7

 二人が家に着くと、父親と思われる人物が建物の前に立っていた。

「どこに行っていた?」

 父親は険しい顔つきで問いただした。どうやらこの人物も千草を雪と間違えているようだ。

 千草は先ほど兄に見せたのと同じように、眉をひそめ唇をかんで俯いたが、問いに答えようとはしなかった。今まで森を出たことのない千草は自分がさっきいた場所がどこかなんて分かるわけがなく、かといって下手に言い繕えば自分が雪でないことがバレるかもしれないと懸念したのだ。

 こういうときはひたすら沈黙するか謝罪するかに尽きる。

 千草が何も言わないので、父親は兄の方に向き直った。

「はずれ森の側をふらついてたんだよ」

 兄は森のあるほうを顎で指しながら答えた。

「どこへ行こうとしていたんだ?」

 父親はまた千草に向き直った。千草は答えない。

「気分転換に散歩してたんだってよ」

 兄がまたかわりに答えた。

「ごめんなさい、もう勝手にサボったりしないから……」

 千草はたじろぎながら父を見た。内心ではなかなかの名演技だと自分を評したい気分だった。

 父親はため息を一つついて言った。

「話は大体藍から聞いている。お前の気持ちも分からないではないが、仕事はきちんとしなさい。家でのルールだろう。お前一人が怠ると皆が迷惑するんだ。代わりにしておいてくれた兄さんにちゃんと礼を言っておきなさい。それから、サボった罰として、雪は一週間餌やりの当番をしてもらう。いいな」

 千草は俯いたまま頷いたが、内心ではイライラしていた。

 この人も薄青と同じようなことを言う。あっちの方がもっとしつこいけど。

 父親は今度は藍に向かって言った。

「藍、お前も自分の名前を呼ばれたからって、いちいち雪に当たるな。今回のことはお前にも原因があるんだからな」

 兄は自分に矛先を向けられたので、ふてくされたように口を曲げたが、やがて、分かったとだけ答えた。

 千草はちらと兄のほうを覗き見た。

 どうやら"兄"の名前は「藍」というようだ。しかも、どういうわけか自分の名前があまり好きではないらしい。

 千草はこの少年に興味が湧いた。


「家出?」

 薄青は雪をおぶさり、木々を跳び越えていた。そのまるで猿のような身のこなしに、最初雪は唖然とした。跳躍力が半端じゃない。

「家出ってわけじゃないけど、あんまり家にいたくなかったんだ。それで、とりあえず家から離れようと走っていたらこの森に着いていたんだ」

 雪はこの森に入る前の出来事や、この森に入った理由などを薄青に説明した。人間の子どもがこの森に入ることは珍しいので、薄青が疑問に思ったためだった。

「じゃあ、君は君の"兄役"と喧嘩をしたから出てきたんだね」

「"兄役"?」

 薄青は確認するように雪に言ったが、雪は薄青の使った言葉に首をかしげた。

「ああ、"兄役"というのは、俺達のなかでは君の兄さんのような存在のことを言うんだよ。俺達は君達みたいに"親"から生まれてくることはないんだ。俺達は自然派生、というか気がつくといつのまにかそこに存在する生き物なんだよ。分かりづらいかな」

 薄青は首をかしげたまま話を飲み込みきれずにいる雪を見て苦笑した。

「とにかく、それだから子どもを生むこともないし、"親子"という関係も存在しない。けど、派生したばかりだとこの世界のことは何も分からないから、そういう者たちにはこの世界のことをいろいろ教えるための"家役"が二人つけられるんだ。それが"兄役"と"姉役"。俺とさっき君を見つけた緋褪は千草の"家役"なんだ」

 雪は半分分かったような分からないような気分だった。今まで図鑑で見た妖精たちの中でそんな説明がされているものはなかったのだ。

 簡単に言うと、薄青たちは千草の保護者にあたるということだろうか。

「だったら、二人は千草の育ての"親"ってことじゃないの?」

「育ての親? なんだいそれは?」

 質問を質問で返され、雪は戸惑いながら薄青に説明した。

 すると薄青は納得したように、

「へえ、人の世界にはそんなシステムがあるんだ。確かに俺達と似ているね」と言った。「それなら俺達も千草の"親"といえるね。俺達が"兄役"や"姉役"と呼ぶのは、対象者を保護しながら共に成長するっていう理由かららしいけど、やっぱり人間はおもしろいな」

 そういう薄青の顔はすごく楽しそうだった。

「薄青さんも人間になりたいの?」

「薄青でいいよ。俺は人間になりたいんじゃなくて、人間のことを知りたいんだよ。君に言うのもなんだけど、人ってすごく興味深い生き物だからね。今までもたくさん人間について調べたりしてきたんだけど、そのせいで千草まで余計な知識が身についてしまってね。俺と同じで好奇心が旺盛だから人間の世界というものに興味を持ったんだろう。君がこうなってしまったのは俺のせいだ。本当にごめんね」

 薄青が申し訳なさそうに謝ったので、雪は慌てて首を振った。

「ううん、そんなことない。ちっとも警戒しないで飲んでしまった僕にも非があるんだ。それに、僕も妖精に憧れていたから、正直、ちょっとだけ嬉しいんだ」

 呑気なこと言ってる場合じゃないんだけど、と雪は苦笑いした。

 そんな雪を見て、薄青も微笑んだ。

「君は少し千草に似ているね」薄青が唐突に言った。

「そう、かな」

 雪は先ほどの千草とのやり取りを思い出してみたが、自分と似ている気はしなかった。

「うん、薬のせいだけじゃなくて、雰囲気というか、やることが似ているな、と思ってね」薄青は苦笑しながら言った。「実は、俺と千草も今喧嘩中でね。あいつも君と同じように家出中だったんだ」

「そうだったんだ。どうして喧嘩したの?」

 僕は家出じゃあないんだけどな、と雪は思ったがそれは口に出さなかった。

「原因はあの実だよ。あれは本当は俺達が手を出してはいけないものなんだ。あの実とそれがなっている木は俺たちの象徴みたいなものだから。それなのに、あの馬鹿はどういう手を使ったのか、いつのまにか実を盗んできて、悪びれもせず俺達に自慢してきたんだ。あの実についてはいつも厳しく教えていたのに」

 当時のことを思い出したのか、薄青は怒り口調になって言った。

「それまで実を盗んできたものは誰一人としていなかったから、俺も少し慌てていてね。さすがに叱りすぎたと思った頃には、もう千草は実と共に姿を消していた。ようやく見つけたと思ったら、すでに手遅れだったてわけさ」

 薄青はもう一度雪のほうを向いて詫びを言った。

「薄青は千草と仲直りしたいの?」

 雪は肩から顔を乗り出して聞いた。

「そうだな、向こうが許してくれるならね。実を盗んだことは許せないが。君は? 兄さんとは仲直りしたくないの?」

「そうそう許してはくれないよ。それに、最初につっかかってきたのは向こうなんだ。あっちから謝ってくれないと」

 雪は唇を尖らせた。

 そんな雪を見て、薄青は小さく笑った。

「そうだね。喧嘩って、その原因を作ったほうが先に謝るべきだと思うほうが普通だけど、相手にだって他人には分からない意地だとか理由があったりするからね。どちらかがその意地を折らないといつまでも仲直りできないんだよな」

 その言葉は雪にというより自分自身に言っているような感じがした。しかし、薄青の言うことには雪も納得した。

 やっぱり、自分から謝るべきなんだろうか。

「そういえば、君の兄さんは自分の名前が嫌いだと言っていたけれど、なんていう名前なんだい?」

「藍。藍色の藍だよ」

 本人の前でこんなに名前を連呼したら殴られるじゃあ済まないだろうな、と雪は心のなかで思った。

「へえ、綺麗な名前じゃないか。どうして嫌っているんだ?」

「女っぽいからだよ。僕も雪って女っぽい名前をしているんだけど、僕たち兄弟は昔からこの名前のことで周りの子ども達にからかわれていたんだ」

「君はあまり気にしてなさそうだけど」

「僕は自分の名前をそこまで嫌っていないから。でも、兄さんの気持ちも分からなくないんだ。僕の名前も女っぽいし」

 雪は小さくため息をついた。

「そうかい。俺は好きだけどな。藍も雪も。藍は藍色、青を創る元となる色だ。全ての青は藍から始まる。俺や千草の名前の元でもある藍色。空の色も水の色も、全ての青が帰る壮大な色。

それに、雪は雪白、穢れのない純白色だ。何色にも属さず、何色にも侵されない孤高の色。それなのに、何色でも受け入れる広大な器を持つ色。どちらの名前も、男にこそふさわしいと思うけどな」

 唄うようなその口調に、雪はまどろみかけた目を一生懸命開けながら言った。

「なんだか恥ずかしいな。今まで自分の名前をそんな風に言ってくれる人がいなかったから」

 薄青は微笑んで、自身を持てばいい、と言ってくれた。

「さあ、もう出るよ」

 そう言うや否や、二人の視界が急に開けた。目いっぱいに空が広がる。雪が下を見てみると、二人は地上からかなり離れた空中に浮かんでいた。

 落ちる――。

 雪の背中がぞくりとしたのと落下し始めたのとはほぼ同時だった。

 雪は目をギュッと閉じ、薄青の肩に爪を食い込ませるくらい強く掴んだ。胃がひっくり返りそうで気持ち悪かった。

 薄青はなんでもないといった風にすとん、とつま先から地上に着地した。まるで体重が全くないみたいだった。

「死ぬかと思った……」

 薄青とは裏腹に、雪は顔を真っ青にしてずるずると背中を滑り落ちた。

「ああ、ごめん! もう少しゆっくり降りればよかった」

 そういう問題ではないとか、どうしてわざわざあんな高いところから出るのだとか、思うことはたくさんあったが、雪は薄青に支えられながら立ち上がるのがやっとで、何も言い返すことはできなかった。

「俺達が外に出るときは、専用の出口が作られるんだけど、その出口から間違えて人間が入ってくると厄介だからね。だから、出口は大抵木の上のほうに作られるんだ」

「僕は下から入ってきたけど」

「それはたぶん、君が子どもだからだよ。あそこの結界って俺達と人間の大人には強い効果があるけど、人間の子どもにだけは効きが悪いらしくてね」

 ずっと昔にも何度か人の子どもが迷い込んできたことがあったそうだ、と教えてくれた。

 薄青はキョロキョロと辺りを見回した。

「さて、ここからは君の方が詳しいだろう。ここはどの辺だか分かるかい」

 雪も薄青と同じように辺りを見回した。そこは先ほど森に入り込んだ場所とそう大差なかったが、少しだけズレていた。

「僕、あそこから入ってあそこに着いたんだけど、千草も同じ方角に出て行ったから、森のどこかで曲がったりしていなければ、たぶんこの辺りから外に出たと思うよ」

「じゃあ、まだこの付近にいるかな」薄青は形の良い顎に手をあてて言った。「千草の気配は感じないか? 君ならたぶん千草がどこにいるのか分かるはずだ」

 雪はもう一度慎重に周りをぐるりと見回した。

「うーん、よく分からないけど、たぶん、こっち?」

 雪は自身なさげに中空を指した。

「分かった、行ってみよう。この辺りには詳しい?」

 薄青は雪の言葉をすっかり信じているようだった。雪はコクリと頷いた。

 それじゃあ行こう、薄青は雪を促して歩き始めたが、不意に立ち止まると、落ちかけている太陽をチラと見やり、眉間に皴を寄せた。

「日が落ちる前に見つけないと。薬の効果が二人に定着する前に」

 二人は雪の家がある方角に向かって歩き出した。

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