6

 それは女の人の声だった。少年が現れた方向から聞こえた。

 雪は慌てて目から零れ落ちる涙を止めようとしたが、手を目にあててぎょっとした。

 涙を拭ったはずの手は濡れていなかった。それどころか、丸い水晶を形作って雪の手に乗っている。

 雪は恐ろしくなって手についた涙を振り払った。その間にも水晶の涙はポロポロと零れ、足元に落ちた。

 なんとか止めようと躍起になったが、涙は止まるどころかどんどん勢いを増していくようだった。

 と、目の前の茂みが音を立てた。雪がそちらに目をやると、そこには髪の長い綺麗な女の人が立っていた。雪や兄よりもずっと年上に見える。

 女の人は紅色の瞳を見開き、驚いた様子で雪を見つめた。そのまま何も言わず雪のすぐ側にある道具達をざっと一瞥するとまた少し驚き顔になったが、すぐに状況を察した様子で雪に近づいた。

 しかし半ばパニックになっていた雪は、その女の人の存在もが恐ろしく感じ、逃げるように後ずさりした。

「恐がらないで。大丈夫だから」

 女の人は逃げようとする雪の肩をそっと掴むと、自身のほうへ引き寄せ、額にキスをした。

 額につめたい感触がしたかと思うと、話すことができないほど勢いを増していた涙の量がいつの間にか半減していた。雪はしゃくりあげながら女の人を眺めた。

 女の人は少しだけ微笑むと、雪の頬に冷たい手をあてた。

「困ったことになったわね。とにかく、その涙を完全に止めないと」

 そう言って、頬に当てた手で雪の涙をすくった。

 雪は急に恥ずかしくなった。知らない人の前でこんなに泣くことなど今までなかった。

 女の人は静かに立ち上がると、茂みの中に向かって言った。

「薄青、こちらに来て。大変なことになったわ」

 その声は誰かを呼ぶというより、自分自身に呟くような声だった。

 突然、女の人の側の茂みから今度は男の人が顔を出した。男の人も若いが女の人よりは年上に見えた。

「見つかったのか?」

 薄青と呼ばれた男の人は女の人に聞いたが、女の人は首を振り、雪のほうを見た。それにつられて薄青も雪を見つめた。

「千草? ……じゃあないな」

 薄青は雪に近づき、雪と側にある切り株の上を交互に見た。

「遅かったか……」

 薄青は悔いるように呟くと、まだ涙を流したままの雪に向き直った。

「君は人間の子だね?」

 雪は人間という言葉にこくこくと頷いた。それと同時に彼らもまた妖精なのだと察した。

 薄青は質問を続けた。

「君はこの実で作ったものを飲んだんだね?」

 雪はまた素直に頷いた。

「君とこれを飲んだのは、君と同じくらいの年の黒髪でスミレ色の目をした少年じゃないか?」

 確認するような薄青の言葉に、雪は目を瞠って頷いた。

 薄青はありがとうと微笑み、雪の頭を撫でた。その手は兄のものとそっくりだった。つい先ほどまでいがみ合っていた兄が今は恋しく感じた。

 薄青は女の人のほうへ振り向いて言った。

「間違いない、千草だ」

 千草というのがあの少年の名前だろうか。雪は泣き疲れてぼうっとした頭で考えた。

「まさか、本当に人間になったというの?」

 女の人は眉をひそめて言った。

「この子がその証拠だろう。ヒトの涙は液体のはずだ。この子が本当に人間だったら、俺達と同じ涙は流さない」

「でも、アレはただの噂で、今まで実際に試した者はいなかったのよ」

「じゃああの噂は真実だったってことだ」薄青は少しイライラしたように言った。

「とにかく、今俺達が優先すべきなのは、この子を無事に人間に戻すことだ。そのためにはまずあの馬鹿を見つけないと」

「その前にその子の涙を止めてあげて。本当に私たちと同じ存在になってしまうわ」

 それまで言い合いをしていた二人が突然こちらを向いたので、雪はびくりとした。それにつられて涙が数粒零れ落ちた。

「そうだな。不慣れだと一度出たら一人で止めるのは難しいだろう」

 薄青は雪と向かい合わせに座ると、両手で雪の頬を掴んだ。

「ゆっくり目を閉じて。目に溜まっている涙を全て押し出してしまうように。それから、目の奥に溜まっている涙をもっと奥に戻すイメージを浮かべて」

 雪はどこかで少しは警戒するべきだと思いながらも、抵抗することなく男の言うことに従った。目を閉じて、イメージを浮かべる。

 すると、瞼に冷たい風が吹きかかった。その風があまりにも心地よいので、雪は危うくそのまま眠ってしまいそうになった。

「目を開けて。もう止まったよ」

 言われるままに目を開けると、蒼色の瞳をした綺麗な顔立ちの男の人が目に入った。彼の言ったとおり、涙ももう止まっていた。

「ありがとう」

 雪は薄青に礼を言ったが、当の本人は苦笑して、礼を言われる立場じゃあないよ、とだけ言って立ち上がった。

「それじゃあ、俺はこの子を連れて千草を探してくる。今のアレを見つけられるのはこの子だけだからな。外へ出る許可はもう取ってある。緋褪(ひさめ)はその間に実をもらってきて、薬を作っておいてくれ」

「分かったわ。あの子をお願いね」

 薄青が頷くのを確認すると、緋褪と呼ばれた女の人は音もなく草むらへ姿を消した。

 薄青は未だ座り込んだままの雪の前にしゃがみ込むと、子どもを諭すときのように目を合わせて言った。

「君が元のヒトに戻るためには、まず君と種を交換した千草を探さなくちゃならないんだ。しかし、ヒトになったアイツを見分けることができるのは君だけなんだ。だから、一緒に探してくれるね」

 雪は少したじろいだ。千草という少年を探すことに抵抗があるのではない。元に戻る方法があるのならば、協力を惜しむつもりはなかった。しかし、雪はまだ先ほどの恐怖を覚えていた。

 千草は人間になったのだから、おそらくこの森の外へ出て行ったはずだ。その彼を探すということは森の外へ出るということ。

 雪は千草が出て行った茂みを見やった。無意識に腫れている手をもう片方の手でさすった。

 雪の心情を察したのか、薄青は安心させるように目を細めた。

「心配ないよ。森の外へ出られるよう結界は外してもらってある。ここの結界は不必要に強い作りになっているけど、許可さえ取れば外して外に出ることはできるんだ」

 薄青は最悪の事態を想定して、緋褪に呼ばれた後、ここに来る前に許可を取ってきたのだという。

 雪は先ほどのことを思い浮かべた。彼が呼ばれてからここに来るまでにそんなに間があっただろうか。

 雪は半信半疑だったが、なぜか薄青は信用できる人物だと確信できた。あの雪の頭を撫でた手が兄のものと似ていたからかもしれない。

「分かった。協力するよ」

 いつまでも落ち込んではいられない。雪は強く頷いた。

 薄青はありがとうと言って、また雪の頭をやさしく撫でた。


 千草は眉間にシワを寄せながら、道が続くままに歩いていた。

 ようやく人間になれたというのに、気分はあまり良くなかった。森を出たばかりのときは、それまで見たことの無い新鮮な風景に目を輝かせたが、歩いても歩いても同じような光景ばかり続くので、いい加減飽きてしまったのだ。

 それに、ぼーっと歩いているうちに薄青とのやりとりを思い出してしまった。

 千草の機嫌はますます悪くなる一方だった。

「何か面白いものがないかな」

 千草はつまらなさそう呟いた。

 そのとき、背後から誰かが叫ぶ声が聞こえ、千草はびくりとした。それがなぜか薄青の声に聞こえたからだ。

 振り返ってみると、そこにいたのは薄青ではなく、人間の少年だった。千草はほっと息をつくと、また歩き出した。

 しかし、少年はまだ何かを叫んだままこちらに近づいてきた。どうやら自分のことを呼んでいるらしいと気付いた千草はなんだろうと思い、立ち止まって振り返った。そして、すぐにそれを後悔した。

 自分の方へ歩み寄ってくる人物は眉を吊り上げ、目を鋭くさせていた。その表情は薄青が本気で怒ったときの顔に負けず劣らず恐ろしかった。

 ああいう顔をしている者は、妖精だろうが人間だろうが近づかないほうがいいのだと千草は直感したが、既に遅かった。

「そこを動くなよ、雪」

 少年は怒気をまとった声を発しながら千草のすぐ側までやって来た。どうやら千草を誰かと間違えているらしい。

「君、だれ? 悪いけど、人違いじゃないかな」

 千草は少年の怒りなど少しも気にならない様子で聞いた。それがさらに少年を苛立たせたのか、突然千草の頬に衝撃が走った。

「なにするんだ!」

 千草は殴られた頬を押さえながら少年を睨みつけた。

「それはこっちの台詞だ! 怒るのも出て行くのもお前の勝手だけどな、やることはやってから行け! お前が仕事をサボって出ていったから、俺が父さんに怒られたんだ。おまけに餌やりまで代わりにさせられて、あげくにお前を探してくるよう言われて、こっちはいい迷惑なんだよ!」

 千草は見知らぬ少年の理不尽な怒りに腹を立てたが、ふと思い当たったことがあった。

 もしかして僕のことを彼だと思っているんじゃないか。

 彼とはもちろん、先ほど薬を一緒に飲んだ少年のことだ。名前を聞くのを忘れていたが、目の前の少年が雪と呼んでいたから、おそらくそれがあの人間の子の名前なのだろう。

 千草は少し面白くなってきた。目の前の彼は雪とどういう関係なのだろう。直接聞いてみたい気もしたが、そうすればまた彼の気を高ぶらせるだけだろうと踏んだ千草は、慎重にいくことにした。

「ごめんなさい、サボるつもりはなかったんだ。ただ、ちょっと、気持ちを落ち着かせたくて……」

 千草は顔を歪ませ、あからさまに反省しているという表情を作り出した。

 イタズラ好きの千草はこれまで何度も年長の者たちを怒らせてきたが、その度に見事な演技力でやり過ごしてきた。これが通じなかったのは薄青と緋褪くらいのものだ。

 当然、この少年にもその効果はあった。

 少年は眉をひそめたまま項垂れている千草を一瞥すると、さっきまでの怒りはどこへ行ったのか、あっさりと踵を返してもと来た道を歩き出した。

「お前も早く来い。父さんが待ってる」

 少年はその後、千種には聞こえないように何かを呟いたが、千草はしっかりとそれを聞き取った。

――馬鹿弟。

 それはあきらかに千草を罵倒する言葉だった。声が小さかったのは、どうせ後で父親に怒られるのだし、反省しているのだからこれ以上落ち込ませる必要はないと考慮してのことだろう。

 しかし千草ははっきりと聞き取った。かといって怒りは湧かなかった。むしろ、自分達の関係が明確になったのですっきりした。

 "弟"というものは知っている。薄青が以前教えてくれた。"弟"とは薄青で言うところの千草のような存在なのだと。

 ということは、逆に言えば少年は雪にとっての薄青、"兄役"のような存在なのだ。人間たちの言葉ではそれを"兄"と呼ぶことも千草は知っていた。

 千草たち妖精には理解しがたいが、人間には"親"がいることも知っている。少年が言っていた「父さん」もその一つだろう。本当は"父"というが、普段は「さん」などという敬称をつけて呼ぶのだ。

 千草はこれまでに得た人間に関する知識を次々と思い起こした。頭の中でそれらをまとめる。

 千草はだんだん離れていく"兄"の背中に向かって呟いた。

「うん、今行くよ。兄さん」

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