8
「兄さんいる?」
千草は藍の部屋の中にひょっこりと顔を出した。一応声をかけてみたが、彼がいることは最初から分かっていた。
藍は窓とドアを開け放してベッドに寝転んでいた。頬杖をついて何か薄い本を読んでいる。夕方の風が彼の髪や本のページを小さく揺らした。
藍は千草を一瞥しただけですぐに本のほうへ意識を戻した。
「入っていい?」
先程から彼の機嫌がよろしくないのは百も承知だったので、千草はできるだけ人懐っこい声で尋ねた。しかし、藍は何も答えない。
無言を承諾ととった千草は軽い足取りで部屋の中に入り、ベッドの方へと近づいた。彼の、近づくたびに増える眉間のしわと自分を睨んでくる視線は気にしない。
「何を読んでいるの?」
千草はベッドの脇にしゃがんで本を覗き込んだ。そこには千種の知らない文字がびっしりと並んでいた。おそらく人間の使う文字なのだろう。
読めないものに意味はない。千草はすぐに興味をなくした。
まだ、完全には人間になれていないんだ。
窓の外から夕日の橙が入り込んでいた。日が完全に沈む頃には完全な人間になるだろう。
その橙の光を見て、千種は胸の奥に重い淀みを感じた。
不安? 人間になることが?
そんなことはない。
千草は頭に浮かんだ疑問を消し去るように、頭をフルフルと振った。
「用がないなら出ていけよ」
唐突に発せられた言葉に千草はびくりとした。そういえば、忘れていた。自分から訪ねたのに。
「ねえ、兄さん。聞きたいことがあるんだけど」
藍は何も答えず本のページをめくった。視線だけが気だるそうにこちらを向き、千種を促した。
「ねえ、兄さん。兄さんはどうして自分の名前が嫌いなの?」
途端、藍は初めてまともに動いた。顔を上げて、じろりと千草を見る。しかし、当の本人は涼しい顔でにこにこと藍の返答を待った。
「出ていけ」
藍は脅すような低い声で言った。しかしそれくらいでおとなしく引き下がる性格など、あいにく千草は持ち合わせていなかった。
「ねえ、教えてよ。どうして嫌いなの?」
しつこく迫る千草に、今度は怒声ではなく腕が振ってきた。千草は間一髪でそれを避けた。
「いいじゃないか、教えてくれても。俺には分からないよ。兄さんの名前、すごくいいじゃないか」
さすがに怒りを覚えた千草は、口を曲げて言った。しかし、何を疑問に思ったのか、藍はじろじろと千草を見つめた。
その表情に千草はひやりとした。何かまずいことでも言っただろうか。
藍は何も言わないまま視線を本のほうへと戻した。それでも、何かを疑問に思う表情は変わらなかった。
千草は改めて慎重に藍の様子を窺った。
「どこが?」
視線を変えないまま、藍がポツリと呟いた。
突然のことで質問の意図がよく分からず、千草がぽかんとしていると、今度はこちらを向いて言った。
「どこがいいんだ。言ってみろよ」
それが今しがたの話の続きだということに、千草はようやく気付いた。正体がばれるのではないかという心配ばかりしていたので、直前に言った自分の言葉を頭においていなかった。
大丈夫、ばれていなかった。
千草は少し余裕を取り戻した。
「だってさ、兄さん。兄さんの名前って藍色の藍でしょ。(おっと、怒らないでよ)藍色って青色を作る色だよね。それってつまり、水色とか紺色とか青色は全部藍からとれるってことでしょ。なんだか青色の元締めみたいでかっこいいと思わない?」
まじめにそう言う千草を、藍は一瞬目を丸くして見ていたが、堪えきれず吹き出した。
「なんだよ、それ。無理矢理すぎだろう。それに、それは名前じゃなくて色の話になってる」
「そんなことないさ。『名は体を現す』ってこの間う……父さんが教えてくれたんだ、確か。だから、きっと兄さんも……」
危うく薄青の名前を出してしまいそうになったのをなんとか堪えて話を続けようとすると、不意に藍が身体を起こし、閉じた本で千草の頭を軽く叩いた。
「俺が教えたんだよ、それは」
藍は文句を言ってはいたが、顔は笑っていた。橙の光に照らされた藍の笑みは言いようのないほど綺麗で格好良かった。
藍は橙を栄えさせる効果を持つというが、おそらくその逆もあるだろう、と千草は思った。
この人、薄青に似ているな。
藍と薄青は顔も格好も性格すらもまったく違うが、なぜだか千草にはそう思えた。
そのとき、少し強めの風が室内に入り込んできて、薄いカーテンを揺らした。
「あ!」
唐突に千草が立ち上がったので、藍は驚いて千草を見つめた。
「どうした?」
窓の外に目を凝らす千種を見て、不審がった。
「あ、ううん、なんでもない。ちょっと外散歩してくる」
そう言うや否や、千草は急いで部屋を出て行った。
「夕飯までには帰ってこいよ」
藍は部屋の外に向かっていったが、すでに弟の姿はそこにはなかった。
「あ」
雪は遠くを見つめ、口をぽかんと開けて立ち止まった。
「どうしたんだい?」
薄青が身体をかがめて雪の顔を覗きこんだ。
「気配が……」
雪はキョロキョロとあたりを見渡した。
「この近くにいるのかい?」
薄青も慌てて雪と同じように周囲に目を凝らした。しかし、辺りには牧場と所々にぽつぽつ家が見えるだけだった。
「ううん、そうじゃない。さっきまであちらの方から何かいるような気配を感じたんだけど、」雪は自分の家のある方角を指した。「消えちゃった」
「消えた?」薄青は雪の指した方角を見つめながら眉をひそめた。「もしかしたら、向こうもこちらの気配に気付いたのかもしれない。あいつ、勘は鋭いから。きっと俺達が自分を探していると踏んで、できるだけ気配を殺して移動しているんだろう」
薄青は怒ったように舌打ちした。雪に対しては常に温厚な接し方だったので、時々出るその荒々しい態度には違和感を感じた。
「全く、あいつは。自分のしでかした事の重大さがまだ分かっていないのか」
薄青はぶつぶつと文句を言っていたが、やがて僕に向き直るともう一度気配を探すよう言った。
「気配を殺していると言っても、あいつはまだまだ未熟だからね。完全には消しきれていないはずだ。もっとよく集中して探してみて。君ならきっと分かるはずだから」
雪は少し不安だったが、深呼吸すると、目を閉じて気配を探ることに専念した。
最初のうちは空気の冷たさや風に揺れる草の音しか感じなかったが、自分達とそう遠くない距離からもやもやとした空気の流れを感じた。あれだろうか。
「うーん……こ、こっち?」
雪は目を閉じたまま、何かを感じるほうを指で指し示した。そのまま目を開けてみると自分達が歩いている道より少し西にずれていた。指を指す方向には牧場が広がっている。
「距離はどのくらいか分かる?」
「正確には分からないけど、そんなに遠くはないと思う」
薄青は頷きながらそちらを見やりながら少し考えていたが、やがて雪に背を向けてその場にしゃがみ込んだ。
「乗って。もう時間がない。飛んでいこう」
それを聞いて雪はすぐさま薄青の背に掴まった。それと同時に、最初からこうすれば良かったのに、という言葉が咽喉まで出かかった。
それを察したのか、薄青が苦笑しながら弁解した。
「人間の世界では極力人間離れした行動はとるなと言われているんだよ。人間に見つかったらいろいろとややこしいからね。けど、四の五の言ってる場合じゃないか!」
雪を負ぶった薄青は周りに人がいないのを確かめると、踏ん切りをつけて飛び上がった。そのせいで、語尾に力が篭っていた。
二人は高く飛び上がり、牧場を横切った。相変わらず、半端ない跳躍力だ。雪は薄青に掴まりながら、眼下に目を奪われた。見慣れている景色のはずなのに、少し視点を変えるだけで全く知らない世界が広がっていた。
もう夕方だけあってか、牧場には家畜の姿がほとんどなかった。しかしその分、視界に広がる橙に染められた萌黄色の海がいっそう輝いて見えた。風になびくその光景はまさに海そのものだった。
「うわあー」
雪は初めて見るその光景に目を輝かせ、おもわず感嘆の声を上げた。
「景色に見とれるのはいいんだけど、気配を見失わないようにね」
薄青は小さな子どものようにはしゃぐ雪に苦笑しながら言った。
「あ、ごめんなさい……」
雪は慌てて前方に意識を集中させた。
「大丈夫、こっちであってるよ」
薄青はそう、と頷くと、地上めがけて着地した。その勢いでまた踏ん切りをつけ、飛び上がる。
「ずっと飛んでいることはできないの?」
「鳥みたいな羽でも持っていない限り、それは無理だよ」
自分達は地上に生きる存在だから、木に登る跳躍力はあっても空を飛ぶ力は必要ないのだと教えてくれた。
「飛びたいとは思わないの?」
「特に思ったことはないなあ。あっても使うことがないだろうしね。俺たちはあるものをあるがままに受け入れる性質の生き物だから。人間みたいになんでもかんでも手に入れたいとは考えないんだよ」
「……なんだか、人間て嫌な生き物に思えてきた」
「ご、ごめん、悪く言ったつもりはなかったんだ。気分を悪くしたなら謝るよ。それに、そういう風に欲しいと願うことは悪いことではないよ。だから、人間はここまで発達したのだろうし。何より、そう思えることは人間の素晴らしい特徴の一つだと、俺は考えているよ」
薄青はフォローするつもりで言ったのだろうが、それでも実に楽しそうに語った。本当に人間が好きなのだ。状況が状況でなければ、人間世界の訪問を誰よりも楽しんでいただろう。
雪は元に戻ったら、彼に自分の世界を案内してあげたいと思った。
千草は慎重に、それでもすばやく家の裏道から外へ駆け出した。
できるだけ早く走っているつもりだったが、それでもいつもよりかなり調子が悪かった。というより、薬の影響が定着しつつあるのだろう。自分達より人間の体力が衰えていることは初めから知っていた。しかし、それでも頭の中のイメージと身体がかみ合っていないのは苛立たしかった。
かといって、今更元に戻りたいとは言い出せない。千草は走りながら舌打ちした。
もう随分走ったはずだが、後ろを振り返ってみても、まだ出てきた家の形がはっきりと窺えた。そんなに進んでいないらしいことは一目瞭然だった。にもかかわらず、もう息が上がってきた。
「はあはあ……」
千草はだんだん気配を隠すことに集中できなくなってきた。わき腹がやけに痛い。
先ほど藍の部屋で薄青と雪の気配を感じたときは、まだそんなに近づいてはいなかったが、今はどうか分からない。
二人がこちらに出てきた理由は考えるまでもない。自分を探し出して元に戻すためだ。二人が千草を探している間に緋褪が元に戻る薬を作っているのだろう。
千草は二人の気配を探ってみたが、疲れていて上手く捉えることはできなかった。
どこかで少し休んで、息を整えよう。
千草は走りながら辺りを見回して隠れられる場所を探した。
「絶対に捕まるか、」
突然、千草は何かに衝突した。前方に注意を払っていなかったので、もろに衝撃を受けてしまった。
千草はボールのように大きく跳ね飛ばされ、尻餅をついた。
「いたた……なんだよ、もう」
千草が打った箇所を擦っていると、上から聞き慣れた声が降ってきた。
「絶対に、なんだって?」
走っていたため、それまで火照っていた体中の熱が一気に冷めていくのが分かった。
おそるおそる顔を上げると、仁王立ちになった見慣れた顔が見慣れた表情をして自分を見下ろしていた。その後ろには自分と同じくらいの身長の子どもが戸惑うように立ち尽くし、向かい合う二人を交互に見つめていた。
「や、やあ、薄青。久しぶり」
千草は笑顔を引きつらせながら手を上げた。
「そうだなあ。お前が説教の途中で逃げ出して以来だから、かなり久しぶりだな」
腕を組んでそう言う薄青は表情こそは笑顔だったが、口元はぴくぴく痙攣し、こめかみには青筋が立っていた。
雪はもちろん、千草もこれほど怒った薄青を見るのは初めてなのだろうか、二人とも後ずさるように薄青から離れた。
しかし、千草が逃げ出す前に、それ以上の速さで薄青は千草の腕を掴んで立ち上がらせた。そして、どういうわけか、転んだときについた砂を手際よく払い、衣服を整え始めた。千草にはもう腕を振りほどいて逃げる体力もなく、されるがままになっていた。
改めて二人は正面から向き直った。もちろん、腕は離していないが。
千草は最後の抵抗と、薄青を睨みあげたが、腰は引けていた。
薄青はしばらく無表情で千草を見つめていたが、やがてため息を一つき、口を開いた。
「この、大馬鹿!!」
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