5

「ねえ、この実験の目的ってやつ、教えてあげようか?」

 唐突に少年が言った。

 今まで雪が何度聞いてもはぐらかされてばかりだったので、雪は意外に思うのと同時に少し不安になった。しかし、もう飲んでしまったのだから、目的を聞いても聞かなくても同じ結果になるのだと思いきり、半ば怖気ながらも頷いた。

 少年は雪の返答に満足そうに微笑んだかと思うと、またもやはぐらかすように話題を変えた。

「ところで、目はかゆくないかい?」

 少年は雪の目をじっと見据えて言った。

 どうしてそんなことを聞くのだろう? 確かに、先ほどかなんだか目がむずむずするような気がしていた。

 雪は何度かパチパチと瞬きをした。

「ゴミでも入ってる?」

 雪は少年に診てもらおうと顔を近づけたが、当の本人は可笑しそうに首を横に振った。

「それは実験が成功した証だよ。僕もかゆくなってきた。君なんか、もう外から見ても分かる」

 雪は自分の目に何か異常が起きたのではないかと不安になった。試しに触ってみたが、以前と変った様子はなかった。

 訳の分からないまま少年のほうを見やると、雪は驚いてあっと声を上げた。

 それまで、少年の瞳は硝子のように艶やかなスミレ色だった。しかし、今はほんの少しみずみずしさを持った茶色の瞳だった。その色はまるで僕のそれと同じだった。

「瞳の色が変わってるよ!」

 しかし、雪の言葉にも少年は少しも驚いた風はなく、むしろ初めからこうなることを予想していたような反応だった。

「そりゃあそうさ。そうでなくては困る。君の瞳だってとっくに変わっているよ」

 少年は言いながら木箱から小さな鏡を取り出し、雪に渡した。

 雪は慌ててそれを覗き込むと、言葉を呑んだ。

 雪の瞳は硝子のように光り輝くスミレ色をしていた。

「一体どうなって、」

 雪は顔を上げ、少年に尋ねようとしたが、目の前にいる少年を見て、言葉が途切れた。

 雪の目の前には、自分と同じ姿をした少年がいた。

 雪はまたあっと声を上げたが、次の瞬間には元の少年の姿に戻っていた。

 見間違いかと思ったが、雪と少年はそれほど似ている容姿ではない。瞳の色のせいだろうか?

「どうかした?」

 少年はわざとらしく聞いてきた。

「あ、いや、なんでもない。瞳の色が僕のにそっくりだったから、一瞬見間違えちゃって」

「見間違えたって、僕が何に見えたんだい?」

 やけに落ち着き払っている少年を見て、なんだか自分が子どもっぽく思えてしまい、雪は急に気恥ずかしくなった。

「その、君が僕に見えたんだ」

 俯きがちにそう呟く雪とは裏腹に、少年はまた満足そうに微笑んだ。

「それは良かった。じゃあ、実験は成功だ」

 実験という言葉に雪は顔を上げた。そういえば、まだこの実験が一体何なのか聞いていなかったことを思い出した。

「ねえ、この飲み物って一体何なんだ? 実験て? いい加減教えてくれてもいいだろう」

 少年は詰め寄る雪を無視して立ち上がると、ポンポンとズボンについた土を払った。

「そうだね、今までは君が怖気づいてあれを飲む前に逃げ出すかもと思って何も言わなかったけど、もう充分だな」

 先ほどと変わらない親しみのある話し方なのに、今はなんだかすごく冷たいものに感じられた。

 不安の渦がじわじわと雪の中で大きくなっていった。

「一体、何を飲ませたんだ?」

 少年はやけにうれしそうに答えた。

「種族を交換する薬さ」

「種族を、交換? どういう意味?」

 よく理解できていない雪を見て、少年は眉をひそめた。

「なんだ、まだ気付いていないのか? 人間ていうのは随分鈍感な生き物なんだな。まあ、いいや。教えてあげるよ。僕は人間じゃあない。君とは違う種族の生き物なんだ。僕たちには"人間"みたいな名前は無いんだけど、そうだな、君たちのいうところの"妖精"ってやつかな」

 あまりにも簡単にそう言う少年に雪はなかなかついていけなかった。

「妖精? 君が?」

「そうだよ」

 雪は今初めて少年とあったかのように、じろじろと彼の全身を見つめた。

 少年の姿かたちは雪と大差はない。腕も足もちゃんと二本ずつついているし、目や口も余分なものはなく、必要な数だけがきちんと整えられて顔の上に乗っている。雪と違うところは驚くほど肌が白いということくらいだ。

「幻想動物図鑑」をすっかり熟読していた雪は、妖精には人間の姿をしたものもいることは知っていたが、それでも目の前の少年はあまりにも人間に似すぎていた。

 からかわれているのだろうか。しかし、これまでの少年とのやりとりを思い出すと、確かにいくつかおかしな点はあった。

 雪は改めて少年をよく見た。じっと見つめすぎたのか、時々少年の顔や身体がダブって見えた。先ほどのように顔が雪自身のものに見えたり、肌が褐色がかって見えることもある。

 雪は目を擦りながら言った。

「信じられないな。本当にいたなんて。まるで本物の人間みたいだ」

「そりゃあそうさ。これから人間になるんだから」

 雪は目を擦っていた手をはたと止めた。

「人間になる?」

「言ったろう。僕たちが飲んだのは種族を交換する薬だって。君と種族を交換したから、僕はもうすぐ人間になるんだ」

 少年はうきうきと言ったが、ようやく話を飲み込むことのできた雪は驚きと嫌な予感でいっぱいだった。

「ちょっと、待ってよ! 種族を交換する薬って、じゃあ、僕は妖精になるってこと?」

「ああ、うん。君には悪いことをしたよ。でも僕が人間になるにはこうするしかなかったんだ」

 少年は素直に謝ったが、雪は少しも謝られている気がしなかった。

「まあ、妖精も慣れれば楽しいものだよ、僕はもうごめんだけど」

 少年の言葉は、最後のほうはなぜか少し怒気を含んでいるようだった。

 雪は嘆くべきか怒るべきか見当がつかなかった。いくら少年に騙されたとはいえ、薬を飲んだのは、紛れもなく自分のせいだ。

 どうして少しくらい警戒しなかったのだろう。

 雪が遅すぎる後悔をしている間にも、少年は自分の姿を確認するように鏡と向き合っていた。

「それじゃあ、僕はさっそく薬の効果を試してみてくるよ。人間になったら、やってみたいことがたくさんあったんだ」

 君も楽しんで、と少年は歌うような調子でそう言うと、雪がやって来た茂みの中へさっさと入っていってしまった。

「ま、待ってよ!」

 雪は少年を引きとめようと茂みに入ったが、目の前いっぱいに広がる茂みのせいで視界が悪く少年の姿は見つけられなかった。

 それでも雪は少年を見つけ出そうと茂みをかき分けたが、一歩踏み出したあたりで、突然バチリという音と、手に痺れるような痛みが走った。

「なんだ、今の?」

 慌てて引っ込めた手をさすりながら、雪は目の前の景色を凝視した。特に変った様子はない。

 雪はもう一度手を前の方へ差し出した。すると、またもや電気の走るような音と痛みを感じた。他の方へ進んでみようとしたが、見えない電気の壁のせいで森の外へ近づくことはどうしてもできなかった。

「どうなっているんだ? 来るときは何ともなかったのに……」

 これも妖精になったせい?

 そういえば少年に最初に会ったとき、彼はここは境目付近だとかなんとか言っていた。境目って、人間と妖精の?

「妖精はここから出られないようになっているのか?」

 雪は辺りを見渡した。どこもかしこも濃淡のついた緑に覆われている。どこが境目なのかさっぱり分からない。

 雪は指先の痺れを強く感じた。見てみると、少し腫れていた。もう一度目の前の茂みを見やる。

 雪は急に見えない電気の壁が恐くなり、じりじりと後ずさりした。

 不意に、背中に当たる草の感触がなくなったと思うと、先ほどの空間に出ていた。切り株の上にごちゃごちゃと取り留めのないものたちが置かれている。

 一瞬、どうしてこれらのものたちがここにあるのだろうと不思議に思った。が、すぐにほんの少し前のことを思い出した。

 雪は切り株に近づいて砂時計の器を手にして、中を覗いた。もちろん、中身は入っていない。

 雪はなんだか急に心細くなってきた。

 何かが溢れそうになるのを懸命に堪えようとしたとき、どこからか声が降ってきた。

「そこにいるのは誰、」

 またしても不意をつかれた雪はとび上がりそうになった。そして、それと同時に瞳から一粒の涙が零れ落ちた。

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