第4話 「影響した人(後)」


 私の人生は平凡で、私の世界も平凡で、人並に生きて、死んで。

 どこかの誰かの異質な日常に思いを巡らせては、自分の人生の意味のなさに絶望する。


 そう。人生の意味のなさに気付くには、きっと人生は長すぎる。




 あの頃の私は卑屈に、皮肉に、そして怠惰に生きていた。

 学校なんか意味が無い。生きていたって意味が無い。


 そんな風に考えていたある日、お節介な教師が一冊の本を勧めてきた。




『在りし日のサクリファイス / 神代雪』



 小説なんか読んだことがなくて、半ば押し付けられるように受け取った。

 適当に読んでさっさと返そう。そう思い、家に帰ってすぐに表紙を開いた。


 ページをめくる手が、止まらない。



 文字が音に、匂いに、色になって脳裏を刺激する。

 頭に流れ込んだ映像を、「世界」にする。



 勢いを落とさず読み切った頃にはとっくに日も暮れていて、余韻をかき消すようにお腹が鳴った。


 泣くものか、と思った。

 誰かの感情に流されて泣くような柄でもない。

 これ以上「神代雪」に、私の心を明け渡してなるものかと、強く思った。



 その夜、私は夢を見た。

 朝起きたとき、瞼はぽったりと腫れていた。







「それで?私の小説に憧れたの?」


 私は首を横に振る。


「悔しかったんです。意味の無い人生の中で、意味のある言葉を綴って、特別な物語をえがけるんだって、気づけなかったことが」

「私が憧れたのは、貴女の小説じゃない。貴女の生き方です。だから私は、作家になれた」




 微動だにしなかった彼女の、瞳が揺れた。


「……厄介なのに憧れたものね」


「あなたの小説、読んだわ。強くて真っ直ぐで、授賞式であなたを見た時『あぁ、この目か』って思った。作品を通して、あなたの目が見えた。あなたは、化ける」


 口元が緩む。

 まさかそんな言葉をもらえるとは思ってもいなかった。


「でも」

「あなたの言葉は繊細だわ。もっと硬くて鋭い誰かの言葉を受けたら、壊れるのなんて一瞬。だから…確固たるものを持ちなさい。誰に何を言われようと、曲げられない、不屈の自分を飼いなさい。伝えたい何かを忘れないで」

「私に言えるのはこの程度ね……」



 彼女は席を立ち、鞄から茶封筒を取りだした。



「私から、ささやかなお祝いよ」


「神代先生…っ」


「雪でいいわ。ごめんなさい、このあと予定があるの」


「いえ、あの……雪さん。お時間頂いて、ありがとうございました」


「いいのよ、また今度、食事でも行きましょう。貴女とはもっと話がしたい」


 足早に出口へと向かう彼女が、徐ろに振り返り艶やかに笑った。




「またね、千景」




 しばらく呆気に取られていたが、ドアの閉まる音で我に返った。


 残された茶封筒に手を伸ばす。

 中には流麗な文字の並んだ色紙と黒い箱、小さなメモ用紙が入っていた。



『神代雪

   080-xxxx-xxxx

   yuki.kamishiro1224@xxxxxxxx』



 私はいつになったら、彼女の隣に立てるのだろうか。

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