第5話 廃墟のヒロシマ


 



「あっつい、ぶちあつい。死ぬ」



 ざり、ざりとアスファルトの上を海原の黒いランニングシューズが踏みしめていく。


 その背にはぐったりしなだれかかる女を背負っていた。


 意識のない人体は重たい。


 重心を自ら保つ事をしないために、おぶる立場である人間からすれば自分と相手、二人分の重心を保たなけばならない。


「あっつ。たいぎぃ」


 喘ぎながら出てくる言葉。途中で腕に引っ掛けたトートバックを捨ててやろうかと何度考えたことだろう。


 だが、そもそもそれをしたら何のために危険な外へ出て来たのか意味がわからなくなってしまう。


 海原はトートバックを捨てるのを我慢しながら雪代をおんぶしつつ帰路を歩んでいた。


 エブリバディを出てから10分ほど歩いた。なるべく日陰を選びながら移動しているものの、体温はどんどん上昇して行っている。



 生活拠点である校舎を出発したのが朝の6時半、そこから歩いて約30分程の場所にエブリデイはある。



 普通に歩いて30分、今のこの状態ならその倍以上はかかるかも知れない。事実道のりはまだ長い。


 海原は隆起して歩きにくいアスファルトを踏みしめる。


 ひび割れたアスファルトの上は歩きづらい。亀裂に足を引っ掛けないように気をつけながら海原は一歩ずつ歩き続ける。



「……ひどい有様だな」


 よた、よたと歩を進めながら海原は歩く。


 本来であれば車の往来激しい国道の真ん中、打ち棄てられた車の間を海原が行く。


 動くものはない。窓ガラスが割られた車や、ボンネットがひしゃげた車。傷つけられたその間を二人が行く。



 廃墟。


 電柱は大抵のものが傾き、電線は千切れている。まっすぐ立つものは本当にごくわずか。


 海原は辺りの建物を見やる。社屋、マンション、住宅。その全ては大きく傷付き、住宅の中には崩れているもの多くあった。


「やばいな、あれ」


 海原が歩きながら、高層マンションを見上げる。


 ここから見ても分かる。窓ガラスが全て割れ塗装が剥げているそれ。一番の特徴は屋上の辺りに何かがひっついている。


 赤色をした丸い肉のような異物。マンションの高層はほぼそれに取り込まれているようにも見える。


 まるで繭のようなそれは高層マンションを止まり木に、どくり、どくりと鼓動していた。



 生き物にマンションが喰われている。海原にはそんな光景に見えた。


「こわ」



 マンションを遠巻きに眺めながら、歩を進める。


 そのマンションより奥にあるビル。これも異常だ。


 陽光を照らし返すそのビルの壁面には大きな亀裂が入っている。


 斜めに、袈裟裂きにされたかのように入っているそれはまるで……爪痕のようにも見えた。




 様変わりした世界を、海原が雪代をおぶって歩いていく。


 遠くのアスファルト、光景が揺らめく。陽炎、照りつける太陽が空気すら焼き尽くして世界を歪めて行く。


 暑い夏。


 しかし、その夏はいつもの夏とは違う。





「静かだな……」



 蝉の声がしない。国道の両脇。歩道と車道を隔てるように作られた並木道。木に停まり、生を謳歌する蝉の声はなく。



 ざり、ざり。


 ただ、海原のランニングシューズが砕けたアスファルトの砂利を踏みしめる音、それだけが夏の道路に響いた。




「んっ、うっ」



 耳の裏に届く、女の吐息。海原は首筋に冷蔵庫の中の空気を吹きかけられたような冷たさを感じた。


「うお」


 あまりの冷たさに思わず呻く。背筋がぞわりとさざめく。


「雪代、大丈夫か?」


 海原は立ち止まり、背に負う雪代に声をかけた。


「ん、んん。……え、あれ、わたし……」


 雪代の声とともに吐息がまた海原の首筋を撫でた。背に負う柔らかい女の肉の感触、そしめ首筋に感じる吐息。


 海原はくらりとしそうな己の脳を気合いで抑える。


「おはよう、雪代」


「あ、おはようございます……って、え! 近! ヤダ! なんで?!」


「うお! 待て、馬鹿! 暴れんな!」


 雪代が急にジタバタと暴れ出す。密着した状態で身体をもがかせた為に、一層海原の背中に柔らかな感触が強く押し寄せた。


「ヤダヤダ! わたし、今臭いですから!ホント! なんで!」


「落ち着け!雪代、臭くないから! 危ないけえ、動くな!」


 海原は必死に雪代をなだめる。髪を振り乱しながら雪代が身体を攀じる。


 髪の毛とともに、甘く濃い匂いが香る。落ちそうになる雪代をおぶり直そうと海原が身体を揺らして、体勢を戻そうとした。


「ヒャン!」


 尻尾を踏まれた犬のような悲鳴、雪代だ。


「ええ! 何? なんだ?!」


 海原も声を荒げた、その声も悲鳴に似ている。


「おしり! 海原さんがおしり触った!」


「やかましいわ! おぶってるんだから仕方なかろうが! ケツぐらいで騒ぐな!」


「ケ、ケツ!?おしりって言って下さい! セクハラ!セクハラですよ! おまわりさああん! ここに女性のおしりを撫で回す変態がいまああす!」


「うるせええ! もう警察なんか機能しとらんわ! 静かにしろ! 昼とはいえさっきみたいにはぐれがいるかも知れねえだろうが!」


 女をおぶった男と、男におぶられた女が言い合いを続ける。車道の真ん中で。


 通常の世界ならすぐに衆目を集め、通報されてもおかしくないがもう、この世界にはそれを見咎める存在はいない。


 通報する人間も、通報を受ける機関も居なくなっていた。



「うう、ホントにホントにわたし臭くないんですか?」


 雪代が力なく呟く。


「臭くねえよ。なんなら甘い匂いがするくらいだ」


「……どんな匂いです?」


「甘ったるい蜂蜜みたいな匂い」


「……変態」


「悪かったな」



 温い風が吹く。アスファルトの匂いと、土の匂い。遠くの空でモコモコに膨らませた洗顔クリームのような入道雲が膨らんでいる。



「ふっ、フフフ。変態海原さん」


 雪代が静かに吹き出した。



「うるせえよ。てか雪代。起きたんなら降りてくれ。重たい」


 海原が投げやりに呟く。


「なっ、レディに対してなんたる暴言…… 海原さん、モテないでしょう?」


 ショックを受け、すぐに雪代が言い返す。


「うるせえよ、こう見えても彼女がーー」



「は? なんです?それ。 わたし聞いてませんよ?」


 背筋に冷えピタを何枚も敷き詰められたかのような錯覚。低い雪代の声。


 すぐに海原は言葉を言い直す。


「……冗談だ。彼女なんてもう何年もいねえよ」


「……まあ、よしとしましょう。驚かせた罰としてあともう少しわたしをおぶってて下さい」


 海原の肩に重みが加わる。雪代がそっと顎を乗せた。



「セクハラとか言うなよ」


「んっんー、どうしましょうか? おしり触られたしなあ。今もおっぱいが背中に当たってるしなあ」


 海原は額を抱えたくなる衝動を抑えて呟く。


「無茶言うなよ、勘弁してくれ、てか胸を押し付けるな、胸を」


「嬉しいくせに」


「うるせえ」



 クスクスと、つららが擦れるような笑い声。また海原が歩を進める。その足取りは確かで体幹はまったくブレない。


 人をおぶっているとは思えないほど軽く海原は歩き続ける。



「雪代」


 ざり、ざり。


 海原がアスファルトのひび割れを跨ぐ。


「なんですか?海原さん」


 冷たい吐息ともに、雪代の声が鳴る。


「ありがとな」


 小さく、しかしその声は確かに雪代に届いた。


 雪代はくちびるを小さく吊り上げて、


「いーえ。こちらこそどういたしまして」


 ざり、ざり。


 校舎までまだ遠く。夏の日差しは次第に強くなって行く。


 生きた人間が二人、廃墟の街並みを進んでいく。


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