第17話


 



「おーい! 彼氏さーん、こーんにーちはー!」

 

 鮫島が久次良に対して本日4回目の敗北を喫したその時、教室に快活な女の子の声が響いた。



「わっ」


「うお」


「おっ」


 久次良、鮫島、海原。3人の肩がびくりと跳ねた。



 久次良が苦笑いし、鮫島が海原の方を見やり笑った。

 海原が小さく息を吐いて同じように笑う。


「俺のことか?」


「あっ、その声でーす。彼氏さーん。伝言がありまーす」



「伝言?」


 海原が不思議そうに聞き返す。



「はい! つぐぐんからでーす! えーと、コホン」


「帰ってきたという知らせを聞いた。早く報告に来て…… だそうでーす!」


 伝言部分はやけにトーンの低い冷たい声で再現されていた。


「うわ、海原。お前まだボスのところに行ってなかったのかよ」


 鮫島がやや青ざめたような表情で呟く。表情が青ざめているのは決して負けがこんでいるだけではないだろう。


「行ってなかったと言うても、まだ校舎についてから1時間ぐらいだぞ? 誰がチクったんだ?」



 海原が鮫島に話す。


「あー、もしかして、つぐぐんに言ったらダメだったー? わたし、さっき言っちゃったんだよー、ごめん、ごめーん」


「ああ、いや。君が悪いわけじゃないんだが……。風紀指導に伝えてくれ。すぐに向かうって」


 少しトーンダウンした声に向けて海原は少しオロオロしながら語りかける。



「そう? なら良かったー! りょーかーい! つぐぐんに伝えておきまーす」



 ぶつり、声が唐突に消える。あいかわらず便利な力だなと海原は感心する。


 通信機器が使えぬこの状況で、離れた場所にいても声を届けることが出来るあの高校生の役割は非常に重要だ。



「ということで出頭してくるわ」


 海原は畳の縁から腰を上げ立ち上がる。気だるさがまだ身体にまとわりついていたがだいぶマシになっていた。


「おお、気ぃつけてな。女王様を怒らすなよ?」


「行ってらっしゃい、海さん。雪代さんによろしくね」



 将棋盤をいじりながら2人が海原に向けて声を届ける。


 海原は片手を上げる事でその声に応え、そしておもむろに後ろの机の上においていたトートバックを掴み、中身を2つ取り出した。



「鮫島、久次良」


「あ?」


「うん?」



 ひゅっ、ひゅっ。


 下手投げで2つの缶詰を海原が放る。


 鯖缶と書かれたラベルがくるりと宙を舞う。


 ぱし、ぱし。


 小気味良い音がほぼ同時に、2回鳴る。


 2人が手のひらでキャッチしたそれを確認した。



 海原はその様子を見て、にやりと笑い。



「鯖を食べると頭良くなるからな。きちんと食えよ」


 がららと音を立てながらドアを開く。


 そのままトートバッグを肩に引っさげて教室から出て行った。



「あいつが一番食った方がいいと思うんだけどよお」



「ふふ、鮫さん。それ、僕も思ったよ」



 悪態をつきながら2人は傍に鯖缶を置く。将棋盤に向かうその顔は少し、綻んでいた。










 …………………….…

 …………………

 ………………



 世の中には特別な人間と、そうでない人間がいる。


 この前提が間違えていないのなら私は多分前者のほうなんだと思う。


 生まれはヒロシマの名家、雪代家。何不自由ない生活を送って来た。


 昔から特段何も努力しなくても大抵の事は出来た。


 勉強は一度聞けば理解し、スポーツは少し練習すればすぐに試合に出れる。昔から努力してきた人よりも数時間練習した私の方が上手いなんて事はザラにあった。



 雪代家は古来よりヒロシマの政の中心にて、その才を文武問わず発揮し続けてきた家だった。


 私はその才を惜しみなく受け継いでいた。


 みんな、わたしを特別扱いしてくれた。


 流石は雪代の血だと褒めそやした。


 それでもわたしは驕ることはなかった。必要のない努力も、つまらない争いも全て避けずに受け止め続けた。



 何故か。



 わたしには3つ年上の姉がいる。


 雪代を知っている人間ならば姉の名前は誰でも知っている。


 曰く神童、曰く先祖返り、



 曰く家始まって以来の愚か者。



 姉に何かで勝った事は一度もない。勉強もわたしがテストで99点を取ったとしたなら姉は100点を取る。


 わたしがスポーツの試合で勝ったなら、姉は優勝している。


 才能が違う。


 普段は、完璧な雪代の人間を演じ、周りの期待に応え続ける姉。



 そんな姉が嫌いだった。


 そんな姉が私は怖かった。


 しかし、それ以上に私は。


 雪代継音は雪代長音に憧れていた。


 何をしても勝てない、超えれない壁の存在は私にとって人生は本気で送るに値するものだと感じさせてくれる唯一のものだった。



 そう、私が特別なら姉は、唯一だ。



「継音、あなたも自由にすればいい」


 しかし、ある日。唯一はそう言い残して家を去った。


 自由になりたい。家のしがらみなど知ったことか。


 姉が20歳になったあの日。家族の前でそう宣言した姉は私の前から姿を消した。



 私は私の才を、そしてその才を授けてくれた雪代家が大事だった。母がいて父がいて、妹がいて、そして唯一の姉がいる。


 そんな雪代の家が大切だった。



 でも、姉にはそうではなかったらしい。


 まるで紙くずを捨てるかのように姉は家を棄てた。


 姉が家を出たのち、家族から姉と会うことは禁じられた。


 私はその言いつけを当たり前のように守った。当然だ。


 ひどい裏切りだと感じた。わたしが大事にしていたものを姉は簡単に棄てた。


 家を、家族を、私を。


 私にとって大事なものは姉にとっては大事ではなかったのだと気付いたのだ。


 私にはそれがとてつもなく腹立たしかった。胸の中にとぐろを巻くような暑く、苦く、苦しい感情。



 それが怒りだと気付くのにあまり時間はかからなかった。



 結局、姉とは再会する事になる。


 世界が終わったあの夜に。



 あの夜、多くの避難者が身を寄せた私の学校。基特高校で私たちは再会した。



 久しぶりに会う姉は変わっていた。


 あの頃に感じた怖さや凄みは和らぎ、その表情は世界が終わってしまったというのにどこか安心したかのような安らかなものだった。





 遠目に見る姉のとなりには見たことない男がいた。


 品の良い雰囲気や、特別なものは何も感じることは出来ない普通の人間。おおよそ姉のとなりに立つ資格など見受けられないただの凡人。



 だが、姉がその男を見る眼を見て気付いた。姉にとってはその男は特別なのだ。それにすぐ気付いた。


 姉が男を見るその眼は、私が姉を見る眼と良く似ていたのだから。


 この男が、姉を変えたのだ。


 その男の名前は、海原 善人。


 私は、この男が嫌いだ。


 汚い言葉遣いに粗雑な所作。男臭い身体つきに、あの力のない、それでいて見つめているとどこか底知れないものを感じるあの瞳。


 嫌いだ。嫌い、嫌い、嫌い。



 私を捨てた姉が嫌いだ。


 私の姉を変えたあの男が嫌いだ。


 でも、何より嫌いなのは。



「私だ」



 私は、私が一番嫌いだ。自分を捨てた姉を憎みきれない自分が嫌い。あの凡人の男に嫉妬する自分が嫌い。


 私には嫌いなものが多すぎる。世界が終わってしまったのは私がこの世界を嫌ったせいなのではないかとたまに思う。




「はあ」


 1人では広すぎるこの生徒会室で私は1人、息を吐いた。白い息が広がる。煙草は吸った事はないけど、こんな感じになるのかな。


 私には義務がある。雪代家の人間としての義務を捨てた姉とは違う。



 私には力がある。あの男とは違う特別な力がある。



 私が嫌ったせいでこの世界が終わってしまったのならば私には責任がある。


 この特別な力を正しい事に使う責任がある。



 私に道を示してくれた会長はもういない。


 ならば私は私の信じる正しい事を成し遂げよう。この終わった世界の中でそれを貫こう。



 それが私、雪代継音の善き事だ。




 ゴンゴン、ゴンゴン。


 静寂が灯る生徒会室に無粋なノックが響いた。



「待たせてすまん。海原だ」


 がちゃりと観音開きのドアが開く。そこには予想通りの人物が立っていた。


「遅い、海原さん。探索が終わったらすぐに私のところへ来るよう言っていたはず」


 私は椅子に座ったまま、その男に声を浴びせる。


「悪い、少し色々野暮用があってな。謝るよ。ボス」


「その呼び方はやめなさい」


 にかりと、笑うその顔が。人懐こさの中に陰るその血生臭さが鼻に付く。



 姉は、この男のどこが良いのだろう。


 私は口を真横に結びながら、椅子に少し深く座り直した。

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