第11話 「文豪の肖像(前)」
その日は突然にやってきた。
朝からグラスを割り、洗濯物が飛んでいき、パンプスのヒールが折れた。おかしな日だった。
楓からかかってきた電話をいつもの調子でとったとき、彼女の声はやけに低くて、強ばっていた。
『雪、落ち着いて聞いてね』
『千景ちゃんが、亡くなった』
「はぁ?」
私は素っ頓狂な声をあげた。
意味がわからない。いなくなったではなくて?それでも十分おかしなことだけど。
「……何の冗談よ、それ」
『冗談なんかじゃないの。とにかく、千景ちゃんの家まで来られる?あなたに、』
楓の言葉は最後まで聞かず、私は電話を切って飛び出した。駅前の通りでタクシーを拾う。乗り込んだ後で、着の身着のまま来てしまったことに気付く。タクシー代は楓に立て替えてもらうことにしよう。
それなのに私の手は財布だけしっかりと握りしめていて、なんだ、思ったよりも冷静じゃない。静まり返った頭でそんなことを考えながら「鉢草通りまで、できるだけ急いでもらえる?」と運転手に声をかけた。
楓に招き入れられた千景の家には森澤と千景の家族、数人の警察官がいた。
物々しい雰囲気。私は警察官の一人に詰め寄った。
「……誰が、千景を殺したの」
「ちょっと、雪!」
楓の制止を無視し、私は続けた。
「千景が殺される理由なんかないはずよ、いったい誰が、どうして」
「川崎さんは、自殺です」
「……ははっ」
笑いが込み上げてきた。
自殺。千景が。
「あの、神代雪先生ですね……?」
恐る恐る声をかけてきたのは、千景の母親だった。
千景が写真で見せてくれたことがある。優しくて、気が弱くて、千景のことを心から愛してくれる人だと聞いていた。想像していたのと寸分違わぬ、柔らかな声色。
「はい、そうですが」
「千景が、大変お世話になりました。それであの、千景の部屋に、これが……」
いつか、私が渡した茶封筒。
表に『雪先生へ』と書いた付箋が貼ってある。
「……これは?」
「多分、千景の書いた小説だと思います。神代先生に一番に読んでほしいと言っていましたから」
そっと、封を開けた。
壊れモノを扱うように、そっと。
一通の手紙と、原稿。
「榎垣ちゃんの遺稿かぁ……絶対売れますよね?俺、持ち帰って編集長に出版かけあってみるっす!」
横から伸ばされた森澤の手を、私は反射的に払いのけた。
「千景に触らないで!!」
涙は出ない。なぜか、流れない。
ただ、彼女の残したものに触れられる不快感はどうしようもないほどだった。
「雪、一旦警察に預かってもらったらどうかな。とりあえず、遺書みたいなものだし、事件性がないって証明しなきゃいけないし。落ち着いたらまた、受け取りに行こう。ね?」
楓が珍しく優しく話しかけてくれるものだから、私は調子に乗って頷いてしまった。
警察の人に封筒を渡し、編集社ではなく私に手渡すことを約束してもらった。
彼女の遺稿が私の手元に戻ってきたのは、それから一週間経った頃。雨の日のことだった。
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