第6話 終末のヒロシマ
「あっつい、あっついです、海原さん。太陽のバカヤロウです」
「わかった。いいたいことはわかったけ、
海原と雪代を照らす日差しはどんどん強くなる。海原の額から顎をつたり、玉のような汗がアスファルトに落ちる。
「そうですね、そろそろわたしも汗かいてきたし、これ以上おっぱいの感触を海原さんにサービスするのも……」
「やかましいわ」
海原がゆっくり腰を落としてしゃがむ、もぞりと背中の雪代が動いたかと思うと背中に感じる重みが消えた。
「よいしょっと。うう、なんか変な感じです」
「あ? 大丈夫か?」
海原の背から降りた雪代が、たたらをふみきつそうに舌を出す。
「ごめんなさい。わたし昔から暑いの苦手で…… でも大丈夫です。行きましょう」
雪代が歩き始める。海原は歩く雪代を追いかける形で動き出した。
雪代の足取りがおぼつかない。あの力の使用からまだ一時間も経っておらず、更にこの暑さ。もともと雪代は体力のある方ではない。
海原は小さくため息をつき、足取りを早めた。
「雪代」
「え?」
声をかけ、雪代の歩みを止める。ズカズカとそのまま雪代を追い越して、海原はその場にしゃがみ込んだ。
「乗れ。河川敷までおぶる。少し休憩しよう」
有無を言わさない口ぶり、決定事項を告げるように淡々と海原は言葉を紡ぐ。
「え、でも」
「乗ってくれ。ここでお前にダウンしてもらっちゃあ困る」
海原はそれきり黙る。
雪代は額から垂れ落ちる汗をぬぐう。
通気性のよいスポーツウエアとは言え、暑いものは暑い。鼻をくんくんと啜ると濃い自分の体臭を感じた。
「……いいんですか?」
「……必要以上に胸は押し付けるな」
海原が吐き捨てるように呟く。その耳は少し赤くなっていた。気温のせいだろうか。それとも。
雪代は自分の頰に熱が灯るのを感じつつ、ゆっくりと海原の背に身体を預ける。
広く硬い背中がぐっと持ち上がる。浮遊感、ともすれば不安になりそうなはずなのに何故だろうか。
海原の背に身体を預けているとこの気温とは別に、雪代は自分の身体の芯が熱くなるのを感じた。
それがバレるのはとても恥ずかしかった。
「海原さん」
「なんだ」
海原が歩き出す。歩みのスピードはまったく変わらない。荒れた道を軽々と進んで行く。
「暑いです」
「俺もだ」
車道はやがて広がり始める。十字路。
ヒロシマ市は市内全域に渡り、一級河川である[大手河]が流れている。
河口に開けた三角州上に市街が形成されている為に河川敷とそれに架けられた橋が多い。
今まさに二人の目の前には街と街を隔てる大河が映っていた。
「橋の下で休憩するぞ。あそこなら日陰になっているから涼しい」
海原は雪代をおぶったまま、河川敷への階段降り始めた。大きな川の向こうに市街地の様相が見える。
二人が目指す、校舎はあともう一つ河を隔てた中区と呼ばれる区域にあった。
とんとんとん。人をおぶっているとは思えないほど軽やかな足取りで海原が階段を降りて行く。汗こそその顔に浮かんでいるものの苦しそうな表情はなかった。
「海原さん、何気に力持ちですよね」
「そうか? 雪代が軽いけえだろ」
事も投げに海原が呟く。雪代は口をもごもごさせてから自分とは違う広い背中に体重をより預けた。
「お」
「あ、涼しい……」
階段を降り、河川敷の橋のたもとへたどり着く。陰になっている其処と日の当たる部分の温度はまるで違う。
緩い風すら吹き付ける天然の冷所となっていた。
「ここでしばらく休憩だ。雪代の体力が回復するか、陽が傾き始めたら急いで校舎へ戻ろう」
「分かりました。ごめんなさい、海原さんだけならもうとっくに校舎へ戻れてるのに……」
雪代が声を潜める。海原は何も言わずにそのままその場へしゃがんだ。
おずおずと雪代が海原の首から腕を解き、その背から離れた。さっきまで自分を預けていたその背中を少し見つめて、紅くなった顔を逸らした。
海原が立ち上がり、肩をぐるぐると回す。動作確認をするかのようにゆっくりと。前に、後ろに。
背後の雪代を肩越しに見つめて
「馬鹿言うな。俺だけならあのエブリデイの店内で死んでたよ。あのアホトカゲどもの朝ごはんじゃろうな」
海原はそのままどかりと河の方へ顔を向けてその場へ座り込む。トートバックを手元に置いた。カランと缶詰が鳴る。
涼しい空気が汗を蒸発させて行く。
「……海原さんならなんとかしそうですけど」
雪代がすっと、海原の隣へ腰を下ろす。地べたに座るのに二人ともなんの抵抗もない。この一か月でそれに慣れていた。
風が吹く。先程車道を歩いていた時に容赦なく照りつけていた日差しもここには届かない。
風が吹く音。河の水が流れる音。二人はその中にいる。
世界が、人間の社会が終わっても自然の営みは変わらない。
「海原さん、涼しいですね」
「そうだな」
海原は河の流れを見つめながら答える。キラキラと水面が夏の陽光を複雑に反射する。夏のとある日の一日の光景としては文句ない。
河の向こう側に見える高層ビルの一つ。その真ん中からへし折られていなければ。
ギィと、風に吹かれて鉄筋の橋が鳴る。
「なんで、こうなっちゃったんですかね」
隣で雪代が、うつむきながら呟いた。それは問いかけのようでもあり、独り言のようでもある。
「……なんでだろうな」
海原はその問いに対する答えを持っていない。誰も持っていない。
「わたし、こうなる前は何度も何度も世界なんて終わっちゃえばいいって思ってました。毎日はつまんなくて、明日は怖く、人生は面倒臭い。だから、あの日の夜も世界が終わればいいって思いながら、眠ったんです」
「…………」
「そしたらね、そしたらホントに世界が終わっちゃった。わたしがあんな事願ったせいなんですかね……」
雪代が体育すわりしている膝と膝の間に顔を差し入れた。なにかを恥じるかのように。
「違うだろ。プチニートの呪詛で滅ぶほど社会は脆いもんじゃねえ。その程度で終わるんなら社会人一年目の連中がとっくに世界を滅ぼしとるわ」
上司ごとな、と付け加えて海原はぼーと河を見つめ続ける。
「プチニートは余計です。わたしは有能な労働予備軍として待機していただけで」
「予備のまま終わってんじゃねえか」
海原は雪代を見て、言葉をぶつけた。
「うう、海原さんがいじめる……」
「そう気を落とすなよ。いいじゃないか。少なくとも今のお前は予備軍じゃねえ。立派な労働力であり戦力だ」
「え、そ、そうですかね? わたし役に立ってます?」
雪代が顔を上げる。パァと表情を輝かせ声を上げた。
「ああ、少なくとも体育館に閉じこもってる
海原が目を瞑りながら少し、表情を曇らせた。
「ああ、あの人達ですか……。でもわたしも海原さんがいなかったらあの人達と同じ事してたかもしれません。今だってとても怖いです」
「怖いと思うのは悪い事じゃねえよ。悪いのはそれを言い訳にして何もしない事だ。お前は凄い事をしてるんだよ、雪代」
「凄い?」
雪代は海原を見つめてぽつりと呟く。雪代の黒い瞳と、海原の茶色が混じった瞳が交差する。
「そう、凄いんだ。怖い事から目を逸らさない。これは本当に凄い事だと俺は思う」
「……海原さんも怖いですか?」
「怖いさ。あの校舎から一歩出ればそこはもう人間の社会じゃない。当たり前にあった安全は消えて代わりに、恐ろしい化け物がどこかに潜んでる。なんの冗談だって感じだ」
海原は肩をすくめる。言葉にする事で今、自分がどれだけ愚かな事をしているかを再確認したからだ。
これといって特徴も特技もない自分が、この終わった世界でまだ生きている。
ただの偶然だ。ただそれだけの理由で海原は自分が生き残っている事を自覚していた。
あの夜、もしも隣人からの助けの声を無視していたら?
あの日、もしもあの小人みたいな化け物にシャベルを振り下ろすのをあと1秒躊躇っていたら?
あの時、もしも基特高校にたどり着く事が出来なかったら?
さっき、もしも雪代がいなければ?
数多のもしもを偶々、切り抜けた為に自分は生きている。
だがそれはこの先も続くとは限らない。
自分はもろく弱い。薄氷の上をたまたま渡れて来ただけに過ぎない。
俺はいつ、どんな風に死ぬーー
「じゃあ」
海原が暗い思考に囚われかけたその時、肩に感じた弱い圧力とかけられた声に気付く。
ポスンと肩にぶつけられた小さな拳。
雪代の拳だ。
「じゃあ海原さんも凄いです。わたし達、二人とも凄いヤツなんですね!」
日陰、風の通り道。その中で雪代が笑った。
怜悧な顔のパーツが暖かくニカリと笑う。それはまるで陽光を反射する新雪のような輝きを放っていた。
「はっ、やっぱ雪代、お前凄いよ」
「わっ、どうしたんですか海原さん。わたしのことを若干舐めている感がある海原さんがこんなストレートに褒めてくるなんて……! 身体ですか?! おんぶした時のわたしの柔らかさが忘れられないんですね!?」
「雪代さん、俺先に帰るから、夕方までには戻ってこいよ」
海原がおもむろに立ち上がり、スラックスについた砂埃を払う。
「ウソウソウソ! 冗談ですよ! 海原さん、可愛いコミュニケーションです! 置いてったら嫌です!」
「世界が終わって会社勤めから解放されたのにセクハラで捕まりたくないけえな」
「いないから! もうおまわりさんはいないから大丈夫です! セクハラし放題です!」
雪代が泣きそうな顔になりながら海原に向けて手を差し出す。
海原は雪代を見下ろして、それから、小さく笑った。
プルプルと震えながら伸ばされるその手をつかもうとーー
ズウウウウウウウウウン。
ズシン。
地鳴り。足音。
それは二人の頭上、橋の上から。
ミシリと橋が軋んだ。
軋んだ橋ゲタには、スプレーで殴り書きされた英語のような絵がいくつか。
小さな天使がラッパを吹いている、となりには赤いスプレーで
Apocalypse Now。
橋ゲタごと、絵が揺れた。
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