第11話




河の匂いが風に乗り、海原の鼻腔に届く。青草さと爽やかさを混ぜ、太陽の匂いがしみついたそれを思い切り吸い込む。



「すぅ、すぅ、す」


抱える雪代の安らかな寝息。鼻のみぞに乾いた血が粉のようになってこびりついていた。


それでもその寝顔に苦しさは見えない。寝室で午睡を楽しんでいるかのようにその顔は穏やかで気の抜けたものだ。


「呑気な顔しやがって」


海原は柔らかな声で呟く。焦りはある、不安も恐怖も。それらは海原の膝から足の裏に絡みつきその動きを鈍くさせていく。



「やるか」



だが、何故だろうか。腕に抱えるこの呑気な寝息を聞いていると不思議なことに身体が軽くなっていく。


ひんやりとした雪代の柔らかな身体を強く自分の体に抱き寄せた。


ふにゃふにゃの座ってない首を頭ごと抑える。



「赤ちゃんか、お前は」


きっと意識があればまた、元気な反論か帰ってくるのだろう。


ーー女性を赤ちゃん扱いって! 海原さんは変態ですか? そういうプレイをしたいのですか!?


脳裏に浮かぶ、雪代のガミガミとした声が今は懐かしい。



「やかましいわ」



一言、ぽつりと。



そして海原は地面を蹴り走り始めた。



大手河を渡れ。そこに生き残る道がある。



自らに言い聞かせながら海原は走る、本来ならば車の往来するその車道橋には今や、主人を失った車の残骸のみがぽつり、ぽつりと残っている。



なかにはドアがへしゃげて、車内が赤く染まっているものも、白いボディに青いシミがこびりついているようなものも。



在りし日の残骸を縫いながら海原が走る。抱える雪代の身体が必要以上に跳ねないように腕に、腹に力を込める。


「ふっ、ふっ、は、はっ!」


人を、しかも意識のない重たい人体を抱えながら走る事は普通に走るよりも相当負担がかかる。


夏の日差し、熱せられたアスファルトは容赦なく海原の体力を奪う。



「はっ、はっ、はあ!」



しかし、死に直面し、興奮した海原の身体は一時のボーナスタイムに直面していた。



頭は冴え、身体は軽い。跳ねるように海原は走り続ける。




「う、わっ!」


眼前、異様。


丸太ほどの太さに、4メートル程の長さ、茶色の鱗に覆われた化け物の人間のような腕が乗用車をぺちゃんこにして落ちている。



「は、もう笑うしかないわ」



その横を走り去る。饐えた匂いと、甘い血の匂いが一瞬香った。



橋の半分、あと100メートル。海原は頭の中で校舎までの最短ルートを思い起こす。



また別の乗用車が打ち捨てられている。ダッシュボードに置かれた小さな熊のぬいぐるみと、助手席に座ったままのナニカが目に入った。


ふっと、強く息を吐く。



「寝てて良かったな、雪代」



生存者が死者を置いて行く。少なくとも今の彼にはそれしか出来なかった。




あと70メートル。



ごおおおん。


「なんだよ!」



悲鳴のよう声で海原は文句を吐き捨て、走り続ける。足元から響く、鐘のような音。橋が大きく縦に揺れた。



あと50メートル。



グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!


肚が冷える。橋の下から聞こえる地獄から響くかのようなその声。水の弾ける音。


海原は橋の真ん中を走っている、河の方へ首を左右に振るが化け物達の姿は見えない。


ということは



「真下か!」



ごおおおん。



ミシ。


また橋が鳴る。海原の真下、場を河の中へ移した化け物同士の争いはまだ続いている。



化け物の巨体が河底を踏みしめる。黒い人影が


化け物の攻撃をかわし、腕をハンマーのように変えた黒い人影がそれを振るう。


胴体にぶつかるその人間大の槌が化け物の巨体を押し戻し、橋の支柱にぶつける。


理外の争いの余波が海原の足元を揺らし続ける。




あと、20メートル。



「あと、もう少しだ」


海原は走る、肩にかけたトートバックが大きく揺れる。雪代の身体を強く抱き締める。ひんやりとした冷たさが、火照る身体を少し冷やした。





がきん、ががが。


橋がこれまで以上に大きく揺れる。


あまりの音、そしてその揺れに海原は足を止めた。



それは正解だった。



ぎ、ぎギギギギギ。


橋が軋む、橋の欄干にがちゃり、がちゃり。何か硬いもので擦るような音が響く。



グオオオオオ!



どしん。



「おま、それはダメじゃろ……」


海原の力の抜けたような声。


化け物があの巨体を持って、橋をにじり登ったのだ。


傷だらけの化け物が器用にその前脚と後脚を橋の支柱、欄干に引っ掛けて登りきった。


濡れた身体から水が滴る。刻まれた傷から青い血が滲み出た。


グルルルルル。


ゆっくりと化け物が海原を見つめる。顔に斜めに入った大きな傷は、化け物の左目を潰していた。




グオオオオオオオオ!!


それでも化け物は生きている。コイツが生きているという事はさっきの黒い人影は……



「くそ、あともう少しなのに……」



海原は無意識に雪代の身体をぐっと強く抱き締めた。


化け物が、迫る。






「LV SYSTEM LV UP 37」



ばしゃん、大きな水柱が上がる。


「は?」


橋の高さ程の水柱、それを裂き黒い人影が矢のように化け物へ飛んだ。



「HAY long time」



黒い人影が化け物の背に飛び付く。帆のような背びれの根元に張り付いた。ぼたりと泥がこびりついた音。


グオオククカ!?



「PERK on 'VENOM'」


その黒い人影の輪郭がぼやける。人影が張り付いている部分、化け物の肉体に異変が起き始めていた。



「な、なんだ、なんなんだ?」



海原はゆっくりと後ずさる。目の前の異変、それがあまりにも痛ましかったから。


ギュギャァオオアアアア!!


今までその化け物から聞いたこともないはっきりとした苦悶の声が辺りの空気を犯す。


黒い人影が触れている化け物の肉体が、黒く変色していく。黒い、闇をヘドロにしたような真っ黒に染まっていく。


「う」


海原は鼻に感じた異臭に呻く。


腐敗臭、嗅ぎ慣れた市街に満ちる死骸の匂いによく似ている。


ギュ、ギャァ



化け物がフラフラと左右にブレる。背中に張り付く黒い影をなんとか振り落とそうと身体を揺らす。


しかし、揺らせば揺らすほど、その体表は黒く染まっていく。



「DIE! creature」


黒い人影はそのまま器用に化け物の背中に張り付いたままだ。あの黒い人影が化け物に何かをしているのだ。



まるで毒虫の狩り。自らより大きな生命をその致命的な毒により殺す。恐ろしい狩人。




ギャァ、ギオオオオオオオオオ!!



化け物が、暴れる。二足歩行を可能とする後脚を踏みしめ、鉤爪のついた前脚を振り回す。


金属が破裂するよう爆音とともに化け物の近くにあった車両が投げ飛ばされた。おもちゃのように吹き飛んで行く車両が、河に落ち、それなりの大きさの水柱を立てる。



だが、それで最後だった。



キォオオオ、オォぉぉぉぉぉ


遠くまで届きそうな細い鳴き声をあげる。天高く持ち上げたその喉、大顎門を広げまろび出るその断末魔。


魂ごと抜け出ていくような断末魔が空に溶けていった。



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