2

 兄が部屋を出て行った後も、雪はしばらく呆然としたままその場に座り込んでいた。

 雪の中では意地と後悔が入り混じり、渦巻いていた。

 自分が言い過ぎたことは否めない。しかし、自分にばかり非があるとも思えない。兄にだって非はある。

 自分の名前を呼ばれたくらいであんなに怒るなんて。

 兄が自分の名前を嫌っている理由は知っている。女っぽいからだ。それをいえば雪もそうなのだが、雪は兄ほど自分の名を嫌ってはいない。大して気にはならないのだ。

 しかし、プライドの高い兄にはそれが許せなかった。

 昔から、雪も兄も名前のことで近所の子供たちにからかわれてきた。女々しいだとか、性別を変えるべきだ、とか。

 そんなことを誰かが口にするたび、兄はその子供を殴りつけた。

 それ以来、兄の名前は近所の子供たちの間では禁句になった。それに連なって、雪の悪口を言う者もいなくなった。

 雪はまだ少し痺れている頬に手を当てた。先程の兄の表情が頭に浮かんだ。

 途端に雪の背筋がぞくりとした。

 兄のあんな顔を見たのは初めてだった。まるで他人を見ている気分だった。

 しかし、その直前の会話を思い出して、雪はまた兄に対する敵対心が体中に広がった。

 雪はギュッと唇を結ぶと、勢いよく部屋を飛び出した。

 そのまま家をも飛び出した雪は、家畜小屋も牧場も素通りして家の敷地外に出た。しかし、そこでも止まることはなく、そのまま道なりに走っていった。

 向かう当てなど無かった。ただ、今兄にだけは会いたくなかった。兄からできるだけ遠ざかりたいと思った。

 雪は一心不乱に目の前の道を走った。

 どれくらい走ったのか、気がついたときには、雪は大きな森の入り口に息を荒げて立っていた。

 その森はとても深く、子ども達は進入を禁止されていた。

 猛獣が棲んでいるとか、一度入れば二度と出ることができないとか気味の悪い噂がいくつもあり、子ども達にとっては恐ろしい場所である反面、好奇心をかきたてられる秘境でもあった。

 そのため、子ども達の間では森に入り無事に出られることができた者は英雄になることができると言われていた。

 もちろん、雪も森のことは良く知っていたが、中に入ったことは一度もなかった。

 雪は呼吸を整えながら目の前に広がる深緑の世界をじっと見据えた。奥にいくほど緑が深くなり、暗くなっていくが、何かが動く気配はない。

 入ってみようか。

 ふと、雪はそんなことを思った。子ども達の噂は雪ももちろん知っていたが、雪にとっては英雄になるというより、ただ単に好奇心にかられたため、というのが思いの理由だった。

 雪は辺りを見回した。幸い、その場には雪以外誰もいなかった。それを確認すると、雪は改めて森の中を覗いた。

 雑然と木々が生い茂っているにも関わらず、雪の周りの木々は、まるで道を作ってやるかのように、綺麗に並んでいるように見えた。道の先を見据えると、そこからひんやりとした冷たい空気が流れてきた。それは、こちら側の空気とは違う、異質な雰囲気を纏っていた。

 雪はその雰囲気に引き込まれるように森の中へ足を踏み入れた。

 森はその大きな腕を広げて小さな来訪者を歓迎した。



 雪は草を掻き分けながらだんだん途方に暮れてきた。

 こんなことをして、一体どうなるのだろう。

 何かを探しているわけでもなく、ただただ森の奥を目指しているだけなのだ。なぜと問われても雪にだって答えは分からない。兄から逃げ出したいだけならば、何もこんな危険な森に入り込まなくてもいいのだ。

 あえて言うなら入ってみたかったから。だったらもう充分進んだのだし、戻っても良いのではないか。しかし、雪の腕は草を掻き分けることをやめようとしなかった。

 さして意味のないことを真剣に取り組むのは子ども特有の行動だが、危険な方向へどんどん向かおうとするなんて、もはやマゾヒスト(この間兄さんが教えてくれた、痛いことや苦しいことを好んでする人の事を言う)のすることだ。

 雪は一端手を止め、後ろを振り返った。雪が入ってきた森の入り口はもうほとんど見えない。わずかな午後の光が木々の間からちろちろと見え隠れするだけだった。

 雪は少し不安になったが、もう少しだけ、とまた草を掻き分け始めた。

 不意に視界が開けた。といっても、草むらのあいだに小さなスペースができていたくらいだったが。

 そこの地面だけ土がむき出しになっており、木や草ばかり目にしていた雪には土の色はすごく新鮮だった。

 その場所の中心には大きめの切り株がぽつんとあった。その切り株の上に何か乗っていた。

「なんだ、これ?」

 雪は天然のテーブルに近づき、しゃがみ込んで覗き込んだ。

 それは雪の見たことの無い実だった。珊瑚色で形も大きさもラグビーボールに良く似ていた。果物だろうか。

 手にしてみると、中身が詰まっているらしくかなり重かった。

 あまり期待はしていなかったが、試しに耳元で実を振ってみると、中からパシャパシャと水のはじける音がした。

 雪は驚いて、実を凝視した。雪はみずみずしい果物を食べたことはあっても、実の中の果汁の音を聞いたのは初めてだった。

 空気が入っているのか。

 そんなバカなと思いながら、雪は実をくまなく調べた。すると、ヘタの付近に切込みがあるのを見つけた。

「なんだ、やっぱりそうか」

 雪は一人で納得したように頷いた。

 おそらく、実に切り込みを入れて中の果肉をくり出し、そこに水でも注ぎ込んだのだろう。注意して見てみると、切り込みの線はヘタの周りを一周していた。切り口がピッタリと合わさっているので、ほとんど切れ目は見えなかった。

 振ったりしていたのに、今までよく蓋が落ちなかったものだ。

 一体誰が作ったのだろう。

 雪は辺りを見渡してみたが、鬱蒼と茂る樹木と草むら以外何も無かった。その草むらも、雪が通ってきたところ以外は、荒らされた様子もなくのびのびと生えていた。

 雪は改めてその実のほうへ向き直ると、試しに蓋をはずしてみようとヘタを引っ張ってみた。しかし、蓋は外れるどころかびくともしなかった。

 開かないと分かると、余計に開けたくなる。それに、たくさん走ったから咽喉も渇いてきた。

 雪は側に落ちていた木の枝を取ると、切れ目に食い込ませようとした。てこの原理を使うのだ。

「なにしてる!」

 不意に降ってきた怒声に、雪はおもわず枝と実を落としてしまった。

 驚きを隠せないまま声の降ってきた方を見ると、雪のすぐ隣に両手で木箱を抱えた同じ年くらいの男の子が立っていた。表情から怒っているのはあきらかだった。

 しかし、それよりも雪は突然目の前に少年が現れたことの方が気になった。

 一体いつどこからやってきたのだろう。

 声をかけられるまで全く気付かなかった。少年の立っている後ろの草むらを見てみたが、掻き分けて出てきた様子はなかった。そもそも、草を掻き分けてきたのなら、音で分かるはずだ。なのに、何の音も聞こえなかった。実を開けることに夢中で聞こえなかったのだろうか。

 雪が呆然と少年を見つめていると、少年は眉間の皴をさらに深くさせて怒気を含んだ声で言った。

「人のものを勝手に触るな」

 そこでようやく、雪はこの実が少年の作ったものであることと、それについて自分が怒られている事に気付いた。

「ご、ごめん……君のだって知らなくて、咽喉が乾いていたものだから」

 少年は雪の謝罪を聞いているのかいないのか、何の反応も示さないまま雪に近寄り、木箱を傍らに置くと足元の実を拾い上げた。

「開けていないだろうな」

 少年は切り口がふさがっているか確かめながら雪に尋ねた。

「う、うん、開けたくても開かなかったんだ」

 そういった途端、雪は余計なことを言ったかと少し不安になった。しかし、少年はニヤリと微笑むと雪の傍らに座り、実を切り株の上に置いた。

「クヌギの蜜をたっぷり塗って接着してあるんだ。ちょっとやそっとじゃ外れたりしないさ」

 少年はそう言うと、傍らに置いた木箱の中をがさがさと掻き分けた。木箱は少年を挟んで雪とは反対の方に置いてあったので、雪の位置からは木箱の中身は見えなかった。

 雪は外れなかった理由に安堵したのと同時に、怒られ損だったことに少し腹を立てた。

 そんなことを少しも気にしていないように、少年は木箱を探りながら雪に話しかけた。

「それにしてもよくこんなところまで来れたなあ。ここは境目付近だから小さなやつらは滅多に近寄らなくて、絶好の秘密基地だったのに。この辺じゃあ見ない顔だけど、君どこの子?」

 森に入ったことの度胸を認められたのだろうか、さっきとは打って変わって態度が親密になっていた。雪は少年の機嫌が良くなったので、少し嬉しくなった。

「僕もこのあたりに住んでるんだよ。森を出た道をずっと東へ行ったところ突き当たり。君の方こそ見たことないけど、違う学校の子?」

 雪は何気ない風に言ったつもりだったが、少年は何が気になったのか、手を止めてこちらに振り返り、また眉をひそめた。

「森を出た……? 君はこの森の向こうから来たのか?」

 怒りというより戸惑った様子で聞く少年につられ、雪も意味もなく不安になってきた。

「う、うん、この向こうから……」

 雪は自分の背後を指差した。そこの草むらは雪が通ってきた名残で、所々折れたり曲がったりしていた。

 少年は雪が指差したほうをまじまじと見つめ、それから同じように雪を見つめた。

 こんなにじろじろ見られるのは初めてで、雪は不安と恥ずかしさで目を合わせられなくなった。

 少年は相変わらず雪を見つめたまま、確認するように呟いた。

「じゃあ、君は人間なんだね?」

 雪は質問の意図が読めなかった。どうしてそんな当たり前のことを聞くのだろう?

 ためらいがちに雪が頷くと、少年は硝子みたいな目を大きく開き、雪の腕を掴んだ。そして、嬉しそうにこう言った。

「君を待っていたんだ!」

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