第123話 海原 善人

 


「アッッチョオオオオオオオ!!!」



 浮遊感、腹の底が引き絞られ風が身体中を駆け巡る。


 ヒロシマの街を駆け抜けた。


 横倒しにされた市内を巡る路面電車の残骸、ボコボコに穴の空いたパープルアリーナ、天守の欠けたヒロシマ城。



 人々は失く、ただ異形の化け物だけが当たり前の生態系のごとく存在する滅んだ街を駆け抜けた。



 滅んだヒロシマを駆けた、その勢いのまま、叫び、重力に身体を任した。



 ヒロシマ城の天守、掛けた瓦を割りながら走り、堀を飛び越える。


 高校を囲む塀は遥か眼下。



 海原が跳ぶ。




 吸い込まれるように、何かに向けて拳を振ろうとしている首のない巨人へ。


「ホアタアアアアアアア!!!」


 飛び蹴り、ドロップキックをかました。



「ヴオオオオオオオオええええええ?!!」


 どちゃり。


 沼を蹴ったような感触。しかし、海原の身体に加わった衝突エネルギーを吸収する事は出来ない。


 巨体がよろめく、振り上げた拳をはちゃめちゃに動かしながらーー



「ーー飛んでけええやああ!! 化け物オオオオオオオ!!」


「い、ダァアアアアアイ??」


 そのままバランスを取り戻す事なく、怪物は倒れこむ。グランドの砂煙が、月の明かりに浮いた。



 静寂が訪れる。ただ、海原が器用に身体を回転させ、地面に着地する音だけが小さく、砂と擦れる。



 嫉妬深い首のない巨人の一撃が、雪代の姉妹をぺちゃんこにする事はなかった。




 海原が、間に合った。



 今度こそ、海原は失わなかった。



 鮫島が、ウェンフィルバーナが、海原の為に命を懸けた者達が、海原をここへ間に合わせた。





「……え…… え」


「あ、ああ…… やっぱり、やっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱり………」


 呆然と、互いが互いを庇い、抱きしめ合う姉妹がその男を眺める。


 雪代継音は、ただ理解するだけ。死んでいない事に。


 雪代長音は、ただ理解するだけ。その男にまた救われた事に。




「"マルス、戦闘準備だ。校庭に居る化け物どもを片付ける"」



 ガスマスクの姿の海原が呟く。


 海原の周りを囲むように、化け物が集結していた。


 昆虫のような化け物、獣のよつな化け物、爬虫類のような化け物。


 その全てが、海原へと威嚇を向ける。





「"性能テストだ。行くぞ、マルス"」



 "ポジティブ、ヨキヒト"




 化け物が一斉に飛びかかる。雪代の姉妹はその光景に息を飲む。



 しかし、次の瞬間には青い血が夜に飛び散っていた。



「オ? ぎゅう?!!」



「アベス?!」


「ギチュ?!!」




 ある化け物は、その鉄の如き腕で頭蓋を貫かれ、またある化け物は、飛び放たれた人差し指で目玉を射抜かれ、最後の化け物はその手に持たれたねじれた槍で心臓を抜かれる。


 数多の化け物は、数多の牙で一瞬で葬られた。



 数の差をものともしない確かな強さ。



 マルスとの限りなく同化に近い時間制限付きの結合は、海原 善人をこの終わった世界の食物連鎖の上位者に押し上げていた





「"悪くない。こうしてみると、あのクソ虫の異常な強さがわかるな、おい」



 化け物の死骸の中で、海原は腕を伸ばしてストレッチを行う。


 その身体には一切の傷もなく。



 静かに、こちらを呆然と見つめる2人へと歩みを寄せた。




 なんと声をかけるべきか。海原は少し迷った後、素直な感想を、伝える。


「……よう、雪代シスターズ。よく頑張ったな。やっぱ、すげえよ。お前ら2人とも」


 声を掛けても、2人の雪代は目を丸くしたままこちらを見上げるだけ。



 あ、そらそうか。


 海原は得心した。




「あ、悪りぃ。だれかわかんねえよな。マルス、結合解除よろしく」


 "ポジティブ、ヨキヒト"



 パキ、パキ。海原の顔に張り付いたガスマスクの証が乾いて剥がれる。



 融解結合が解かれていく。



 凡庸な顔立ちが、露わになる。


 にへらと砕けた笑みを、抱き合う姉妹に向ける。


「……あ、ああ、嘘、生きてた…… 死んだって言ってたのに、生きてた……」


「やっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱりやっぱり」


 呆然と呟く継音と、取り憑かれたように言葉を繰り返す長音。


 それでも2人は互いに抱き合ったまま。


 その、男の、凡人の名前を呼ぶ。



「「海原さん!!!」」



「ただいま、ゆきしろ」



 よっ、と手を軽く振りながら海原は2人の雪代に答えた。


 答えた瞬間ーー


「ゲフッッ」


 引き寄せられる。見えない力に胸元を捕まれそのまま引き摺られる。



 ボフンと音がした。


「ああ! あああ! あああああああ!! 海原さん、海原さん、海原さん、海原さん!」


「ぐ、苦しっ…… 雪ー 息出来ーー」


「痛っ、姉さん、痛いっ……」




 継音ごと、長音の豊満な胸に海原は抱きすくめられる。細腕に掴まれた首が、みしりと音を立てた。


「ああ、ああああああ、海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原さん海原、よかった、ホントに良かった…… 良かったよう…… 海原さんが、生きてる、継音も生きてるうう」


「雪代、首、折れる……」


「姉さん……っ、痛い」


「グスッ、バカ、超バカ。ドバカ。どれだけ、待たせるんですか……っ。ホントに、待たせ過ぎです」


 海原は抱きすくめられたまま、長音の嗚咽混じりの言葉を首の痛みを気にしながら、聴く。


「悪い、色々あった。心配かけてごめん」


「うるさいですっ、心配なんてしていません……っ。ボケ、バカ、アホ」


 ぎゅうっとさらに強い力で海原は雪代の胸の中に沈み込む。


「もう、もう離しません。ダメです、貴方はやっぱり私がいないとダメなんです。絶対手放さない、誰にもあげません」



「怖い、雪代さん。そのドスの効いた声、とっても怖いです」



 ぱしぱし、海原が優しく雪代の腕をタップする。首に回された腕の拘束が緩んだ。


「ぷはっ、死ぬかと思った。……雪代、少し痩せたか?」



「……痩せました、痩せましたよう…… 貴方がいないからご飯食べても美味しくないんです。わたしもわたくしも、私も貴方がいないと……」


 海原は手探りでゆっくり地面にねじれた槍を置く。


 空いた両手で、今度は海原が雪代の頭をゆっくりと抱きしめる。赤子をいなすように、ただ迎え入れるように。



 ゆっくりと、海原は周りを見回す。



 千切れた化け物の死骸や、霜がまぶれた死骸。



 死屍累々の校庭。しかし、そこには人の亡骸は無く。


 目に大粒の涙を溜めてこちらを見つめるボロボロの長音を視界に入れる。



 ああ、やはりお前たちは凄いよ。



 海原は静かに雪代へと声を落とした。



「……それでもお前は、立派に役目を果たした。ありがとう、ゆきしろ。お前は戦ってくれたんだな。俺が約束を守るかどうかもわからないのに。誰かの為に、人間のために戦ってくれたんだな」


「だって、だって、私が戦わないと、継音が、継音ばかりがまたーー」


「例えお前が認めなくても、お前はきちんと姉をしている。雪代は凄いよ」


「ーーーあ」




 涙と鼻水が、海原のシャツを濡らす。うへえと思いつつも海原は雪代を突き放す事はしない。


 胸の中へ、長音を受け入れる。


 ググッと長音がその額を、髪の毛をグリグリと海原のシャツへ押し付けていた。


「あ、あの、海原……さんーー」


「おお、リーダー。キミもよくやったな。それでこそ、俺と鮫島と久次良のボスだ」


 呆然と長音に寄り添う継音へと海原は視線を向ける。


 その言葉は、何気なしに向けられたなんら特別ではない言葉。


「……ボスって言わないでって。何度、言えば…… 姉さんの言う通り、馬鹿ね……」


 継音を見る。制服は至る所が裂け、黒いハイソックスから血が滲んでいるのが分かる。


 目の前の少女がどれだけ身体を張ってこの場を繋いだのかがありありとわかる。


 ああ、凄い。凄いな、雪代 継音。


 海原は心のままに言葉を紡いだ。



「悪かったよ、雪代継音。……キミの持つ氷よりも透き通ったその信念、危機の中においても前を向く精神力に敬意を。流石、雪代長音の妹だ」


 その言葉に、継音は動きをぴたりと止める。ゆっくりとそれから、姉の長音と同じように海原の胸の中へ寄り添った。




 え、お前も? 大丈夫? セクハラとか言われたりしない? 凍らされたりしない?



 突然身を任せて来た女子高生に、海原は内心焦る。


 条例、というワードがよぎり、少しした後に県庁や市役所が崩れていたことを思い出し少し安心した。


 もう、そんな決まりごとも無いのだ。



「待て、リーダー。その首、誰にやられた?」


 海原は継音の細い首に着いた鬱血した手の跡を見つける。


「こ、これは……」


「……悪い、留守が長すぎた。そうか、そうなってしまったか。まあ、コレで決心が付いた」


「う、海原さん?」



 ボソボソと呟く海原に継音が声をかける。海原は継音と長音を強く胸に抱きしめたい。


 2人抱えているのに、重さを感じない。


 こんなに細い身体で、こんなに軽い身体で、この2人はきっと戦ったのだ。


 特に守りたくもない存在もいるだろうこの場所を。


 それが海原にとって誇らしく、そして、僅かに腹立たしい。くだらないもうありはしない世間体を気にしていた自分が。



「限界だな。コレが終わったらなにもしない避難者どもは切ろう。もう無理だ」


 そのつぶやきは冷たかった。


 優しく、海原は継音の首に手を伸ばす。


 びくり、継音は初めこそ身体を大きく震わせたが、目を瞑ってその手を受け入れる。


 飼い主の愛撫に身をまかせる猫のように、目を瞑ってその首を、寄せた。



「よく頑張ったな。 雪代 継音。本当に」


「……うん」



 しばらく海原は継音の細い首を撫でる。すべすべした感触とひんやりした皮膚の感覚だけが全てだった。




 ピクリ。海原の胸の中、雪代長音が身体をわずかに痙攣させた。


 海原は継音の首から手を離し、継音はその手から遠ざかる。


「……女の匂い… 1人…… 2人……? 何これ。海原さん?」


「待て、雪代さん。そのドスの効いた低い声はやめろ。なんのことだよ」


「すん、すん。海原さんの、海の香りに混じってる…… 何これ。私や継音の匂いじゃない。遠い遠い真っ暗な匂いと、血に塗れた風の匂い。……ああ、なるほど、これがアイツの匂いか……」


 海原の心臓が跳ねる。雪代の見えない力が自分の胸元を絞り始めている。



「えーと、雪代さん、私とっても怖いんですが」



 恐る恐る雪代へと海原は声をかける。嫌、別にやましい事何もないはずなのに、なぜか冷や汗が止まらない。



「海原さん…… 私、負けませんから。ウェンフィルバーナとかいう性悪女には特に」



「ウェンっ?! なんで、お前がその名を!」



「やっぱり……ほんとに知ってるんですね…… でも、ザマアミロ、性悪女、お前の匂いなんて上書きしてやる……」



 海原の質問に答えず…雪代はさらに胸に顔を埋めてすりすりと頭を擦り付けてくる。


 何故雪代がウェンを知っているのか。海原は問い詰めようとして思いとどまる。


 あ、これ、やばいわ。マジで。絶対今、こっちの話聞く気ない。


 どうしようかいね。


 海原が本気で焦り始めたその時、



「姉さん……」


「何、継音。すん、すん。ほら、これ別の女の匂いだよ。私たちじゃない女の匂い。この人、この人あれだけ私達を心配させておいて、別の女の匂いをーー」


 目のハイライトを消した長音が、継音に向けて淡々と話す。容姿が整っているぶん、余計に怖い。



「姉さん…… 海原さんと、その正式にお付き合いしているわけでもないのに、それは、少し…… 重くて、引く」


 そんな長音に、なんの躊躇いもなく継音の正論が刺さった。



「ひゃうっ……継音が、ひどい……」


「事実よ、姉さん。今の姉さんに海原さんの交際関係をとやかく言う資格はないもの」


 小さく溜息を継音がつく。


「海原さんの交際関係に口を出したいなら、姉さんはまず海原さんに伝えなければならない事があるはず。今なら言えるのでは?」


「な、なななななな。継音、何を言ってるの? わからないんだぜ」



「何故、そこでためらうのか分からない…… いいんじゃない? 海原さんなら私、お義兄さんとしてあんまり文句はない」


 なんなら姉さんの義弟にしてあげてもいい、小さく呟いた継音の言葉に、長音が目を丸くした。




 海原の胸の中でこそこそと姉妹が話し合う。しばらくの間、長音がコロコロと表情を変えたり継音が小さく笑ったりを繰り返す。



 ガールズトークに巻き込まれた海原はただ、その場で固まるだけ。




 そして、話し合いが終わったらしい。


「海原さん」


「あ、はい」


 継音の短い問いかけに、海原は背筋を伸ばす。しゃがんだまま結果的に継音も抱き寄せたような形になっているため、非常に距離が近い。


 長音と良く似た、しかし少し幼い美がすぐそこにある。



「貴方、闘えるんですか?」


「……ああ、色々あってな。今の俺は少し、強いぞ」


「そう……ですか、なら探索チームのリーダーとして貴方にお願いがあります」


「イエス、リーダー」


 継音の吐息が届くような距離で海原は答える。


「屋上で、久次良さんが戦ってます。ここは私と姉さんがなんとかするので、貴方は久次良さんを助けに行ってあげてください」



 海原はその視線を受け止め、頷く。歳下の少女からの命令、何も問題ない。


 身体を張って戦う人間の命令のなんと受け入れやすいものか。


 海原は笑う。


 そして静かに問いかける。


「……状況を聞きたい。簡潔に。樹原 勇気か?」


 その問いに、雪代達はこくりと頷く。


 そうか。


 そうか。


 海原にはそれだけで充分だった。


 "ポジティブ ヨキヒト。目標の反応と思しきモノを感知、屋上です。交戦記録と照合… 同じです。アリサの最期の敵、アリーシャ・ブルームーンと同じ反応、仮呼称名、アビス・ウォーカーの反応です"


 行かねばならない。


 そこに居る。


 海原が雪代達を抱く腕から僅かに力を抜く。




「……行ってください」


「……もう、行くの?」


 同じ顔、いや違う。よく似ただけで、別の顔。


 長音と継音の2人に海原は目を合わせる。


「行く。んで、また帰る。今回と同じように」


「絶対に、帰って来て。これ以上姉さんを悲しませたら許さないから」


 継音の言葉に海原が頷く。立ち上がろうとして、身体をがくんと傾けた。


 何かに引っ張られて、立ち上がれない。


 雪代 長音が海原を引き止める。


「……ダメ、ダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメダメ。もういいよ、海原さん。逃げよう? 私と継音と貴方で逃げよう。私、違うの。継音とは違う、誰かの為に戦ったんじゃあない。継音と貴方の為に戦ったの。もう2人ともいるもの。ここにいる、私の大事なものはここにある、もう他に、何もいらないから」


 ず、ず、ず、ず。


 海原の身体の輪郭を沿うように、空間が捻れる。


 雪代の古い力が、力学を法則を、捻じ曲げる。


 引き留める為に、留める為に。もう二度と失われないように。


 闇を溶かした狂気的な眼、雪代長音がギョロリと海原をにらんだ。


「……姉さん」


「大丈夫、大丈夫よ、継音、安心しなさい。もう離れない。わたくし達はもう二度と離れない。一緒よ。ずうっと3人一緒なの」


 ず、ずず。


 ねじれた空間が継音を巻き込む。


「ああ、海原さん。海原様、海原君。私達とずっと一緒にいよう? なんでもしてあげる、貴方の望むモノ全てをあげるから。貴方が望むなら、なんだってしてあげるから。だからーー」


「雪代」


 だき縋る雪代の頭を海原が再び静かに抱き寄せる。


 雪代の古い血。その性質。意思なき男、英雄すらおとしめる魔性が匂いとなり、感覚となり海原にまとわりつく。


「あ、ああ、海原さん」


 縋るように。英雄を寄せるその血の力を長音は意識的に扱う。ただ目の前の男を留めるが為に。


 長音が期待したように、海原へと声をかける。差し伸べる、問いを、力が海原を引き寄せてくれたことを信じて。



「悪い、なんでもするんなら今、離してくれ」



「え」



 しかし、その縋るような問いも、雪代の血の力も海原 善人には届かない。


 海原 善人は、意思なき男ではない。受け継いだモノがある。元より持っていた善性がある。


 海原 善人は英雄ではない。選ばれていない、元より備えるモノもない。彼の内側に眠るモノなど何もないゆえに。



 だからこそ、雪代 長音の血の力は、海原を搦めとることが出来ない。


 おおよそ全ての男に作用するその呪いにも似た雪代の血。優れたる血を己の血筋に取り込むための力も、凡人生存者には意味がない。


 海原 善人は、雪代の血にも選ばれない。


 それ故に雪代長音はひどく、ソレに惹かれる。


「なんで、なんで、なんでなんでそんな事言うの。もう、いいじゃないですか、もういいじゃない。貴方がしなくたって、いい」


「行きたいんだ。終わらせたいことがあるんだ。俺がしないといけないんじゃない。俺がやりたいんだ」



 海原は雪代を見据える。


 呪われた血、化生の美しさではなく、ただ目の前の雪代 長音という個人を見つめる。


 臆病で自己中、それでいて妹想いの不器用な人間を、終わった世界で紡いだ大切な縁を見つめた。


「雪代 長音、よく聞いてくれ。俺はお前のような人間にそこまで拘られるほど価値のある男じゃない」


「そんな事ない!! そんな事ないよ!! 貴方は私を助けてくれた! 貴方は私を見つけてくれた! 」


「それは特別なことじゃない、お前は単純に今までそういう普通の事に触れて来れなかっただけだ。お前は俺を過大評価している」


「それを決めるのは貴方じゃない、私にとっての特別は、私が決める事なの。私にとって貴方は、姉妹以外に大切なの唯一の人なの。貴方をそばに置きたい、貴方を残したい、貴方と共に在りたい、貴方に触れたい。この想いは勘違いなんかじゃないの」


 縋るように、留めるように、雪代 長音が海原を引き止める。



 ようやく出来た再会を手離さないように、海原の道を阻む。



「もし、貴方が行くというなら、私をまた置いていくなら、ここでーー」



 長音の目が血走る、海原は長音の言葉にかぶせるように告げた。



「ならこんど戦って決めるか。雪代」



「え?」





「雪代、勝負だ。全て終わらせた後、もしもお前が俺に勝てたら、その時は俺の全部をお前にやるよ」


「は? 何、何を言ってるの?」


「そのままだ。勝負の内容はなんでもいい。俺が負けを認めるか、生殺与奪を奪われたらお前の勝ちだ。お前が望む俺の全てを、お前に渡す」


 長音が信じられないモノを見つけたように眼を大きく見開く。


 しばしの沈黙の後。


「……あはっ♪」


 小さな花が一輪咲くように、笑った。



「海原さん、これは契約?」


「ああ、契約だ。これを終わらせた後、勝負はお前が決めていい」


「素敵……… それ、とても素敵よ、海原さん。貴方が私のモノになるなんて。わたしの、わたくしの、私のモノに。海原 善人が私のモノに」


「おい、お前が俺に勝ったらだからな。気が早いんだよ、お前は」


「ふふ、そうね。そうですね。でも、とても楽しみだな」


 怪しく笑う長音、大抵の男はその笑みに身体の動きを止めてしまうだろう。


「ただし、俺が勝った時は、雪代。逆にお前の全ては俺が貰う。対等に、フェアに行こう」


 海原の言葉にまた、長音がポカンと。そして、


「ふふ、ふふふふふ。フフフフフフフフフフ。バカね、海原さん。じゃあ、約束ね」


「ああ、わかった。……じゃあ、行くわ」


「はい、行ってらっしゃいませ。……帰って来なかったらその時は……」


 長音が静かに笑う。その笑みは海原が見てもぞっとするほどにただ、綺麗だった。



「……あの、至近距離で姉とその想い人にいちゃつかれるのは、結構、疲れるんですけど」


「「あ、ごめん」」



 継音の怒気を孕んだ小さな声に、海原は今度こそ雪代達から手を離し立ち上がる。


 今度は邪魔するものはない。




「ゔ、オオオオオ、あアアアア、マアアアアアアアア」


 同時、海原が蹴り飛ばした亡骸の巨人が立ち上がる。身体のパーツを零しながらも、たちどころにそれが再生されて行く。



「雪代姉妹、お前達に頼みがある」



 海原のつぶやきに、姉妹が小さく頷いた。


「姉さん…… もう一度、踏ん張りましょう」


 継音がよろめきながら立ち上がる。顔の半分に霜を覆いながら、彼女の小さな身体に所々、氷の鎧が現れる。


「ふふふふふ、そうね。これが終わったら次は海原さんだものね。



 長音が笑いながら、すくりと立ち上がる。光の戻った両目を再び、赤く染め、その濡れ髪が白くかわる。



 雪代の姉妹が立ち上がる。底のついた体力を、取り戻した気力で補う。


 海原は捻れた槍を拾いつつ、笑う。


「悪い。まあ、でも援軍が



 海原が月夜を見上げながら、ぼそりと呟いて。










「クッソオオオオオオオオオオオオ!! 速すぎだろうがよオオオオオオオ!!」



 空からやまびこのような声が響く。雲母から割れ出る落雷、いや、人の声だ。


 それは上から降りて来る。



「え?!」


「な、なに??」


「はっは。俺の勝ちだな」




 ドオオオオン。


 地面が鳴り、またグラウンドの砂が巻き上げれる。


 空から落ちて来たそれは、巨人と海原たちのちょうど中間地点に着地した。



 砂煙の中から、声が飛び出て来る。


「てんめえええ、オッさん。ヒロシマ城に飛び移るのはどうなんだよ! 倫理的によおお! 反則じゃねえのか?!」


「はっは。なんでも有りのレースでのショートカットは基本だぜ。今度はお前も、堀超えチャレンジをすると良い」


 海原が軽口で答える。


 砂煙の中から、のっしのっしと、赤黒い四肢を持つ少年が現れる。


「かーっ! クッソ! ポイントだ! かなりここに来るまでによお! 化け物どもはぶち殺したぜ! ポイントによるタイムの計算をっーー」


「グオオオオオオオオ!!」



「危ない!!」



 継音の悲鳴。


 背後、巨人が手のひらを広げて少年を叩き潰さんとーー



「オオオ?」



「ホット・アイアンズ。知ってるか? この校庭、底には地盤沈下防止用の鉄板が敷き詰められてんだ。俺に触れると思うなよ」


 化け物の手のひらが地面に叩きつけられる事はない。


 少年の足元が隆起し、そこから飛び出た金属の杭により阻まれる。



 田井中 誠がギュロリと、背後の怪物を睨みつける。


「なあ、オッさん。あんま状況が分かんねえが、俺の相手はコイツか?」


「おう、田井中。そいつも1000ポイント計算な。お前にしか頼めない」


「ケッ! よく言うぜ。……おい、オッさん。……きちんとケリつけて来いよ」


「ああ、雪代達を頼んだ」


 ポカンと立ち尽くす雪代達を一瞥し、海原が田井中に話しかける。


「ん。おお! 冷血女にそのおっかねえ姉貴! ぼろぼろじゃねえか。戦ってたんだな、それでこそ、だぜ」


「……田井中くんも、無事だったのね。良かった」


「ケッ、情けねー事にな。オッさんがいなけりゃ死んでたよ。連れて帰って来れなかった奴もいる。冷血女、てめーは全部守れたんだな」


 田井中の言葉に、継音は小さく、しっかりと頷いた。


 田井中の唇がほころぶ。


「オッさん、任せとけよ。アンタの守りたいモンは俺が守っといてやる」


「田井中、任せた。お前の借りは必ず俺が返して来てやる」


 田井中の突き出した拳に、海原が拳をぶつけて応える。


 もう、言葉はいらない。奈落からの帰還者達は互いの目標に向けて駆け出す。



「雪代!!!」



 海原が大声で叫ぶ。



「は、はい!」


「はい!」


 2人の雪代が同時に応え、



「行ってくる!!」



 姉妹は互いに顔を見合わせて、それから




「「行ってらっしゃい!!!」」



 それぞれが出来る最大の笑みを浮かべてその男を送り出す。



 男は駆ける。


 巨人の脇をすり抜ける。己をつかもうと振られる巨人の手が、地面から伸びた金属の鞭により止められる。


 そのまま走り抜ける。砂を蹴る。


「田井中!! 頼んだ! 俺は屋上へ行く!」


「行け!! オッさん!! 振り返るな!! 全部、取り戻せ!」


 ああ、わかってるよ、田井中。


 テイク・イット・バックの時間だ。


 田井中の声を背中に受け、海原が地面を蹴る。


 マルスより示された目的地を見上げる。



 校舎、屋上。


「"融解結合 第1段階"」



 溶け合い、向上した身体能力で地を蹴る。


 顔中から漏れ出す黒い粘液はもう自然と、その仮面を象る。


 シエラ1、アリサ・アシュフィールドの人類最後の英雄の似姿を象る。



 鮫島が、海原に託した。


 アリサが、海原を選んだ。


 ウェンフィルバーナが、海原を生かした。


 そして、マルスが海原と共に在る。



 海原 善人は常に、常に誰かに助けられここまで来た。


 生きる意味を探せ。初めからその答えは海原の中にあった。


 この終わった世界の中、それでも人は助け合いながら生きようとしている。


 それは何者にも侵されざる人間の善性。


 海原の生きる理由は、それだ。


 善い人間の為に生きる。この絶望に満ちた終わった世界、されど滅びぬ善き人間のために戦う。


 善性の光、それを守る。


 それを邪魔する人間がいる。嬉々として、その光を弄ぶどうしようもないクソ野郎がそこにいる。



 ソイツだけはもう野放しにできない。


 滅ぶのばお前だ。お前はもうこの世界にいらない。



 お前を、ここで殺す。


 その敵の名を呼ぶ。





「きィイイイイイイイイはあああああらアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」


 ばき、ばき。


 ガスマスクの口蓋部分が裂け、叫びが。


 月に吠える。



 校舎の壁を、その凹凸を、ガラスを登る。


 硬化した腕を突き刺し、かかとを爆発させ、ねじれた槍を支点に、5階建の校舎を垂直に駆け上がる。



 月夜にその身を放り出す。



 海原 善人はそこに辿り着いた。









 ………

 ……

 …


「何故、何故、倒れない。何故、諦めない。キミは、お前は一体、なんなんだ」



 嫌悪感からか、樹原はもう口調を取り繕うことができなかった。


「ハァー、ハァー、ゲホっ、ヒュー、ヒュー」



 虫の息、その目にもう生気はなく、傷のない、出血していない部位などない。


 四肢こそまだ全てついているものの、その負傷は本来であれば人が立っていられる筈のないものだ。


 樹原はそれをよく知っている。どれだけ傷付ければ、どれだけ痛めつければ人の身体が、心が折れるか、知っていた筈だった。


 なのに、だというのに、まだ、コレは、この敵は。



「く、ジラ、指示を、まだ我は戦える……」


「ああ、王様…… まだだ、まだ行こう。まだ、生こう」



 その眼が消えない。瞼が割れて、そこから血をダラダラ流していても、まだ。


 自分を狙い続ける捕食者の眼が消えない。



 なんだ、コレは。コレは、何者だ。



「あ、はは。お前、本当に人間かい?」


「……人間だ。お前が今まで踏み躙ってきた人たちと同じ、当たり前の人間だ」



 息も絶え絶えに応えるその様子。言葉を紡ぐだけでその細い体には激痛が走る筈。


 なのに、その眼だけが消えない。



「う」



 樹原が、指先を敵に向ける。


 真空を生み出し、それを攻撃の手段にかえる怪物種、鎌鼬アゲハの業を再現する。


 それはあの田井中 誠をも反撃すらさせずに葬った見えない致死の一撃。


 瀕死の敵には充分すぎる一手。しかし


「ウオオオオ!!」


 ギチン。


 見えないヤイバが、防がれるはずのない一撃が、分厚い鉈の一撃に防がれる。



 久次良慶彦に侍る、灰ゴブリンがそれをさせない。既に残るは1匹、ただの灰ゴブリンが1匹のみ。


 それが有効打を凌ぐ。



 また殺せない。また届かない。


 時間が経つほどに、樹原は言いようのない不安が湧いてくる事に気付いていた。


 何をしている、何を手こずっている樹原 勇気。見ろ、あの弱々しい姿を、見ろ、あの出血量を。


 自分に言い聞かせる。そう、この場を支配しているのは自分だ。追い詰めているのは自分だ。


 死ぬのは、久次良の方だ。


 なのに、なのに。



「っあはは。キミ、お前、不気味すぎるよ。もういい加減楽になりなさい」


 言葉を向ける。ダメだ、あの眼が消えない限り、あの眼を消さない限り。



 アレは殺しても、死なない。そんな確信がある。



 だから、こうして言葉をーー



「お前、今、ビビってるな」



 は? コイツ、今なんとーー


 樹原がその言葉を理解するよりも、先に瀕死の敵の言葉が届く。



「何故、立てるかだって? お前はもうその理由を知っているんだ、お前は気付かないフリをしているだけなんだ」



 久次良の眼が、樹原を捉える。



「それはとてつもなく怒っている。お前がこれまで乗り越えて来た試練なんかとは比べものにならないほどに苛烈で、厳しく、容赦がない」



 受け継いだ意思が殺意が、その眼に灯る。



「何を、何を言ってーー」



「お前が見ようとしていない事だ。樹原 勇気。お前は無意識に気付いている、僕が何故立っていられるかを、僕の希望の源をお前は知っている、そしてーー」


 久次良の言葉は止まらない。樹原がどれだけその言葉を遮ろうとしても止まる事はない。





「お前はその希望の事が怖くて、怖くてたまらないんだ」


 久次良の眼が、口が笑った。






 コイツは何を言っているーー



「お前は…… お前は自分が思っているほど大した人間じゃあない。悲劇がどうのこうの言えるほど余裕なんてない。これまで運良くお前は、羊の中の唯一の狼でいれただけなんだ……」


 久次良が嗤う、その姿が被る。


 樹原が定めた障害、悲劇の阻害者、鮫島 竜樹と、そしてーー



「お前に足りないのは想像力だ。自分が他人に対して絶対的に優位だと常に信じている。自分が他人に脅かされるなんて心の底では本気で考えちゃあいない」


 消えない、その眼が。虫の息のその敵から、奪うことが出来ない。


「そのおめでたい想像力の欠如が、お前をこれから殺すんだよ。樹原ァ」


 その眼、その姿勢。恐怖に止まらず、虚構に構わぬその胆力。



「果たしてお前は、自分と同じ存在、同じ狼との殺し合いに生き残る事が出来るのかな」


 あの男、忌々しいあの男とどうしようもなく、目の前のちっぽけだったはずの少年が被る。



 叫ぶ本能。樹原の内で。この少年を、この敵を、早く殺さなければーー



「TWSG!!」


「ゲフッ?!」


「しまった?! クジラ!!」



 反射的に放った触手の一撃が、灰ゴブリンの迎撃をすり抜ける。


 久次良 慶彦の細い首に触手が巻きつき、みしりと嫌な音が立つ。



「あはは! 終わりだね、久次良くん! 最期に何か言い遺す事はーー」


 樹原は今度こそ、久次良が死の恐怖に囚われると思った。


 生意気な口など二度と聞けないはずだろうとーー



 ーーあ。


 その姿を見て、樹原は言葉を失う。



 首に巻き付けられた触手を解こうともせず、ただ久次良が右手の甲を此方に向けて、中指を立てていた。





「ーー地獄に堕ちろ。ナルシスヤロー」



 死を前に、久次良は笑う。


 ファックユー、その姿はまるで、海原 善人そっくりで。




「……不愉快だ、久次良 慶彦」





 触手に力が漲り、その男にしては細い首をへし折らんとーー











「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」







 その叫びが、今、届く。









 身体の細胞、その最後の一片に至るまで、その全てが一瞬動きを止めた。


 久次良の首に巻き付いた触手が、萎縮する。


 怖気。全身を、駆け巡る。


 記憶、あの奈落の中、擬態を僅かに解いた自分に対してなんの躊躇いもなく向けられた捻れた槍先を思い出す。



 その叫びは、樹原 勇気にとってはまさしく、ただしく、



 まさか、まさか、まさか。ありえない、ありえない。


 樹原が、その怖気を追う。


 月の明かりが、樹原を照らし続けていたその灯りが遮られる。


 夜の帳が、人の影が、月と被り、月明かりを樹原から奪う。




 その男を樹原は知っている。


 月を背に、飛ぶその男を樹原は知っている。


 己と同じ存在を。


 己の悲劇に埋もれる羊ではない。悲劇を笑い、悲劇を殺す、その存在。


 そんなはずはない。繰り返すその心中と逆に、無意識に喉が、腹が、身体が、叫ぶ。その男の名前をーー



 あ、あ、あああああああああああ?!



 お前は、お前。


 その名を呼ぶ。


 怖気た身体は、心はかの者の名を呆然と呟いた。



「……海原 善人」




 樹原の手から伸びた触手、久次良の首を掴んだ手応えが消えた。

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