第16話


 


「にしても、すげえなこれ」


 海原は先程、保健室で治療を受けた右腕を眺めながら校舎の中を進んでいく。


 つい先程まで皮がむけて肉が削れていた傷があったとは到底思えないほどの完璧な治り具合。



 腕をぐるぐると回しながら海原は校舎の階段を目指す。



 海原の所属している探索チームには特別に住居スペースとして空き教室が割り当てられている。


 通常の避難者と違い、率先して危険な校外に出向く彼らはこの基特高校での生活において生徒会のメンバーの次に優遇されていた。



「あー、身体だるっ」


 倦怠感が四肢にまとわりつく。浅い階段を登るたびに身体が軋む。


 校舎中に満ちる冷気のおかげで汗こそ引いているものの先程の逃避行のダメージは抜けない。



「ほんとすごい学校だな」


 海原は歩きながら呟く。まるでショッピングモールのような構造をしている校舎を進んでいく。


 上を見上げれば吹き抜け構造になっており、二階、3階、4階まで教室が見通せる。一番上はなんと天窓が付いている。ガラス越しに屈折した日差しが校舎内部を明るく照らす。



「金持ち学校、しかも頭が良くて、スポーツも強い。かー、出来過ぎじゃの」



 海原は疲れを誤魔化すためにぼやき続ける。揮発していく汗の臭いが鼻に付く。刺激臭ではなくホコリのようなこもった臭いがする。



 海原の学生時代の学び舎とは違い、廊下といってもそのスケールが違う。幅は広く、白い大理石で出来たフロアに寂れは感じない。



 廊下の横に備わる大きな空き教室を海原は眺めながら歩く。ちょっとしたテナントなら入りそうな広さ。


 県下随一の進学校にして、あらゆる部活が全国大会の常連。県内はもちろん県外からも多くの入学希望者が集まる、有名校。


 それが今の海原が身を寄せる居住地になって た。



 海原はそのまま長い廊下を歩き続け、とある教室の前で立ち止まった。



「海原だ、入るぞ」


 ゴンゴンと手荒なノック、保健室へのノックとは種類が違う。


「あいてるぜえー」



 ぶっきらぼうな男の声が教室から帰ってくる。

 

 そのまま海原はガラガラと引き戸を開け教室内へ。


「いよう、海原、生きてたのか」



「朝イチで顔合わしてだろうが、お前より先に死んでたまるかよ。鮫島さめじま



 机や椅子を全て教室の後ろ隅に積んでスペースを確保したその教室の中心に彼らはいた。



 どこから持ってきたのか定かではない畳マットをいくつか敷き詰めた場所に鮫島と呼ばれた男があぐらをかいていた。


「あ、鮫さん。それ二歩。僕の勝ちだね」



「えっ、嘘、待って、待っただ、久次良くじら


「ダメだよ、もうこれで3回目だよ」


 その鮫島と対面で将棋盤を挟んで同じくあぐらをかいている男、いや少年が無慈悲な宣告を告げる。



 オールバックに整った眉、三白眼気味。袖をまくったワイシャツに、ダークブルーのスラックス、海原と同じサラリーマン崩れ姿の鮫島が頭を抱える。



「ぐお、マジかよ、チクショー。強すぎんだろ、マジでよお」



「普通だよ、てか鮫さんが自滅しただけじゃん」



 将棋盤のコマを元の位置に戻しながら青い学校指定のジャージ姿の久次良が無表情のまま呟く。


 ジャージの右袖には久次良 統と刺繍が入っていた。


「海さん、お帰り。結構早かったね。あれ、雪さんは?」


「おう、久次良、きちんと飯くったか? 雪代は保健室でスヤスヤだ」


 海原は、手近にある机の上にトートバッグを置く。ごん、と缶詰が机にぶつかる。


 手荒にその中に手を突っ込むと、野菜の種が入っているビニール袋を取り出して、トートバックの脇に置いた。


「あらら。何かあったの? 今日は確か、エブリデイに食料探しだっけ」



 久次良が将棋盤のコマを触るのをやめて海原にはなしかける。ポワポワとしたマッシュルームヘアが揺れた。



「化け物どもだよ。店内で一回、帰り道で一回。普通に死にかけた。雪代は化けものにびびってダウンした」


 平気な顔で海原は嘘をついた。二人がそれに気付く事はない。


 二人が座っている畳スペースに腰掛ける。ボタンをもう一つ開けて胸元を仰ぐ。



「マジか、そりゃおつかれだったな、オイ。海原、保健室に行ったつーことはよお、一姫は元気だったか?」


 鮫島があぐらをかいたまま海原の方へ身体を向ける。


「春野さんか? あの子にゃ頭が上がらんよ。出来た子だ。本当にお前の姪なのか?」


「うるせえよ、そっくりだろうがよお、俺によ」


へいへいと海原は軽口で返す。


ため息をつきながらぼやいた。



「ぶちたいぎぃ。このままのペースじゃすぐ死ぬわ」



「海原、それ、笑えねえっつうの」



 鮫島の平坦な声が空き教室に響く。この部屋にはいま、この3人しかいない。


 3人まで減ってしまっていた。



「悪い、下手な冗談だった。たしかに笑えねえ」


 海原はその随分ひろくなった教室をぐるりと見回す。たしかに、笑えない。


「随分、減っちゃったしね。もう一週間ぐらいになるんだっけ」


 久次良が将棋のコマを鷲掴み、そのまま無造作に盤の中心に置いた。ぶっ格好なジェンガのようにコマが積まれている。


「そうだな…… もう一週間か。この前の探索じゃ何も見つからなかったんだろ?」


 海原が誰ともなしに問いかける。



「そうだね、が向かったはずのところ一昨日も鮫さんと、警備チームに同行して行ってみたけど何もなかったね」



 久次良の華奢な指先が将棋のコマの山から一つずつコマを抜き取って行く。


「まあ、ぼちぼちやべえよなあ。つーかあの会長なしでこの先、俺ぁこの共同体が持つとは到底思えねえんだけどよぉ」



 間延びした声で鮫島がぼやく。大きな指先が久次良と同じく将棋の山からコマを一つ抜き取る。



「そうだね、しょーじきあの人なしじゃあこのままだとヤバイかも。知ってる? この前また体育館組と警備チームのメンバーが揉めたらしいよ?」



「それ初めて聞いたわ。どういう事だ?」


 海原が久次良に問いかける。


 久次良が片目を瞑りながら海原の方を見つめる。小さな顔に切れ長の瞳、右端の髪の毛が瞳にかかり少し隠れていた。


「なんでも、警備チームの一人が避難者3人ぐらいをボコボコにしちゃったみたい」



「ああ、アレか。海原は確か、お姫様と探索に出てたよな?」


 鮫島が顔を上げ、思い出したように呟いた。


「それ初めて聞いたわ。理由は?」



「なんでも、警備チームの一人の妹さんが避難者に襲われかけたらしいよ? 警備チームの家族だから、えこひいきされてるとかわけのわからないいちゃもんをつけられてね」



 久次良は興味なさそうな平坦な声色で呟く。その目は将棋盤に釘付けになっている。


「……その襲われた子はどうなったんだ?」



「間一髪で別の避難者の人が見つけたらしくてね。幸いと言っていいかはわからないけど未遂で終わったらしいよ」



「不幸中の幸いだな。で、その馬鹿3人は?」



「追放だって。元々素行もあまり良くないし、雑用の協力も殆ど無かったみたいだからね。警備チームにその日のうちにつまみ出されて、もうは超えれないようになったみたい」



 はあ、と3人が同時にため息をつく。


 それは例えば避難生活というストレスのかかる生活の中、男に襲われるという強い恐怖にさらされた人物へのやるせなさ。


 それは例えば、この終わった世界の中、安全地帯を失い放り出された愚か者へ対するなんとも言えない気持ちからのものだった。



「で、海原。目当てのもんはあったのかよ?」



 沈黙を破ったのは鮫島だ。三白眼気味の眼をぎろりと海原へ向ける。彼に人を睨んでいるという意識は全くない。



「ああ、予想通りだ。大体の野菜の種を見つけた。エブリデイの各店舗にあると思って間違いないだろ」



「さすが、ファーストペンギンは違うな、おい」


「うるせえ、その呼び方で呼ぶな」


 海原が鮫島の方を見ながら口を尖らせた。しかしその表情は柔らかく剣呑な雰囲気はない。


 海原と鮫島、そして久次良。この1か月で生き残った数少ない、変わった凡人達。例え力なくとも特別な才能がなくても。


 何もしないを選ばなかった、勇気ある凡人達は静かに笑った。



「またに隠しといてくれよ。もしもの時のためによお」


 鮫島がギザギザした歯を見せて笑いながらトートバッグを見つめた。


「わかってる。次の探索の時に行きがけにおいてくるさ」


「頼むぜ。あの傑物がいないんだ。ここも多分長くは保たねえからな」



 傑物、海原にはそれが誰の事を指しているのかすぐにわかった。



「東雲会長、あの子が死んだとは僕、どうも思えないんだよね」



 久次良が将棋の駒を摘み、ジャージのポケットから取り出した緑色のハンカチで磨く。駒に刻まれた字は、王将。


「将棋でもさ。王将ってすごい自由に動けるじゃん。僕らが将棋の駒だったとしたらあの人は間違いなく王将だよ。その駒が簡単に落ちるとは思えないんだけどなあ」



「ハッ、久次良。てめえのそれも笑えねえな」


「何がさ、鮫さん」


 鮫島が畳に仰向けに転がる。


「俺らが将棋の駒なら、すでに王将が落ちてんじゃねえか。王将がとられたら終わっちまうだろうがよお」



「だから、あの人がそう簡単にっ」



「死ぬ」


 鮫島が寝転んだまま、誰に話すもなく紡ぐ。その言葉は重く、教室に広がった。



「人間はな、簡単に死ぬんだよ。そらもう呆気なくな。天才だろうが凡才だろうが。超人だろうが凡人だろうがな」


「そしてこの教室の広さが何よりの証拠だ。この部屋によお、初めは何人いたよ? 宇多川 は? 樹原は? 野嶋は? みんな、逝っちまってるだろうがよお」


 鮫島が目を瞑りながら言葉を紡いでいく。その言葉には誰も反論出来ない重みがあった。



「それは……」



 久次良が将棋の駒を置き、言葉に詰まる。目を逸らし将棋盤の譜面を撫でる。



「鮫島」


 海原がたしなめるように悲観論者の名前を呼ぶ。


「なんだよ、海原、お前が一番わかってるだろうよお。ファーストペンギン」


「呼ぶなって言ったよな?」



 海原の声が低くなる。



「ふん、怒んなよ。久次良はまだ若い。その辺を勘違いして早死してほしくねえていう俺なりの忠告だ。悪い意味で聞こえたんなら謝

 るさ」



「いいよ、別に。てか僕だって大学生だ。こども扱いしないでよ」


 久次良がジャージの足袖をいじりながら呟く。



「してねえ。お前は頼りになる対等な探索チームの仲間だぜ。久次良」


 鮫島が寝転びながら久次良を見ながら話す。



「子供扱いしてやれねえ、余裕のない大人で悪いな」


 鮫島が柔らかく笑う、八重歯、ギザ歯がちらりと浮く。



「んでよお、海原。てめえファーストペンギンって呼ばれるの嫌がってるがよお、何もバカにして言ってんじゃねえんだぜ?」



「あ?」


「キレんなっつうの。いいか、あの日、あの時、


「……」


「お前があんな真似するからよ。無視できねえだろうが。一人でカッコつけさせるわけにはよお」


「何が言いたいんだ、鮫島」



「あ、分かれよ、てめえ。あれだよ、あれ。死ぬなってこったよ。てめえが死んだら俺らは何のためにカッコつけてよ、こんな死にたがりみたいな真似してんのかって話になるだろうがよお」


「鮫さん、顔赤くなってない?」



 久次良がニヤリと唇を歪ませる。薄く整ったその顔の造形は、久次良を年相応以下、幼く見せた。



「う、うっせえよ、おい、久次良、再開すんぞ。次は飛車角落ちだ。ギッタギタにしてやる」



「弱気なジャイアンか、お前は」



 海原が唇を緩めた。


 起き上がった鮫島の、あの口の悪く気の良い友人の顔こそ見えなかったものの、その耳が赤くなっているのに気付いたからだ。



 鮫島の対面に座る、久次良も笑っている。鮫島もきっと。


 世界が終わり、人はその命の権限を狭めていた。それでも人は、だれかと協力し、支え合い微かにでも、笑う事が出来ていた。



 ここは、基特高校1年4組教室改め、基特高校、生徒会風紀指導直属の物資探索班、宿直室。


 通称、探索チームの部屋。


 見せかけの安らぎに背を向けて、命の保証のない荒野に立ち向かう選択をした人間が集まる場所。


 凡人たる身にありながら、超人達に、あの奇妙なこども達だけに闘わせる事をよしとしなかった、カッコつけたがりの大人が集まる場所だった。



 探索チームは先の大規模探索においてその過半数以上を減らした。


 それでもまだ彼らは生きていた。


 元大学生、久次良 慶彦くじら よしひこ


 元銀行員、鮫島 竜樹さめじま たつき


 元会社員、海原 善人うみはら よきひと


 元ニート、雪代 長音ゆきしろおさね



 約1名は保健室でスヤスヤ。残り3人は教室でそれなりに仲良くしていた。


 彼らはまた、外に出ていく。奈落の底より這い出てきた歪な生命がはびこる、アウトなヒロシマ市街へ。


 大多数の力なき避難者の食料を、力をもつこども達の明日の活力を得るために彼らは命がけで廃墟を漁り続ける。


 探索チーム、残り4人。




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