4
すべての液体が「時間に流れ」てしまうと、少年は液体が溜まっているほうを上に向けた。液体は重力に沿って下に垂れていったが、中心の細い部分で止まり、それ以上下にいくことはなかった。
「どうして下に流れないんだい?」
「そりゃあ時間は後戻りしないからに決まってるじゃないか」
少年は当然のようにそう言い、液体が下に溜まるのを見計らって木蓋を開けた。
「そっちのコップを取って」
少年は雪の側にあるさきほどの漉し機と同じような形の二つの銀コップを指して言った。
雪は念のため底が開いていないか確かめてから、それらを少年に渡した。少年は受け取ったコップを並べると、両手で砂時計を持ち上げ中身をコップに注いでいった。
砂時計が大きいからだろう、その手つきがあまりにも危なっかしかったので、雪は少しでも手助けになるよう手でコップを掴んで動かないようにしてやった。
少年はありがとう、と礼を言って先程より幾分か楽になった様子でそれぞれのコップに注いでいった。
「これで完成だ」
少年はふう、と一息つくと時計をテーブルに戻した。
雪はコップの一つを覗き込んでみた。中の液体は色のほかにも所々変わっているようだった。まず、あれだけ鼻をついていた匂いが薄れている。まろやかになったというべきか。とろみも先程より弱くなった気がする。
コップを揺すってみると、黄金色の液体の中で外から入り込んだ光がゆらゆらとたゆたいながら光輝いた。
太陽のジュースみたいだ。
「飲んでみてもいい?」
雪は耐え切れなくなり、少年に尋ねた。
「まだダメだよ。最後の仕上げがある」
「最後の仕上げ?」
しかし、少年が今完成と言っただろうに。雪は首をかしげた。
少年はそんな雪の心を読み取ったかのように、唇の端を上げて言った。
「さっきも言っただろう。飲む前にやることがあるって。それにこの実験には君がいなくちゃ始まらないともね」
そこで雪はようやくこの"実験"が何の目的で行われているのか、まだ知らされていないことを思い出した。
「ねえ、そういえばこれって何の実験なんだい? どうして僕が必要なんだ?」
しかし、少年は雪の問いにはまともに答えず、飲んでみれば分かるとだけ言うと、コップを二つとも自分の方へ寄せ、雪をも呼び寄せた。
「こっちまできて。僕の目の前まで」
雪は少し不審に思いながらも、少年の前まで移動した。
「何するの?」
「そんなに怯えなくてもいいよ。少し君の涙をもらうだけだから。あ、泣かすわけじゃあないよ。だから、安心して。全然痛くないから」
涙をもらうと言われて雪がさらに警戒心を示したで、少年は慌てて補足した。
それでも雪は意味も分からず、納得もできなかった。
「じゃあ、涙なんてどうやって出すって言うんだい? 嘘泣きは得意じゃないよ。眠くないから欠伸だって出ないし」
「簡単だよ。ちょっと目をつぶっていてくれるだけでいい」
そんなことで本当に出るのだろうか? 雪は眉をひそめたが、少年が急かすので流されるように目を閉じた。
瞼を閉じて深呼吸すると、それまでよりも森の景色が分かるような気がした。澄んだ水と土の匂い。風に揺れる木々の擦れる音。鳥のさえずり。どこかで獣の鳴く声が聞こえる。誰かを呼んでいるようだ。
少年があまりにも静かだからか、雪は一瞬彼のことを忘れそうになった。静かどころか、目の前にいるはずなのに気配すら感じない。
雪はだんだん不安になってきた。本当に彼はここにいるのだろうか。
目を開けてみようか迷っていると、不意に視界が真っ暗になった。目を閉じているのだから真っ暗なのは当たり前なのだが、それまでは外の光で瞼の肉色がぼんやりと見えていたのだ。今はそれすらもない。おそらく目を何かで覆われたのだろう。
雪は少年が側にいることが分かり安堵したのと同時に、今度は別の不安に駆り立てられた。彼は一体何をしているのだろう。
と、突然目の覆いが取れて、少年の声が振ってきた。
「もういいよ、目を開けて」
ゆっくりと目を開けると、やけに視界が明るく感じ、おもわず目を細めた。なんだか目覚めたばかりのようにすがすがしい。
何度か目を瞬きさせて慣れさせていると、少年が笑いながら話しかけた。
「ほら、痛くなかったろう」
確かに痛くはなかったが、それどころか何をされたのかも雪には分からなかった。ようやく慣れてきた目で少年を見やると、彼は両手で器を作っていた。中に何か入っている。目を凝らして見てみると、そこには少量の水が入っていた。
まさかこれが、
「君の涙だよ」
少年はまたも雪の心を読むように言った。
「どうやって取ったんだい?」
少年は答えず、にっと微笑むと、それを左側のコップに入れた。
「さ、次は僕だね」
少年はそう言って自分の目を両手で覆った。先程雪の目を覆ったのは彼の手だったのだ。
少年はしばらく目を覆ったままじっとしていたが、やがて両手で器を作りながら目からゆっくりと離した。少年の手にはビー玉くらいの硝子ボールがいくつも乗っていた。
「それが君の涙?」
「そうだよ。僕たちのはみんなこうなっているんだ」
少年は言いながら、自分の涙を右側のコップに入れ、両方のコップを細長スプーンでかき混ぜた。
「はい、君はこっち」
少年は右側のコップ、彼の涙が入ったコップを雪に渡した。雪はためらいがちに受け取り、中を覗いた。中身はさっきと全く変わっていない。彼の涙は溶けてなくなってしまったのだろうか。ほのかに香る蜜のにおいが鼻をくすぐり、雪はまた喉の渇きを覚えた。
少年は残りのコップを手に取ると、乾杯と言って雪の持つコップを鳴らした。
「せーので一緒に飲もう。いいかい、せーの」
二人は少年の合図で共にコップに口をつけた。冷たい液体が咽喉を潤す。雪は一気にそれを飲み干した。蜜の甘さが体中を巡っているようだった。
「良い飲みっぷり」
少年はニヤニヤしながらそれを見つめた。彼のコップを覗いてみると、すでに空だった。
「自分だって一気に飲んでるじゃないか」
「ああ、思っていたより旨かったものだから、ついね。そっちはどうだった?」
「うん、おいしかったよ。すごく甘かった。こんなジュース今まで飲んだことがないよ」
うれしそうにそう言う雪に、少年は、それは良かったと微笑した。
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