第14話


 



「ん…。起きないと」


 まだ暗い部屋の中、ひとりの少女が浅い眠りから眼を覚ました。


 学校指定の体操服、膝丈の黒いパンツに上はキャミソールだけの寝姿は妙に扇情的であった。


 ベッドから身体を起こしゆっくりと伸びをする。彼女の年齢にしては豊満な胸がキャミソールを持ち上げた。


 くりくりとした猫のような目をゆっくりと擦り、顔にばさりとかかる長い髪を手ぐしで整える。


 基特高校、生徒会保健指導、春野 一姫の朝は早い。


 日が登るのが早いこの夏の時期、太陽が昇るのと同時に、保健室のベッドから起きでる。



 桶に溜めていた水で顔を洗い、探索チームが持って帰った歯ブラシと歯磨き粉で口をゆすぐ。


 ヘアゴムで簡単に髪を縛り、ハンガーにかけていたブラウスと保険医の遺していった白衣をばさりと羽織る。


 丈の長い白衣の裾から、時折黒い学校指定の体操パンツと膝小僧が見え隠れする。ヘンテコな格好だが、不思議なことに彼女には似合っていた。



「えっと、今朝はこれだけにしておこうかな」



 戸棚にしまってある乾パンの箱と、使いかけのジャムの瓶を取り出す。


 乾パンはもともと学校に常備されていたものだが、この赤いイチゴジャムは違う。探索チームのとある男が以前、配給とは別にこっそりと置いて行ってくれたものだ。


 ーーきみと仲良くしたいけえさ。


 あっけらからんと、ともすれば賄賂だと言いながら渡された時の事を思い出す。


 そういえばあの変わった大人は今日、探索に出ているはずだ。


 乾パンにジャムをのせて、ぱきりと噛み砕く。唾液と混じると小麦粉の柔らかな味と甘い香りが口の中に広がる。


 飲料水の入ったペットボトルを煽りそれらを流し込む。


 一時の至福。


 生徒会のメンバーは食料の配給を優遇されているため他にも食べるものはある。


 だが、春野の生来の性格が、粗末な食料のみの避難者を差し置いて優遇を受ける事をよしとしなかった。


 短い食事を終えると保健室の掃除、医薬品の確認、体育館の避難者達の体調チェックなど仕事は多岐に渡る。



 緊急の仕事、例えば探索チームや警備チームの怪我人が運ばれてきた場合は、それらの看護も彼女の仕事となる。



 幸いと言うべきだろう。今は保健室に備わるベッド、五つのうち全ては空っぽに空いていた。




 看護の仕事がないとはいえ、ほかの仕事を行なっているだけでもあっという間に日は空の真上にまで登り、容赦なく照りつけ始めくる。




 朝が終わり、真昼がやって来る。



 空調などつくはずもないこの状況、密室で作業をしていたというのに、春野の小さな額には汗ひとつ浮いていなかった。


「すごいなあ、雪代さん」


 春野の脳裏に、あの冷たい目をした同級生、雪代 継音の姿が浮かんだ。彼女がいなければ、この校舎内での生活はすぐに破綻を迎えていただろう。



 生徒会、風紀指導。雪代 継音の力は校内全域に及ぶ。



 今も、真夏の陽が真上に揺蕩う時間だというのに部屋の室温は上がらない。涼しく、快適な気温を保ち続けていた。



「ふう、あともう少し頑張ろうかな」



 デスクに座り、紙のノートに向き合う。


 ピンク色のシャープペンシルをカチカチと鳴らし、白いノートに何かを書き込んでいく。現在の医薬品の備蓄と、体育館にて生活する避難者達の怪我人や、病人の数を符号していく。


「お医者さんでもいればなあ……」


 ぷくりとした桜色の唇にシャープペンシルを押し当てながら春野が呟いた。


 彼女達の日常が壊れてから早くも1か月以上が経とうとしている。当初はあてにしていた警察や自衛隊の救難もまだ、無い。


 電話、SNS、メール。それらの通信手段も失って久しい。助けを呼ぶ事すら困難。


 いやそれどころかテレビ、インターネット、ラジオ。それらの情報媒体も全て使えないために周囲の状況も分からない。



 果たしてこんな風になっているのはヒロシマだけなのか、それとも……。



 ーー日本全て、いや世界中すらここと同じ状況になっている可能性すらあり得る。



 春野は、あの日の生徒会長の言葉を思い出す。


 彼女も他の大多数の基特高校の生徒の例に漏れず、県外からの入学者だった。連絡の取れない家族の事を思うと不安と恐怖で胸が張り裂けそうになる。


 だがその安否すら分からない。携帯やネットが使えないだけで人と人の距離は離れてしまう。


 だから信じるしかない。離れている家族の無事を信じて自分も生き残る。


 幸いな事に年の離れた叔父がこの基特高校に避難していた。春野の母親の弟である彼は口が悪い頼りになる。


 叔父さんと一緒にまずは生き抜く。それしか、ないのだ。


 それしか出来ることはないのだと春野 一姫はこの1か月で覚悟を決めていた。



 彼女のように覚悟を決める事が出来る人間は少なかったが……。





「わたしが頑張らないと……」


 春野はほっぺたをパチリと挟み込むように叩く。それからの手のひらを広げてジッと見る。



「やっほほー! ヒメッチ、今おはなししてもいーい?」


「わっ!」



 突然、春野の耳に快活な、太陽をはじけさせたような声が届く。何度聞いても未だに驚いてしまう。


「ねえ、遠果ちゃん。その、もう少し優しく声をかけてくれると嬉しいかな?」



「あっはっはー! ごめん、ごめーん。わたしもまだこの力の使い方にはイマイチ慣れてなくてさー、つぎから気をつけるねー」



「ありがとう、遠果ちゃん、でもそのセリフもう5回ぐらい聞いた気が」



「えー? そーかな? あ、そうだ! ヒメッチに伝えないといけない事があるのー!」



 春野は小さく、息を吐く。暖簾に腕押し、糠に釘。この子をたしなめる事が出来るのは風紀指導か、生徒会長ぐらいだ。


「ふう、何があったの?」



「今から、つぐぐんのお姉ちゃんとその彼氏さんが保健室に行くってさー! お姉ちゃんが倒れちゃってるらしいからー、ヒメッチの癒しパワーでーー」



「わかった、お姉ちゃんって事は雪代 長音さんね?」


 姿の見えない声に対し春野は立ち上がり、すぐに行動を開始する。


 デスクに置いてある何冊かのノート、そのうちの一つ、昨日の夜に雪代 継音が届けにきた表紙に外出名簿と書かれてあるそれを開く。


 8月2日と書かれているページ、そこにはたしかに雪代 長音とあの変わった大人、海原 善人の名前が表記されていた。



 使っていない桶に溜まった水の冷たさを確認。日陰で干しているタオルの枚数を数える。



「そーそー! あのぼんきゅっぼんのちょー美人のね! あの例の人が運んでくれるらしいからー! 頼んだぜい、基特高校、生徒会保険指導、春野ヒメッチ!」



「ええ、教えてくれてありがとう、遠果ちゃん」



「ヒメッチ、わたしも放送指導て呼んでよー!」


「ふふ、みんな遠果ちゃんに感謝してるよ、ありがと、放送指導の多喜 遠果ちゃん」


「おっ、さすが! ノリがいいねー、ヒメッチ、二人の事は任せたよー、



 最後に響いた声だけ、少し陰を持っていることに春野は気付いた。しかしそれを表に出すことはない。


「ええ、それがわたしの役割だからね。じゃあまた後でね、遠果ちゃん」



「かっこいーぜ! ヒメッチ、わたしもこの力をもっともっーと役立てるよー、じゃあまた後で!」



 ぶつり。まるで電話が切れたような、なんらかのラインが途切れたような音。


 それきり保健室はウソのように静かになる。


 多喜 遠果の不思議な力、本人は放送と呼んでいる現象が終わった。



 春野は小さく眼を瞑り、それから手のひらに力を込めた。


 じわりと暖かさが手のひらに広がると、ぽわりと両のてのひらに橙色の光が灯る。



 多喜 遠果や、雪代 継音と同じ不思議な力は春野にも宿っていた。


 あの夜、世界が終わった後に突然、なんの前触れもなく春野に備わった力。



 それはこの終わった世界、命が簡単に失われる世界においてもっとも優しく、もっとも重要な力の一つでもあった。



「よし」



 手のひらをぐにぐにと閉じたり、開いたり。暖かさはそのまま手に宿り続けている。



 自分にこの力が宿ったのはきっと何か意味がある。


 それはみんなを救い、生き残らせる事。そして自分も生きていつか家族を探しに行く。それが春野 一姫の覚悟を支える柱だった。



 コンコン、控えめなノックが保健室のドアを叩いた。電気が止まっているため、もともと備わっているノッキングインターホンは鳴らなかった。

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