第12話「文豪の肖像 (後)」
千景の遺稿は、楓と一緒に受け取りに行った。
雨が止みそうで止まなくて、機嫌の悪い時の雪みたいね、なんて笑われた。
千景の手紙には、こうあった。
『雪さんへ
前にお話ししていた小説です。
ずっと書けなかった言葉を、書けたような気がします。
これが、私の訳し方。これが、雪さんの物語になりますように。
榎垣千景』
遺稿は私が先に読むことになった。楓は少し離れたところで見ていてくれた。
退屈じゃないのか、と聞いたら、千景ちゃんの作品を読むときの雪の顔が退屈なわけがない、と返された。非常に心外である。
彼女の最後の物語は、恋愛小説だった。
同性愛者の女子高生の主人公が、初めて異性に恋をする。しかしその男性は同性愛者で、叶わぬ恋に葛藤する、というストーリー。
節々に、既視感のある会話が散りばめられていた。これは、私の、私と千景の物語だ。
最終章、主人公は彼の幸せと自分の幸せを天秤にかける。彼女が彼に恋をしたままだったら、彼女は泣いて縋って彼を引き留め、自分のものにしただろう。
しかし彼女はもはや、彼に恋してはいなかった。
彼を、愛してしまっていた。
彼女は彼の幸せを願い、自分の将来を捨てる選択を為す。
そういう、物語。
『この思慕は愛ではない。愛であってはいけない。世界は生産性のない感情を愛だとは認めてくれないから』
『あなたを愛すために、男として生まれたかった』
胸に刺さる痛み。
後味の悪さはどこか、私の小説に似ていた。
読み終わったことがわかったのか、楓の近付いてくる気配がする。
「後世に文豪と呼ばれる作家は、みんなそう。鮮烈な印象だけを残して、さっさと勝ち逃げしていくの」
「どうして死んだの、千景」
それはきっと、愛しいからだ。
現実という圧力によって不可能となってしまった、自分が生きたかもしれない未来の可能性たちが。
小説を通してその可能性を見つめていると、どうして生きているのか不思議になってくることがある。こんなにも窮屈で、何者にもなれない世界で。
そしてもっともっと愛しくなる。迎えに行ってあげたくなる。
きっとそうやって、文豪たちは死んでいった。
書き続けることが唯一の弔いだと、誰かが言った。
そんなはずがない。私がいくら私の物語を書き続けたところで、彼女の物語は進まない。彼女の書き連ねた世界は彼女とともに鼓動を止め、やがて跡形もなく崩れ去る。言葉という嘘を媒体とした本だけが、まるで彼女の遺言のように残される。
「それじゃあまるで、私が何もできないみたい」
口を噤んだ。その通りじゃないか。だって私の手には、紙とペンしか握れない。それだけ持ってしまえば、もう他には何も手に取ることができない。
私は、怖い。
握りしめたペンを手放して、誰かの腕をとることが。
私は恐ろしい。足に絡まって私を引きずり降ろそうとする誰かの感情を振り払ったとき、魂を込めた紙の束が散らばってしまうことが。
結局、私はその程度の作家なのだ。無数の可能性のまぶしさから目を背け、安全な場所から手招きをするだけ。
あんな風に、作家としての自分の無力さを嘆いておきながら、それでも私は、綴る手を止めなかった。想像を消さなかった。
可能性を手繰ることを、やめられなかった。
でも、千景は。
迷いもせずにその光に飛び込んで、やがて背中に根を張った才能に食いつぶされた。
『I love you の訳し方』
私は彼女のさいごの原稿を、破り捨てた。
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