をした深山を見て後に自分へのフォローを付け加えた。

「っていってもなぁ、関わっているっていってもどう関わってるんだ? そのクスリを飲んだら体が爆発するなんて聞いたこともないぞ」

「事件とどう繋がっているのかはまだ分からないが……。でも全く関係ないとも言えないぞ」

 深山がまだ信じていないという顔をしていると、野澤は勝ち誇ったように口元を歪ませた。

「俺、今朝事件現場の近くで事件の目撃者に会ったんだ。あ、目撃者って言っても事件直前に被害者と一緒にいた女性じゃないぞ。二人のやり取りを通りすがりに見たっていうサラリーマンだ」

 野澤は目撃者と言って、深山が例の女性を連想したんだと思い付け加えたが、どのみち事件の目撃者には変わりなかった。深山はその話に一気に食らいついた。

 それを野澤は愉快そうに眺めると、話を続けた。

「その人が言うには、被害者は死ぬ間際、女性に何か言っていたそうだ。声が小さすぎてなんと言っていたかは聞き取れなかったそうだが、偶然というか、幸運というか、その人は読唇術をかじっているらしくて、なんとなく分かったんだと。被害者もうつむき加減だったし、自信はないとも言っていたがな」

「なんて? なんて言っていたんだ?」深山は自分の体がいつのまにか前のめりになっているのも忘れて聞いた。

「被害者はたった一言だけこう呟いたそうだ。……『てんし』と」

 それを聞いた途端、深山は自分の背筋に冷たいものが走ったように感じた。

「てんし……エンジェル……」

「ちょっと、おもしろくなってきただろう?」

 野澤の「おもしろくなってきた」というのにはいささか反感を覚えたが、興味が沸いたのは事実だった。

 その後も二人はその事件に関して互いの情報を教え合ったが、大体似たようなものだった。

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