flower children -妖精の飲み物-

朝日奈

1

 がさり。

 自分の身長よりも背の高い茂みをかき分けて前を進んでいた雪は、近くで茂みの擦れる音を聞いてはっとした。

 後ろを振り返ってみたが、誰かが自分を追ってくる気配はない。

 雪はほっと息をつくと、改めて茂みをかき分ける作業を始めた。



 事の起こりはほんの半刻ほど前。

 雪は家でベッドに寝転びながら本を読んでいた。昨日、学校で借りてきたもので、大きく重い本だった。硬い表紙には「幻想動物図鑑」と書かれている。

 その本は学校の図書室の中に納めてある本の中で雪のいちばんのお気に入りだった。もう何度借りたか分からない。

 図鑑にはカラーで描かれたたくさんの幻想動物の絵と、それにまつわる歴史や目撃情報などの詳細が載っていた。

 まだそう多くの言葉を習っていない雪はその難しい文章にはあまり興味がなかった。しかし、一頁のおよそ半分を使って大きく描かれた幻の動物達の絵は、雪の心を充分に魅了した。

 雪にはもうどの頁にどの動物が載っているかすっかり記憶していたが、それでも頁をめくるときは、何が出てくるのかドキドキしていた。

 つるつるとした紙をめくると、色とりどりの妖精たちの絵が目の前いっぱいに広がった。

 妖精にはいろいろな種類がいるので、数頁に渡って紹介されていた。

 雪はゆっくり頁をめくりながら、一つ一つの絵を眺めた。

 姿かたちの違う妖精たちは、どれも雪の目を惹きつけて離さなかった。

 人の姿をしているもの、家畜の姿をしたもの、人と家畜がない交ぜになった姿をしたもの――。

 雪はまるで自分が妖精の世界に紛れ込んだような錯覚に陥った。

 しかし、そんな幻想的な気分はそう長くは味わえなかった。

 部屋の外から足音が聞こえた。こちらに向かってくる。

 足音からそれが兄だと察知した雪は、急いで本を閉じ、ベッドの中にもぐりこませ、自分は居眠りをしているふりをした。

 雪が顔を布団に沈めたのと、ドアが開いたのはほぼ同時だった。

 雪は狸寝入りをしながら耳をそばだてた。こちらに向かってくる気配がない。兄はドアを開けたままその場に立ち止まっているのだろうか。

 いつもなら、雪が寝ているのを見るなりたたき起こすのに、今回に限って何もしてこない。それどころかドアを開けてから物音一つしない。

 兄じゃなかったのだろうか。

 雪は様子を見ようと顔を上げようとした。

「いつまで狸寝入りしてるつもりだ? 起きてるのは分かってるんだよ」

 突然、頭上から声が降ってきたので、雪はびくりと身体を震わせた。

 恐る恐る顔を上げるとベッドのすぐ側に兄が立っていた。

 兄はやっぱり、といった顔で雪を見下ろしていた。

「廊下まで聞こえてたぞ、お前がバタバタ騒いでる音が」

「何か用?」

 雪は狸寝入りしていた件には触れず、そう聞いた。

「用?」兄は眉をひそめて眼を鋭くした。兄の機嫌が悪くなった証拠だ。

「お前、今日家畜に餌をやる当番だろう。もう昼すぎなのに、えさ箱の中は空だったぞ。さっさと行ってやってこい」

 そういえば、忘れていた。

 面倒だとは思ったが、餌をやらないと今度は父さんに怒られる。雪は身体を起こした。

「気づいたのなら、藍がやってくれれば良かったのに」

 口の中で呟いたつもりだったが、聞かれてしまったらしい。突然、わき腹に鈍い痛みが走り、雪はまたベッドに倒れこんだ。

「俺を名前で呼ぶなって言っただろう」

 雪はわき腹が痛むのと兄の静かだが凄みのきいた言葉に気圧されて、ベッドにうずくまったまま何も言い返せなかった。

 雪が倒れこんだことで布団がずれたのか、隠していた本が顔を現した。

 それに目ざとく気づいた兄は、雪がベッドの中に戻すよりも先に奪い取った。

「返せ!」

 雪は兄に飛びついたが、羽虫をあしらうように軽々と雪を振り払った。

「お前まだこんなものを読んでいるのか? この間も読んでいただろう」

「兄さんには関係ないだろう」

 雪は本を取り返そうと躍起になったが、身長の高い兄に本を高々と上げられては取り返しようもなかった。

 兄は本を上に掲げたまま、パラパラと頁をめくった。

「こんないもしない生物なんか眺めたって意味ないだろうに。こんなもの読むくらいならもっとマシなもの読めよ」

「い、いるよ! きっとどこかに隠れているんだ、実際に見た人もいるって書いてあるだろう!」

 兄は未だ本を掲げたまま珍しいものでも見るように自分に食いついている弟を見やった。

「お前、正気で言っているのか?」

 雪は兄に少しでも抵抗したくてそう言ったのだが、自分の立場をますます悪くしてしまった。

 実際のところ、これらの幻想動物に憧れを抱いたことはあっても、実在するかと問われれば怪しいものだった。

 それでも、いて欲しいという想いは大いにあった。もし自分の側に彼らが現れれば、喜んで親しくなるだろう。

 そんな雪の心情をどう受け取ったのか、兄はふっと口元を緩めた。

「お前って本当におめでたい奴だな。こんなもの、本当にいるわけないだろう。今時こんなものを信じている子どもはお前くらいのものだ」

 兄はそう言って、口を曲げている雪の頭をバシバシ叩いた。力を抜いていたので痛くはなかったが、雪としてはおもいっきり殴ってくれた方が良かった。

 そんな雪に兄は追い討ちをかけた。

「なあ、雪。どうして存在もしないこんな生物が図鑑ができあがるほどあると思う? それはな、こいつらが全部、お前みたいな奴を騙すような悪い人間の醜い心を表現したものだからなんだよ。だから、体の半分が獣だったり、人にはないものが生えていたりするんだ。悪いことをするやつが自分達と同じ人間だとは思いたくないんだよ。人ってのはなかなか現実を認めたがらないからな、今のお前みたいに」

 雪は唇をかみ締めた。

 表には出さないものの、雪はこの頭のいい兄のことはいつも慕っていた。兄のようになりたいと思ったこともあった。しかし、今回ばかりは、頭のいい兄を恨めしく思った。

 あんなに綺麗な妖精や動物達が、人間の醜い心? あんなに、幻想的で美しいのに……。

 兄の言葉など認めたくなかった。あんなに綺麗な姿をした彼らが醜い心から生まれるはずがないと訴えたかった。しかし、そんなことを言ったところで、またうまく言いくるめられてしまうのだろう。

 この兄に何を言っても勝ち目はない。それは充分分かっている。

 それでも、こんな本で夢を見るくらいかまわないじゃないか。どうして、それすらもさせてくれないんだ。

「分かったら、さっさと餌やりに行ってこい。あいつらもいいかげん腹空かしてるだろう」

 兄はそう言うと、本をベッドに放り投げ、部屋を出ようとした。

「藍に何が分かるんだ」

 不意にはっきりと自分の名前を呼ばれ、兄は足を止めてこちらを振り返った。

「お前、」

「藍はいつも俺のこと馬鹿にするけど、藍だって自分の名前を嫌ってるじゃないか! 変えられるわけがないのを知ってるくせに! 現実を認めようとしないなんて偉そうなこと言って、結局自分だって……」

 雪は兄が何か言おうとしたのを遮って、うさを晴らすように言い放ったが、最後まで言う前に兄に思い切り胸ぐらを掴まれた。先程までの弟をからかう兄の表情は欠片もない、本気で怒った顔だった。

「俺も、なんだって?」

 雪は何も言い返せなかった。胸ぐらを掴まれているせいで息が苦しいこともあったが、兄が雪に対してこのような顔をしたのは初めてで、ひどく恐ろしかったのだ。

「言ってみろよ、俺が、なんだって?」

 兄が一言口にするたびに威圧感が増していくようだった。しかし、こうなってしまっては、雪だって引き下がることはできない。

「藍だって、現実を認めようとしないじゃないか」

 乾いた音がどこかで聞こえた。

 それが自分から発せられたものだと気づいたのは、兄から少し離れた床に倒れ込んだときだった。方頬だけやけに熱い。

 兄は少しだけ息を荒げながらこちらを一瞥したが、何も言わず、そのまま部屋を出て行った。

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