第9話 唾を吐け


 


「うわっ」



 海原は腕にひやりとした冷たさを感じた。雪代を抱くその腕からだ。


 背筋の底から身体が冷えていく、真冬の夜半に外に放り出されたかのような錯覚を海原は覚える。



 キィィン。


 透明な鐘を鳴らしたような澄んだ音。化け物が見えない壁と激突し、その進行を遮られる。


 グウウオオオオオオ!!


 ぎぃん、ぎぃん。


 腹の底に響く重たい唸り声をあげながら見えない壁に化け物が頭突きを繰り返す。


 頭を振りかぶり、一撃、二撃。次第に辺りに額から割れて滲み出た青い血が飛び散り始める。



 グオオオオオオオオ!!



 二人と化け物を隔てる見えない壁に向かい、化け物が吠える。


 学習したのだろうか、壁に対する頭突きをやめてこちらの様子を伺うように首を傾げる。


 眼前に迫る、化け物。


 グルと一声、喉を鳴らし、その場から一歩、後ずさり。態勢を低くし、脚のスタンスを広げる対等な敵と戦う野生動物のような仕草。


 先程までの獲物に走り寄る圧倒的な捕食者の動きではない。


 腕に抱く雪代がまた、その力を振るった。


 海原には持ち得ない魔法のような特別な力。



 あの、奇妙な高校生達、の連中が扱う力とよく似た、異常現象。


 その力に海原はなんども救われた。



 雪代になんども、なんども海原は助けられて来たのだ。




 そして今もまた、雪代に力を使わせてしまった。




「あ、れ」


 海原の腕の中で、雪代の声が響いた。


 それは、気の抜けた声、意図に添わぬ事が起きたかのような間の抜けた声だった。



「わた、し、なんで」



「雪代?」


 海原は異変に気付く。


 血、赤い血だ。


 雪代の鼻からダラダラと赤い血が流れ落ちていた。



「おま! 大丈夫か?!」



 異様な量だ。少し滲んだというレベルではない。蛇口をひねったようにダラダラと真っ赤な血が雪代の小さな鼻から流れ続ける。



「ごめん……なさい、わたし、何か変です、力が、抜けて」


 海原にかかる負担が急に増した。


 震えながら雪代が力なく呟くと、海原の首に回されていた細い腕がほどけて、ぶらりと垂れた。



「おい! しっかりしろ、雪代!」


 だらりと垂れた手、海原の胸にしなだれかかる長い髪と軽い頭部。


 彼女の鼻から流れる赤い血が海原の白いワイシャツに赤い染みをつけて行く。



「まじか」


 雪代は気絶している、やはり無理だったのだ。枠から外れた力を日に二度も、間髪入れずに体力を消耗した状態で。



「ドアホが」


 海原は悪態を自分に向ける。力なくしなだれる雪代の身体を抱えつつ、見えない壁に対し距離を取りつつこちらを伺う化け物と相対する。



 わかっていた事だ。雪代が限界だったのは。わかっていた事だ。それでも雪代は力を使う事を。




 わかっていた上で、海原は結局、最後の最後に雪代の無茶をアテにした。



 その結果が、これだ。



 化け物がこちらをむいたままゆっくりと距離を取る。そして、そのまま勢いをつけて走り迫る。


 地響きを立てながらソレが迫る。海原はただその地響きを脚の裏で感じるのみ。




 グオオオオオオオオ!




 


 パキン。


 薄い氷が砕けたような音。何度目かの頭突きでとうとう、雪代の作り出した見えない壁は砕けた。



 二人と化け物を遮る物はもうない。


 前方10メートル至近距離に、家ほどの大きさの化け物が顎門からよだれを垂らしながら二人を見下ろしていた。


 どしん、どしんと感じる振動、海原はもう笑うしかなかった。


 見上げるは己の死。



 先程のエブリデイの店内で出来た覚悟が今は出来ない。心臓の鼓動がうるさい、思考がまとまらない。


 海原は腕に抱く雪代の柔らかな身体を強く抱きしめた。


 とくり、とくりと海原は自分のものではない小さな鼓動を感じる。


 その鼓動は海原をわずかに、ほんの少しだけだがたしかに勇気づけていた。



 いま、ここで自分が死んでもそれは犬死に過ぎない。


 それはダメだ。




「……舐めんなよ」



 カルルルル、カルルルル。


 こちらを見下ろす化け物の大顎門を睨みつける。海原と雪代を二人まとめて丸呑みに出来るだろうその巨大な顎門を。


 距離が縮まる、海原は動かなかった。


 海原は膝を抜く、かかとを僅かに地面から浮かす。




 カロ。


 唐突に化け物が大口を開いた。かパリと開いたその口の中には、剣のような白い牙がずらりと並ぶ。


 ねとりと、粘性の高いよだれが筋を作って、下顎と上顎を結んでいた。



 口が無造作に振り下ろされる。哀れな小さき獲物を食い殺す為に。



「ふっは!」



 海原は力の抜けた雪代を強く自分の方へ抱き寄せ、真横に飛んだ。


 地面と水平に、自分の身体が真下になるように身体を捻る。



(筋トレ、しておいて正解だったな)


 それは雪代の軽さと、海原の習慣、そしてたまたまのタイミングが重なった儚い奇跡。



 がちり。


 硬い何かが噛み合うような音。そしてすぐに感じる背中と肩への痛み。



 ずさり、と海原は硬いコンクリートで舗装された地面に滑り込む。顎を引いていた為後頭部をぶつける事はなかった。



 カロロ。


 化け物が、かちりかちりと顎をかみ合わす。首を億劫そうに持ち上げ、退屈そうに鳴いた。




 無駄な事を。それをいつまで続けるつもりだ?



 海原にはそんな風に聞こえた。


「おまえには分かんねえよ。アホが」



 海原は身体を起こす。胸に身体を寄せる雪代の頰を撫で、それから鼻から流れる赤い血を拭う。


 その軽い身体をゆっくりと抱えて、自らの背後に横たえる。



 もう、逃げる事は出来ない。海原は横目でちらりと河川敷を登る階段を確認する。何度シミュレーションしてもダメだ。背後から喰らい付かれて死ぬ。



 この残酷な一ヶ月を生き延びた、海原の脳はこの危機的な状況に辺り一つの結論を導いた。


 それはある意味、自己満足にしか過ぎないのかもしれない。



「よく味わえよ。俺は肉が硬いからよ、きちんと噛まないと腹壊すぞ」



 雪代の前に海原が立ちはだかる。


 自分が雪代より先に喰われる。


 もしかしたら、


 もしかしたら、その間に雪代が目覚めるかも知れない。


 もしかしたら、目覚めた雪代は逃げ切る事が出来るかも知れない。


 もしかしたら、すごくたまたまあの超人ども。生徒会の連中がたまたま探索に出ているかも知れない。ここを通るかも知れない。可能性は薄いが。


 もしかしたら。



 もしかしたら、自分ではない誰かが雪代を助けてくれるかも知れない。



「頼むぜ、マジで」


 その、儚いもしかしたらの為に、海原は死ぬ覚悟を決めた。


 もしかしたら雪代が助かるかも知れない。理由はそれだけだった。


 それは無意味な時間稼ぎ。自己陶酔に過ぎない犠牲。


 カロロ、カロロラロ。


 化け物が唄うように喉を鳴らす。まるで目の前の哀れな獲物を嗤うかのように。



 感情の見えぬその爬虫類によく似た瞳が歪む。意地の悪い人間のような歪み方に。



 ぐわり、大きな口を開く。そのままゆっくり、ゆっくりと海原へ向けてその口を近づけて行く。


 海原の頭上すれすれで、その顎門が止まる。



「……は?」



 何だこいつは。海原はもう目の前の死から目を離せない。広がる光景は、その残酷な口の中。


 赤い血をまぶしたような真っ赤な口内に、白い牙と、青い血に青い肉片が絡みついている。




「あ、あ、ああ」


 喘ぐように、叫びが漏れる。抑えようとしても眼前に広がるその残酷な光景に勝手に喉が鳴った。


 一思いに噛み付いてくるかと思えば、なんだ、この化け物は。



 その瞳に嗜虐的な光をたたえて、大口を海原の頭上に持ってきたまま動きを止めた。



 カルロロラロ、カロロ♪



 唄うように化け物が嘶く。


 遊んでいる、その化け物は目の前の哀れで弱い獲物で遊んでいた。


 揶揄うように、今からその獲物を噛み砕く己の口内を見せつけ、あえて寸前で止める。



 化け物は待っていた、目の前の獲物が恐怖に挫けて逃げ出す時を。


 やつの膝が崩れた瞬間、その頭を噛み潰してやろうと。


 いや、背後にいる別の獲物。それを先に喰い殺してやっても良い。頭から丸呑みにするのをゆっくり見せ付けた後に、残った方をいたぶりながら喰おう。


 その化け物は、獲物の食い方を想像し、赤い血と柔らかい肉の感触をよだれを垂らした。



 海原はその光景から一切目を逸らさなかった。粘性の強いよだれがぼたりと、海原の頭にかかる。


 生ゴミを発酵させ、血を絞り込んだような堪え難い悪臭も、海原は大きくむせる事なく吸い込む。



 海原は目の前の化け物が遊んでいることに気が付いた。


 ヤツは自分の反応を見ている。


 からかわれている。その事実が海原の胸の中に渦巻く恐怖の感情を別のものに変えていった。




「舐めやがって……」



 それは怒り。


 様々なものを要因とする怒りが、目の前の化け物に集約される。


 それは、自分より強大な物に対する怒り。自分より強大な者の傲慢に対する怒り。



「なんで、お前みたいなトカゲにからかわれてないといけないんだ」



 恐怖が燃料となる。



 本当なら目の前のこいつをギタギタにしてやりたい。だが、残念ながらそれは出来ない。



 自分に力があったならば。背後で眠る雪代のように特別な、選ばれた存在であれば。



 ピンチのときに都合よく新しい力に目覚める事が出来たらならば。



 だが、海原は自分にそんな事が起きない事は自覚していた。


 この26年間、そんな特別は一切海原の元に訪れる事はなかった。



 海原 善人は特別になれないままに、世界は終わってしまった。



 だからコレは、そんな特別ではない男が化け物に出来るただひとつの事だった。




 くちゃ、くちゃ。


「ぺっ」



 唾を吐いた。舌先に溜めて、前歯と舌でかき混ぜた唾を。



 化け物の口内に。ガムを吐き捨てるかの如く気軽さで。


 上に向いて吐いた唾は、化け物の下顎、もっとも太い牙に、ぴちゃりと音を立ててへばりついた。



「口、臭えんだよ、アホトカゲ」



 そう、コイツは自分の好きな恐竜ではない。海原が焦がれ、憧れた彼らならば目の前の獲物にこんな舐めた真似はさせない。


 追い詰めた瞬間に、殺す。


 コイツみたいに、無駄に遊んだりはしない。



 海原はそう、思った。





 化け物は自分が何をされたのか、すぐに理解したようだった。


 歪んだ瞳が、一気に真っ白に変色していく。



 グウオオオオオオオオオオオオオ!!



 唸り声、質量を持ったかのような咆哮を前にして海原は意識が遠ざかるのを感じた。



「へ、小物が」



 にやりと笑い、振り下ろされる牙をじっと、見つめた。













「Contact!」




 がぎぃん。


 化け物の顎門が斜めにブレる。海原の髪の毛を牙が掠めた。



 瞬間、化け物の顎門と入れ替わるように黒い塊が、叫びとともに落ちて来た。



 化け物の頭を真上から蹴りつけたそれ。真上からのドロップキック。




「は?」


 海原はそのまま立ち尽くす。



 黒い塊、違う、人だ。



 橋の上から飛び降りてきた人が、海原の前にひょいっと、立つ。



 海原の代わりに化け物と相対するその黒い人影。


 黒いレインコートを羽織った全身黒ずくめの人影。


 長い腕を、伸ばし、女の機械音声のような声で告げた。



「operation Nostalgia target contact 」



「Sierra 1 Engageシエラ1 交戦




 海原 善人はここで死ぬはずだった。


 人が忘れていた単純な摂理、弱肉強食のルールにより、今日ここで死ぬのが彼の運命だった。



「嘘だろ」




 だが彼は引き寄せた。ちっぽけなプライドがもしかしたらを引き寄せた。





 海原 善人はまたしても、生き延びた。


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