第130話 基特高校の夜明け
………
……
…
「あ、あああああああああああ?!? み、見るなああああああああ?!!!」
「その様子だと、振られたみたいだなぁ、樹原ぁ」
海原の目の前で突如、樹原が叫び出す。
樹人がうずくまり、頭を抱える。
恐怖に慄く子供のようだ。
「マルス、どんな振り方したんだ?」
"ネガティブ、私は本当の私を見せただけなのですが…… 誰も彼もがヨキヒトのように鈍感なわけではないようですね"
「ははっ、鈍感力の勝利というやつだな。じゃあ、終わらせようか」
"コピー"
海原が縛られた身体をよじる。
崩れかけの黒い爪で己の腹に突き刺さる木の根を掴んだ。
腹の肉が軋む、呼吸をするたびに痛みが走る。
関係ない。生きるということは何をしても痛みが伴う。だから、平気だ。
「"PERK ON
どろり。
海原の顔を覆うガスマスクやたてがみ、そして黒い爪が溶ける。
それら全てが海原の身体を這い回り、木の根を伝った。
導火線を渡る火のように黒い粘液が木の根の根元、つまり、樹原の腕へと渡っていきーー
「これは……っぎゃあああああああああああ?!!」
その身体を包む。樹人と化した樹原の身体を黒い粘液が包んで行く。
海原を縛っていた木の根が腐り落ちる、腹に突き立てられた木の根も自然と抜け落ちていた。
「何を、なにをじだああああああああ?!!!」
悶え、転がり回る。
あの超然とした樹人が、叫び、頭を抱えて地面をのたうつ。
木の根であしらわれた角が腐り落ち、仮面がぼろぼろと崩れ始める。
ねろねろと蠢く黒い粘液は全身へと広がる。アメーバが食事をしているような光景、アメーバの食事風景を見たことはないが、海原はなんとなくそんな気がした。
食餌。
黒い粘液が、木の根を喰らう。
助けを求めるように上を向く木の根を、粘液が喰らっていく。
捕食者と被食者、これがマルスの力、世界を喰らう遠い場所の生命の力。
"ヨキヒト、これが私です。他者を喰らい、その存在を糧にする。これが私の本来の姿です"
マルスの声、少し震えている。
幼子が悪いことをしたのを自覚し、親に恐る恐る伝えるように。
海原はそれを見て、それを聴いた。
「すっげえ。やっぱりうちのマルスが最強なんだ」
どこまでも呑気な感想しか出てこなかった。
"……貴方は本当に、バカですね"
「え、なぜにそこでdisるの?」
海原とマルスが呑気に話す。
やがて黒い粘液が乾き、蒸発していく。
「う、うううう、ああ……」
地面に這いつくばる樹原の姿、樹人のガワが全て剥がれ落ち、ただの人間の姿に戻っていた。
海原を縛る木の根が完全に解ける。
すでにガスマスクの仮面は割れ落ち、たてがみも全て抜け落ちた。
黒い爪は解かれ、その姿は人間の姿に戻る。
人間の姿をした化け物が2人、海原が見下ろし、樹原が見上げる。
大きく喘ぎながら、それでも樹原が立ち上がる。木の義肢を海原へと向けた。
「僕の名前は…… 樹原 勇気、この終わった世界で、僕はなんとしてでも幸福に生きてみせる…… 悲劇を、味わい、幸福に生きてやる」
樹原が呟きながら立つ。
「……この終わった世界の中で、ここにいる人間はみんな前を向いて進もうとしている。失っても、失ってもそれでも次は何かを守ろうと生きている」
海原が、前を見る。
敵の姿を、滅すべき敵を見る。
「そんな中、てめえはどうだ。樹原、てめえはその下らない性癖の為に前へ進む人間の邪魔をする、善い奴らからなにかを奪う! 俺にはそれがムカついてしょうがない」
樹原が、嗤う。
黒い粘液に侵された身体を鞭打ち、それでも嗤う。
「悲劇には生贄が必要だ。当たり前の善性、善意、それらは踏みにじられるべきものだ。キミはそれを邪魔する、キミは強すぎる」
木の根が、再び、地面を割り、現れる。
樹原の力が世界を侵す。
「僕が幸福に生きる為に」
海原の身体が進化する。その底になにもなくともその中には今、親愛なる隣人が棲まう。それが、海原を助ける。
「俺達が生き抜く為に」
交わらない両者、殺しあうしかない2人が叫んだ。
「「お前が邪魔だ!!!」」
一本の木の根が伸びる。
もう、勢いはない、それでもその切っ先を尖らせ、海原の心臓を狙う。
海原が片腕を硬くする。もう進化の負担に身体が耐えられない。右腕のみが、終わった世界を生き抜くための牙と化す。
木の根を殴り付ける。
鈍い音がして、木の根が逸れる。
駆ける、体重を前に、ただ前に。
その牙を突き立てる為に。
足元から木の根が伸びる。
咄嗟、海原が飛び上がった。
前へ、前へ。樹原 勇気の心臓へ牙を向けた。
「僕の、勝ちだ、海原」
樹原の足元、枯れた筈の木の根が起き上がる。3本、数は少なくともそれらは一斉に動き出し、同時に海原の急所へと向かう。
空中、跳んだ海原に踏みしめる地面はない。躱すことも、防ぐことも間に合わない。
必中のタイミング。
マルスの悲鳴、海原は奥歯を噛み締めた。
ーーあなたの背中を押しますように。
どこか響く、聞き覚えの在る声。
それはあり得ないことだった。
木の幹に囲まれた閉鎖空間、外界から閉ざされたこの場所に、
風が吹いた。
海原の背中を強く、強く押す追い風が。
それは、海原が重ねたルートの報酬。選択の結末。
「か、ぜ……? どこから?」
樹原のつぶやきを風が搔き消す。
木の根をその風が押しとどめる。わずかに跳ぶ海原を風が押す。
海原への追い風、樹原への向かい風。
同時に、吹いた。
「あ………」
海原が木の根を掻い潜る。
そこへたどり着いた。
右腕を、ただ愚直に前へ。
樹原の胸へと、牙が。
「ま、待って」
温い肉と血の感触。
怖じけるでも、酔うのでもなく。
ただ、海原はそれを貫いた。
「さようなら、樹原 勇気」
心臓を握りつぶす。
樹原の身体から力が抜ける、弛緩した肉から右腕を引き抜く。
溢れる血の筋よりも早く、再び振り上げた右手を樹原の首から肩に向けて振り下ろした。
「あ、ああ…… ウソだ、僕は、僕が……」
「喜べよ、悲劇だろ。何も為さずに死ぬのはよ」
押し込む、硬化した牙は樹原の首から肩にかけてを切り裂いた。
溢れ出る赤い血、樹原 勇気の血はまだ赤い。
海原が抉るようにその手を引き抜く。
崩れ落ちる樹原の額に、人差し指を押し付けた。
「や、やめて、やめてくーー」
「ロケット・フィンガー」
海原の牙が、樹原の眉間を貫く。
硬化した指が、その脳髄をぐちゃぐちゃに壊した。
もうその脳が悲劇を愉しむことはない。
仰向けに、樹原が倒れる。
ぴくり。ピクリ。
体の四肢がしばらく痙攣し、それからもう二度と動かない。
"対象のバイタル、完全に停止。目標、樹原勇気の死亡を確認しました"
木の幹が、木の根が、枯れる。
月明かりの中、生者が死者を見下ろす。
木の幹の帳が開いた。
身体が重い、海原はその場に座り込む。
目を瞑る、眠い。
それでも、目を開く。
「海さん!!!」
「海原さん!!」
仲間の、善い人間たちの声が、海原を呼んでいた。
海原はその声を見る。
荒れ放題の校庭、出来損ないの鉄のオブジェや、枯れた木の根の残骸、化け物の死骸。
戦いの残滓を仲間たちが乗り越えて駆け寄る。
「海さん、良かった…… 勝ったんだ……」
座り込んだ海原へと久次良が駆け寄る。
海原が突き出した拳に、久次良が気付く。
「お疲れ、海さん」
「ああ、久次良もな」
探索チームの2人が笑う。そこに本来ならいるはずのもう1人を想いながら。
「樹原先生…… 樹原は?」
「完全に殺した。もう、こいつは動かねえ、しゃべらねえ。俺が殺した」
血に沈む亡骸を2人が見つめる。動かない肉袋を、敵の末路をただ、見つめていた。
「海原さん…… 生きてる……」
女の声。
海原がその声を見上げる。
「よう、雪代、ただいま。ほら、約束守ったろ?」
海原が雪代 長音へと笑いかけた。
「ゲフッ」
目に見えない速度で、その豊満な胸の中へ抱きしめられる。
わんわんと泣く雪代の胸の中、海原は窒息しかけた。
しばらくして、雪代が落ち着いた後、海原が立ち上がる。
「……春野さんは、どこにいる?」
様子を遠巻きに眺めていた継音へ問う。
「一姫は…… 体育館に」
「そうか」
海原は立ち上がる。ふらつくら身体を雪代が支えて、歩き始めた。
体育館にて、傷付いた者を癒す春野へ海原は胸ポケットに入れたままの折り紙細工を渡す。
カエルの折り紙、春野が叔父へと送ったお守りを。
春野は少し泣いた後、再び治療を再開した。
木の繭から取り出された田井中へと向かい、暖かな光を当て続ける。
海原はその様子を眺め、そして、目を瞑る。
そのまま眠る。
海原の周りにはたくさんの人が寄り添う。
樹原の亡骸は、校庭に残った久次良が灰色の小鬼達の手を借りて既に燃やし始めていた。
傍の2匹の小鬼が、持つのは人間の腕。屋上で斬り飛ばした樹原の腕。
それも共に炎の中へ投げ捨てる。
皮膚が弾け、脂が漏れ出し、燃え始める。
燃料には事欠かない。
それを悼むものも、泣く者もいない。
久次良はただ、作業的に人の焼ける匂いを嗅ぎながら、死骸を燃やしつづけた。
樹原 勇気が存在した証は、ものの数時間もしないうちに粉々の骨の粉だけになる。
そして、のちに朝日が昇った後、その骨の粉は海原と久次良の手によりゴミ収集所のダストボックスへと放り込まれた。
樹原を受け継ぐ者はいない。
その心に秘めた悲しさ、寂しさを理解するものもまたなく。
その存在は終わった。
………
….
遠くの空が赤らむ。
そろそろ、夜明けが近い。
ボロボロの基特高校の校舎、ガラス張りの部分に朝日が差し始めた。
朝が、来る。
終わった世界の朝が。
当たり前のように、朝が来る。
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