第8話 ジュラシック・ヒロシマ そのⅡ
「ま、ずい」
喉にひっかかりながらも声は出た。
「へ?」
海原の震えた声に雪代が反応した。
見られた。海原と雪代は河の中に立つ化け物に見られてしまった。
遠目に移るその巨体、体の向きがこちらに変わる。
「やばい、逃げるぞ、雪代」
「え、え、へ?」
海原は砕けそうな膝に無理やり力を入れる。膝が笑うどころではない、足の裏からヘソの辺りまで本当にあるのかどうかわからない程に感覚が頼りない。
それでも海原は立ち上がった。今、立って動かなければ死ぬ。それだけは分かっていたから。
化け物が、首をもたげ、その場で足踏みをした。
そして
ウウクグオオオオオオオオオ!!
大口をこちらに向け、雄叫びをあげる。海原にはその雄叫びが、今からお前達を喰うという宣言としか聞こえなかった。
バシャ、バシャ。
浅い河を掻き分けながら怪物がこちらへ歩み始めた。
でかい。橋を越すほどではないが、河に伸びる橋の支柱と同じぐらいには体高がある。
人間など一呑みにされてしまうほどの圧倒的スケール。
命の格が違う。
見た目よりもよっぽど足も速い。既に河の中腹から岸まで残り40メートル程の所にまでーー
「マジでやばい、行くぞ、雪代!」
海原は足元に置いていた缶詰の入ったトートバッグを持ち上げ、未だに座り込んだままの雪代へ手を差し伸べる。
「……てください」
「は?」
雪代は差し出された手をとる事なく、海原を見上げた。
「置いてってください…… こし、抜けて、立てないです」
「はあ?!」
海原は叫ぶ。こいつは何を言っているんだとか、腰ぃ!? とか数々の思いが生まれてはあぶくのように消えて行く。
そして、泡末の思考の結果、海原が下した結論は
「くそ!! セクハラとかいうなよ!」
「え?」
トートバックを肩に掛け、ぺたりと座り込む雪代の方へしゃがみこみ身体を寄せる。濃い女の匂いを海原は感じた。
「ファイトオオオ!!」
「え、え、え!?」
すくり。
雪代の戸惑いの声を無視し細い膝裏に片腕を、華奢な肩と首に片腕をそれぞれ差し入れる。
雪代の身体を横に向け、一気に持ち上げた。
お姫様抱っこ、横抱き、様々な呼称を持つ人の運搬方法。
「俺の首を掴んどけ!」
「あ、わわ、は、はい!」
ぎゅうと雪代が冷たい手を海原の汗ばんだ首に回す。海原は強い花のような香りを感じた。
雪代の重みを抱きながら海原が走り出そうとーー
グウウオオオオオオ!!
バチャリ。
来た。
河の岸にその太い脚を掛け、河川敷に上がって来た。
前方10メートル、 速い。
カルルルルル
ゆっくりと、態勢を低くしつつ、その魚の背びれのような帆をばさり、ばさりと動かす。
図鑑通りだ。あれで体温調整してるのは本当なんだなと海原は呑気なことを考えていた。
もうそれしか、考えることができなかった。
近すぎる。
自分とはあまりにも違う、その存在に海原は恐怖した。
見上げるほどにでかい。人間など三人ほどまとめて飲み込めてしまうのではないかと思うその顎門。
褐色の鱗に覆われた巨体、例えロケットランチャーが手元にあっても勝てる気がしなかった。
海原は脚を止めた。動けない。
それでも抱き抱えた雪代を落とす事はしなかった。
「わりぃ、雪代、俺の判断ミスだ。さっさと校舎へ戻るべきだった」
海原は呆然と、目の前の化け物を見つめながら雪代への謝意を呟くように口にした。
もう今しかそれを伝える事が出来ないと判断した為だ。
力無き凡人の海原にはもうこれしか出来る事などない。ただ、呆然と立ち尽くすのみ。
「違います、海原さん。あなたのせいじゃない、そしてあなたの判断は間違ってなんかいない」
「わたしが、そうはさせない」
だが、腰の抜けた超人は違ったようだ。
海原に抱き抱えられたままの雪代が、その怜悧な瞳で化け物をにらむ。先程まで目の端に涙を浮かべて狼狽えるだけだった女の姿ではない。
「は、そりゃ頼もしいな。腰、大丈夫なのか?」
「いえ、出来れば抱っこは続けて下さい。やっと慣れたので」
腰は抜けたままだったが。
腰は抜けたままだったが、雪代は直ちに行動を開始した。
額の辺りに力を込める。それは雪代のイメージに過ぎないのだが、自らの身体の芯にあるナニカに手を伸ばす。
それは人の枠を超えた力。人を超えた人しか持ち得ない超常の力。
世界が終わる前から雪代と共にあり、これまで忌避していた異能。
世界が終わった後に、雪代と彼女の大切なものを守るために役立つ武器。
超人が、その力を振るう。化け物を狩るために。由来の分からぬその力は暴力。
万物を遮り、万物に作用するその力。触らずとも物を壊す事が出来る、異能。
念じ、動かす力。
念動力。
「待て! 雪代、使うな! さっきやったばかりじゃろ!」
己の身体を抱く男が泣きそうな声をあげる。男は知っていたからだ、その超常の力が雪代 長音の身体に多大な負担を強いる事を。この一ヶ月で知っていた。
雪代の耳をその悲鳴のような声が甘く痺れさせた。
雪代は、この男の悲痛な顔や、悲鳴ような怒号が好きだった。
それは、たしかに自分を案じての情動だった為に。
雪代 長音は世界が終わって、ようやく他人の優しさや温かさに触れる事が出来た、そんな人間だった。
それは例えば生まれや育ち。家を飛び出し、あのアパートで一人暮らしを始めるまで、雪代 長音は他の姉妹と同じように保護されて生きてきた。
特別扱いをされ、さながら無菌室にて培養された何かのように育てられた。
しかし、そこに温もりはなかった。
知らなければ、いらなかったのかもしれない。
雪代家の人間ではなく、ただの雪代 長音として扱ってもらえる温もりを。
だが、彼女は知ってしまった。あのうだるような熱帯夜。なんの後ろ盾も、なんの見返りもなく、ただ、お隣さんだからというだけの理由で自らを見つけてくれた温もりを。
自らにとっての、善き人を見つけ、知ってしまったのだ。
だからこそ、一度得たそれを手放すつもりなど毛頭ない。
例えそれが、自らの命を危険にさらそうとも、誰にも渡すつもりはなかった。
夏、しかし、二人の足元に霜が降りた。
「わたしたちに」
「ゆきっーー」
「近づくな」
赤い血が、地面に落ちた。
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