第15話
「忙しいところ、すまん。雪代 継音の探索チーム、海原と雪代だ。一人怪我人がいる、開けてもらえないか?」
保健室のドアの向こうから、少し掠れた男性の声が聞こえた。
「はい、遠果ちゃん、放送指導からすでに聞いています、どうぞ」
「助かる、だが申し訳ない、春野さん今、手が塞がってるんだ。悪いけどドアを開けてくれないか?」
「あ、ごめんなさい、すぐに行きます!」
春野はデスクから立ち上がり、ドアを開く。開けた瞬間、一瞬春野の脳が揺れた。
目の前の男と女から香る濃厚な匂いに、春野は一歩後ずさりした。
「あ、悪い、臭いよな。すまん、こいつ置いたらすぐ出るわ」
目の前の男、汚れたり削れたりしているワイシャツにところどころすりむけた黒いスラックスに身を包んだ海原が申し訳なさそうに眉を傾けた。
「い、いえ! 外に出てくれてる方にわたし、ごめんなさい!」
「いや、気にしないでくれ、それより雪代を寝かせてやりたい」
海原は雪代を抱えたまま部屋に入る。部屋の右にカーテン付きのベッドが五つ。その全ては空いていた。
「ええ、すぐに。一番近いベッドに寝かせてあげてください」
春野が一番近いベッドへ促す。素直に海原はそのベッドに雪代を仰向けに寝かせた。
力の抜けた雪代は、ベッドに張り付くように寝転がる。黒い髪がばらりと広がった。
すぐに春野が右手で、雪代の額を撫でる。その手にはすでに橙色の光が灯っていた。海原は眩しいものを見るような目つきでその様子を見つめる。
「良かった、怪我はないみたいですね、呼吸も落ち着いてるし、このまま休ませてあげれば大丈夫だとおもいます」
「そうか……ありがとう」
「それ以外、例えば怪我以外で悪いところとかはないか?」
「今、診た限りではありません。ひどい疲れと心労ですかね? どちらにせよゆっくり眠ればだいぶよくなると思います」
海原はその言葉を聞いて、ゆっくり息を吸ってそれから吐いた。
「あの……、外で何があったんですか?」
春野が右手を額から離す。
「トラブルだ。馬鹿でかい化け物に襲われて
海原は近くのパイプ椅子にゆっくりと腰をかけながら春野の問いかけに答える。
嘘はついていないが、真実も言っていない。それは雪代との約束を守る為でもあった。
「そうですか……。ご無事でなによりです。でも、そんな生き物もいるんですね」
「あれを生き物って言えればな。でも今回はマジでやばかった。ほんと、ここに戻ってこれてホッとする」
海原は深く椅子の背もたれに身体を預ける。エアコンがついているかのように涼しい部屋の空気がオーバーヒート寸前の筋肉を冷やしていく。
「あ、海原さん。そこ右腕怪我してます」
「ん? ああ、ほんとだ。全然気づかなかった」
春野が海原の右手、擦りむいて血が滲んでいる傷に気付く。あの河川敷でついた傷だろう。海原は今指摘されるまでまったく気づかなかった。
「待ってください、すぐに消毒しないと」
「いや、春野さん大丈夫だ、もったいないけ他の人の為にとっといてくれ」
「ダメです! バイキンが入ったらどうするんですか、すぐに治療しますからね」
海原は自分より10近く年下の女の子にたしなめられた。春野のつり上がった眉を見ると苦笑しながら腕を出す。
「あいよ、ここは保健室だからな。保健指導にまかせるわ」
「そうです、逆らうのは許しませんよ、ふふっ」
「それ、雪代妹の真似か?」
春野が戸棚から救急箱を取り出し海原の前に椅子を置いて座る。
慣れた手つきでわた布に、イゾシンと書かれた容器に入っている黒い消毒液を染み込ませた。
「バレました? 内緒にしてくださいね、雪代さんに怒られちゃうから」
猫目を片方だけ瞑り、春野が笑う。女と子供両方が混じった笑顔。
この子は将来、美人になると海原は胸中で呟いた。
「ああ、わかったよ。てかイゾシンかー、それ沁みるんだよなあ」
「海原さん、大人なんだから我慢してくださいね」
春野が、水を染み込ませたタオルで傷口を優しく拭う。赤い血と土汚れがタオルに付着した。
「大人ねえ、大人でもさあ、て、痛っ、やっぱ痛い」
海原がぼやいているといつのまにかポンポンとピンセットでつまんだ消毒液の染み込んだわた布で傷口を叩かれた。
黒い液が傷口に塗られていく。その度にズキ、ズキと傷が疼いた。
「はい、これで痛いのは終わりです。よく我慢しましたね」
にこりと春野が笑う。
「春野さん、結構あれだよな。S気味だよな?」
「さあ、どうでしょう。じゃあ仕上げしますね」
春野がピンセットやわた布を片付けて、右手を海原の傷口の上に持ってくる。
「治療、始めます」
春野が小さく呟くとそれはすぐに始まった。
暖かな光がその右手のひらから溢れる。ハロゲンヒーターのような光の色。そして傷口に感じる温感。
肌に直接温感湿布を貼られたような心地の良い感覚を海原は覚えた。
「痛くないですか?」
「ああ、問題ない」
すぐに傷口に不思議な現象が起き始めた。通常なら時間をかけて治癒していくはずの傷が治り始めている。
すでに血は乾き、止まっていた。不思議なことにかさぶたができることはなく代わりにじゅくじゅくと血がゼリー状に広がっていく。
それはやがてゆっくり硬くなり、数秒もしないうちに皮膚に同化して行った。
「ふう、治癒、完了です」
春野が息を吐いて海原の右腕から手を離す。海原が右腕を掲げて塞がった傷口を確認した。
奇妙な現象、あの姿の見えない声と同列の不思議なことがまた起きた。
「あいかわらずすげえな、春野さん」
海原は目を見開き、傷口を眺めて呟く。春野がにこりと笑いながら
「いえ、わたしにはこれぐらいしか出来ませんから。でもあまり怪我はしないでくださいね? 」
「ああ、気をつけるよ、っとそうだ。春野さんにお土産があるんだった」
「お土産?」
海原は足元に置いたトートバックを探り始める。
「前に好きって言ってたろ? 桃の缶詰」
ひょいと、海原が缶詰を取り出して春野に差し出した。
「え! ほんとだ、桃缶! ……あっと、でもこれ一度雪代さんに出さないといけないんじゃあ?」
「一個ぐらい大丈夫さ。今回はかなりの量を持って帰れたけえな。それに雪代妹だって春野さんに渡したと言ったら納得するだろ」
戸惑う春野に海原が押し付けるように桃缶を突き渡す。ワタワタしながら春野がそれを受け取った。
「もう、強引なんですから」
「春野さんとは仲良くしときたいのさ」
ギシっ。
雪代の寝ているベッドからわずかな物音がする。それに気付いたのは春野だけだった。
海原はにやりと笑い、席を立つ。
「じゃあうちの眠り姫を頼みます、少し休んでくる」
「え、ここのベッドで休んでいかないんですか? 海原さんも相当疲れているんじゃ」
「あー、あんまり怪我人でもないのにここを使ってるとよ、避難組や、ほかの連中に申し訳なくてな。無理はしないから大丈夫」
海原が足元のずっしりとしたトートバックをひょいと持ち上げる。
「じゃあ、ありがとな、春野さん。また何かあったら頼む、桃缶食べてくれよ?」
「いえ、これが仕事ですから。雪代さんのお姉さんの事は任せてください。桃缶、ご馳走になります」
海原は春野に手を振る、最後に雪代の寝ているベッドを一瞥してから保健室を後にした。
春野は海原に渡された缶詰をデスクに置いてじぃと見つめる。
「覚えててくれてたんだ」
にこりと笑いながら、それを戸棚にしまった。
部屋は涼しく、静かだ。
「雪代さんのお姉さん、もしかしておきてます?」
返事はない。すー、すー。とベッドで寝ている雪代の寝息だけが部屋に響き続けていた。
春野はまた柔らかく笑い、雪代のベッドへ向かう。
手のひらに力を込め、治癒の光を雪代の額に灯し続けた。
「早く、元気になってくださいね。頼りにしてるんですから。あなたたちのこと」
春野はこの集団生活の中において、数少ないマトモな大人の一人にそう呟きを零した。
午睡の誘惑と戦いながら結局そのあと2時間近く春野は自らの特別な力を使い続けた。
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