9

 それからの展開は早いものだった。

 薄青はいろいろと千草に言いたいことがあったらしかったが、日が沈みかけているのを目にすると、問答無用で二人を肩に担ぎ、また空に飛び上がった。しかも、先程よりも高く、速く行動した。

 今度は森に戻るだけなので、雪の助けは要らず、一目散に進んだ。

 いくら子どもとはいえ、二人も担いでよくこんなスピードが出せるものだと、雪は感心した。

 隣を見てみると、千草がふてくされた顔で目下の景色を眺めていた。もう抵抗は諦めているらしい。

 雪は被害者にも関わらず、千草に少し同情した。何か声をかけようかとも思ったが、なんと言えばよいのか分からず、開きかけた口をつぐんだ。

 そうこうしているうちに、森の入り口に到着した。しかし、薄青は立ち止まりはせず、一層高く飛び上がり、一本の木の枝に着地した。

「スピードを出すから、枝に引っかからないよう気をつけて」

 薄青は雪にだけそう言うと、先ほどとは比べ物にならないほどの速さで枝と枝を飛び越えていった。

 雪は枝に引っかかることよりも、振り落とされそうになることを恐れて必死で薄青の背中を掴んだ。

 薄青は森の奥に行けば行くほど地面へと近づいていったが、それにあわせてスピードも速くなるので、雪はだんだん落下しているのではないかと思うようになった。

 ようやく地面についた頃には、そのスピードのあまり、雪は呼吸困難になりかけていた。

 地面に下ろされると、雪はそのままうずくまって体中に酸素を送り込んだ。

 なんとか呼吸を整えていると、誰かが背中を擦ってくれた。薄青だろうかと顔を上げてみると、それは最初に雪を見つけた緋褪だった。

「大丈夫? もう、薄青ったら。まだ人間なんだから、私たちの動きについていけるわけないじゃない」

「悪い、急いでいたものだから。それにこっちにはいい薬だろう」

 頭上で二人が話しているのを耳にしながら、雪は懸命に身体を落ち着かせた。

 緋褪に背中を擦られると、不思議と身体が軽くなった。呼吸も大分楽にできるようになった。

 身体を起こして辺りを眺めると、そこは千草と出会った場所だった。あの薬を作った道具もそのままになっている。

 ふと横を見てみると、千草が四つん這いになって時々むせながら荒い呼吸を繰り返していた。すぐそばに薄青がけろっとした顔で立っている。薬の影響はこのようなことろにまで響いているようだった。

 雪の体調が良くなったのを見ると、緋褪は今度は千草を支えにいった。

「それよりアレはもう作ってあるか」

 薄青はしゃがみ込んで緋褪に聞いた。

「ええ。あとは二人の涙を混ぜるだけよ」

 そう言うと、緋褪は早速落ち着いた千草の目を手で覆い、すばやく涙をすくった。

「そのコップを取って」

 薄青は緋褪が指したコップを二つ手に取った。どちらにもスプーンが入っている。緋褪は片方に千草の涙を流し込んで手早くかき混ぜた。

 次に緋褪は僕の目に手をあてがった。

「大丈夫、怖くないから」

 緋褪は雪が怯えることを懸念して声をかけたのだろうが、既に経験済みだったので怖くはなかった。

 雪の涙も先ほどと同様にもう片方のコップに落とし入れてかき混ぜた。

「さあ、二人とも飲んで」

 緋褪は二人に互いの涙の入ったコップを渡した。

 コップの中身は最初に飲んだものと色も匂いも変わっていなかった。

 雪はあのジュースのような薬の味を気に入っていたので、もう一度飲めるのは正直嬉しかった。雪は一気にそれを飲み干した。

 しかし、千草はコップを持ったまま、中身を飲もうとはしなかった。

「何しているんだ、早く飲みなさい」

 薄青が急かしても千草は唇を尖らせてコップの中身を見つめたまま、一向に飲もうとはしなかった。

 頑として動く気配を見せない千草を見て、痺れを切らしたのか、薄青が焦るように怒鳴った。

「早く飲めと言っているだろう! 間に合わなくなるぞ!」

 すると、俯いた千草の足元に何かがぽたりと落ちた。それは人の涙だった。千草は泣いているのだ。

 薄青はおもわずぎょっとした。薄青だけではない、緋褪や雪も驚いた。

 普段から気の強い千草が人前で泣くことなどそれまでなかった。薄青や緋褪の前でも滅多に泣かなかった。それなのに今、雪の目も気にすることなく涙を流している。

 慌てて緋褪が側によって千草の背を擦った。

「どうしたの? そんなに人になりたいの?」

 しかし、千草は緋褪の言葉にふるふると首を振るだけだった。その拍子にまた涙が零れ落ちた。

 薄青と緋褪は顔を見合わせた。

「じゃあ、どうしてあんなものを作ったんだ。全く関係ない雪まで巻き込んで」

 薄青は今しがたのことを考え、これ以上千草を刺激しないようなるべく声を抑えて聞いた。

 千草はすぐには答えなかったが、やがて震える声でもごもごと口を開いた。

「本当は、俺が、人になりたいとか、思ってなかった。本当は、ただ……なのに……」

 だんだん声が小さくなっていくので、最後のほうはほとんど聞き取ることができなかった。

「なんだ、もう少しはっきり言ってくれないと聞こえないぞ」

 薄青は怪訝そうに眉をひそめ、さらに口を開こうとしたが、緋褪がそれを制した。すぐ側にいた彼女には千草がなんと言ったのか聞こえていたらしい。

「自分の言葉できちんと言わないと、伝わりませんよ」

 さあ、と緋褪は千草の柔らかい髪を撫でながら話を続けるよう促した。

「本当は、あれは、薄青にあげたかったんだ。人の世界を、見せてあげようと思って。人になればもっと分かると、思って、だから、取ってきたのに、なんであんな怒るんだよお」

 そこまで言うと、千草は声を上げて泣き出した。

 薄青は唖然とした。泣いているせいか、千草の話には説明不足な点がいくつかあったが、それでも内容を理解することはできた。千草は自分のためにあの実を盗んできたというのだ。

「せっかく取ってきたのに、なんで、さっきも……」

 千草はコップを持たない方の手で濡れた眼を擦りながら、小さな子どものように泣きじゃくった。それでも泣きながら話を続けた。

 千草は、薄青が喜ぶと思い、苦労して実を取ってきたのに、ひどく怒られ、それがショックで腹いせに自分が人間になってやろうと考えたのだそうだ。

 薄青は驚いたようにしばし千草を見つめていたが、やがて気の抜けたように一息つくと、千草の側に寄り、頭を撫でてやった。

「ごめん、俺も怒りすぎたな。あの時は本当に驚いていたから。まさか、お前がそんなことを考えていたなんて気付かなかったんだ。本当にごめんな、ありがとう」

 千草は頬を濡らしながら、自分の頭を撫でる手を懐かしく感じていた。

「でもな、あの実だけは取ってはダメなんだ。貴重だからという意味だけじゃあない。他の種族や世界に影響を与えるからなんだ。現にお前は何にも知らない雪を騙して巻き込んだだろう。彼はあちらの世界に生きる者なんだ。あちらの世界の一部なんだよ。お前はそれを捻じ曲げようとしたんだ。それはひどく罪の重いことなんだ。分かるか」

 千草はちらと雪のほうを見やった。夕日に映える藍の顔が浮かんだ。視線をコップに戻すと、コクリと小さく頷いた。

 雪は急に話題が自分の方に向かったのでびくりとしたが、二人のやり取りを見ているうちに無性に家に帰りたくなってきた。

「だったら、彼をあちらの世界に帰して元に戻そう。彼のためにも」

 千草は一瞬唇をきゅっと結んだが、やがて決意したようにコップの中身を飲み干した。


 それは本当にギリギリのタイミングだった。

 あと一瞬でも千草が薬を飲むことをためらっていたら、二人とも元には戻れなかっただろう。

 それを知ったのは、二人が元に戻った瞬間、景色に闇が舞い込んできたときだった。

「あ、あぶなかった……」

 そのことを知って一番安堵したのは薄青だった。

 この件に関して何かあった場合、一番責任を取らされるのは彼だからだと緋褪がこっそり教えてくれた。

 薄青と千草が雪を森の外まで送ってくれたときには、外はもうすっかり闇と月明かりに覆われていた。

「雪には本当に迷惑をかけた。ごめんな」

 千草は半ばバツの悪そうにそう言った。

「ううん、そんなことないよ。こんな経験もう二度とできないだろうしね」

「前向きだなあ。もう二度と家に帰ることができなかったかもしれないのに」

「終わりよければすべて良しって言うでしょ」

 二人は声を立てて笑った。

「ねえ、また会えるかな」

「さあ。俺ひとりじゃあ招いたり呼ばれたりはできないかも。少なくともしばらくはね」

 千草は実を盗んだ罰として、しばらく外出禁止になったのだそうだ。

「親役がついていれば、不可能ではないと思うよ」

 その隣で薄青が残念がる雪にフォローするように言った。

「本当に? じゃあ今度二人を案内するよ。遊びに来て」

「ありがとう。是非行かせてもらうよ」

 薄青が心底嬉しそうに言った。

「こっちにもまた遊びに来なよ。いろいろおもしろいものを見せてあげる」

「あんまり危険がないやつをお願いするよ」

 イタズラっぽく笑う千草を見て、雪は少し後ずさった。

「さあ、そろそろ帰ったほうがいい。ご家族が心配するよ」

「うん、それじゃあ」

「絶対遊びに来いよー」歩き出した雪の背中に千草が声を投げかけた。

「うん、こっちにもいつでも遊びに来てねー」雪も振り返ってそれに答えた。


 雪は歩きながら、今日体験した夢のような出来事を思い起こした。

 家に帰れなくなるのは嫌だが、もう一度くらいなら同じような体験をしてもいいかな、と心の内で思った。

「雪」

 突然呼ばれた声に顔を上げると、すぐ目の前に兄が立っていた。あんまり帰りが遅いものだから探しに来たのだろう。

 雪は昼間のことを思い出してバツが悪くなった。

「何やってるんだ、こんな時間まで」兄は呆れたようにため息をついた。

「あ、あの……」

 何か言いたくてもなんと言えばよいのか分からず、つい言葉が濁ってしまった。

「早く帰るぞ。腹減った」

 雪がぐずぐずしているうちに兄は踵を返してさっさと歩き出した。

「あの、兄さん……」雪は兄を慌てて追いかけた。「その、昼間はごめんなさい。……僕、言い過ぎた」

 兄は少し考えた後、ああと思い出したように頷いた。どうやら忘れていたらしい。

「いいよ、別に。それならもう父さんに充分いろいろ言われたしな。それより、」

 兄は急に立ち止まると、雪の顔をじろじろと眺めた。

「な、何?」

 雪がわけが分からないでいると、兄は一人で納得したようにまた歩き始めた。

「今度は本物だな」

「え?」

「なんでもない。早く帰るぞ。それから、後ろにいる奴も。お前の友達か、雪?」

 雪が兄の言葉の意味に首を傾けていると、兄が突然自分達の後ろを指差した。

「友達?」

 雪も兄につられて後ろを振り向くと、そこには……。


「あら、お帰りなさい、薄青。あの子は?」

「ちゃんと帰したよ。もうそろそろ家に着く頃じゃあないかな」

「そう、良かった」二人よりも先に棲み処に戻っていた緋褪は安堵するように微笑んで二人を迎えた。二人を……。

「あら、薄青。千草は?」

「え、一緒に帰ってきたはずだけど……」

 薄青が後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。瞬時に何が起きたか察すると、みるみる顔が青くなっていった。

「あ……!」


「千草!」

 雪は自分の後ろでニコニコと立っている少年の名を呼んだ。

「いつでも来いって言われたから、さっそく来ちゃった」

 千草は悪びれもせずそう言うと、呆然としたままの雪を素通りして兄の前まで行き、自己紹介を始めた。

「はじめまして、藍さん。千草って言います。藍さんのことはいつも雪から聞いてるんですよ。すっごくかっこ良くて尊敬できる人だって。でも本当にその通りですね」

 褒められているとはいえ、初対面の人間に名前を連呼されて驚きと怒りの混じった顔で兄はしばらく固まっていたが、やがて皮肉の篭った笑みを見せて言った。

「いい度胸だな、お前。俺のことあいつから聞いてるってことは名前のことももちろん知ってるんだろう」

「はい、もちろん。名前もかっこいいですよね」千草は笑みを崩さず言い切った。

 かっこいいという言葉に、なぜか兄は眼を丸くしたが、やがて堪えきれないように笑い出した。

「気に入った。お前今日うちに泊まっていけ。部屋なら雪のところを使えばいい。父さんたちには俺から上手く言っておいてやる」

「本当ですか! 実は俺、ちょっとイタズラして、今帰ったら外出禁止になっちゃうんですよ。だからすごく助かります」

 雪の存在などすっかり無視して話を進める二人に、雪はもうついていけなかった。

 兄が名前を呼ばれて怒らないことも不思議だったが、千草が兄の名前をどうして知っているかということも雪には不思議だった。

「ち、ちょっと待ってよ……」

 すっかり打ち解けた二人の後を追おうとしたとき、遠くの森が音を立ててがさがさと震えた。

 驚いて振り向くと、森のあちこちから鳥が飛び出してくるのが月明かりのなかで見えた。

 これは気のせいかもしれないが、森が震えたとき、雪はざわめく音の中にこんな声を聞いた気がした。


「あの大馬鹿がー!!」









     fin.

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flower children -妖精の飲み物- 朝日奈 @asahina86

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