第3話 海原善人、26歳、独身 そのII


 

 脚を止めてしまった。そのまま逃げればいいのにもう動けない。



 訓練された兵隊ではない、ただの一般人であるふたりは、その本能的な反応を理性でねじ伏せる事は出来ない。


 酔う事すら出来ない、圧倒的な現実。


 だからこそ、剥き出しになる。その人間の真のサガが。



 人間性が剥き出しになる修羅場に二人はあった。


 そして、海原の人間性はーー



 海原の目の前には壁がある。


 白い、鰐の腹のような皮膚。



 二本足で立つ、オオトカゲ、いや、皮膚が灰色の灰トカゲのがら空きの腹。



 海原はトートバックをその場に落として先端の尖った短い鉄パイプを両手で握り締めた。



 海原の剥き出しになった人間性は立ち止まるのでも、逃げるのでもない。



「ぶち殺してやる」



 一瞬で最も愚かな選択を選んでいた。


 体長2メートルを超えるトカゲに鉄パイプ一本で立ち向かう蛮勇。


 正気の沙汰ではない。彼は酔っているわけでも、舞っているわけでもない。


 素面で闘争を選んだ。


 大凡なる人、ただの一般人である彼を、この一ヶ月生き長らえさせて来た、唯一の彼の特性。



 それは平時では、平和に続く世界ではきっと目覚める事も役に立つ事もなかった、ちっぽけで誇る事の出来ない、ただの性質。



 海原善人は、戦う時に戦える。躊躇わずに刺せる、潰せる。



 単純にそんな人間だった。



「う、おおお!」



 海原が地面を蹴る。先を尖らせた鉄パイプの切っ先を、身体ごとトカゲの腹に、



 どつ。


 ぶつけた。



「ジっ!」


「し、ねええ!」


 叫ぶ海原の手に確かな手応えが帰ってきた。


 腹の鱗は薄いようだ。容易に、ダンボールを貫いたような軽い感覚、それから分厚い肉の感覚を感じた。



「ジャアアア!」



 予想外の反撃に、二脚で立つトカゲが後ずさった。


 海原は、すぐにトートバックを掴み、後ろへ飛びのく。


 もんどりうつトカゲが身体を倒し四足歩行に戻る。すんでのところで海原はのしかかられるのを回避した。


 爬虫類特有の、饐えた臭いが海原の鼻腔に突き刺さる。




「走れ!」



 立ち止まる雪代に怒鳴る。びくんと雪代の身体が跳ねて、こけそうになりながらも再び走り始めた。


 いいこだ。




 ヤツの腹に刺さった鉄パイプの空洞から、みるみるうちに青い血が零れ落ちる。スーパーの白いフロアが青黒く汚れていく。


 ざまあみろ。


 海原は、苦しそうに首を振るトカゲを一瞥して雪代を追う。


 すぐに、非常口が視界に入る。あらかじめこのスーパーに入る前に開けっ放しにしていたため、すぐに外に出れそうだ。



「海原さん、鳴子はそのままです!」


「わかった! そのまま跳び越えろ!」



 非常口には、空き缶と針金を利用して作った鳴子がゴールテープのように張られていた。


 二人の膝程の高さ。破られていないのを見ると、ここから入られたわけではない。



 にげれる。


 海原は、跳ねる呼吸を抑えながら雪代の背後を走る。




 非常口は近い。トカゲには一撃を食らわせてやった。殺せはしなかったものの、動きは鈍らせた筈だ。



 今度も生き残れる。そう感じたその時。



(あ、たいぎ)



 海原は気付いてしまった。



 




 出口まであと数メートルの地点。


 嫌な予感ほどよく当たるのは、世の常だ。それはこの終わった世の中でも変わっていなかった。



 ジャアアアアアアア!!


 鳴き声。背後からではない。


 上。


「止まれ! 雪代!」



 海原の声に反応して雪代が走りを止める。すぐに海原は雪代の肩を掴み、背後に引いた。


 ジャア!


 びたり。


 びたびたびた。



 出口まであと数メートルだったのに。



 天井から灰色の塊が堕ちてきた。雪代がもしそのまま走り続けていたならどんぴしゃり。潰されていたかもしれない。


 垂れ落ちるように着地したトカゲがバタバタと身体をもがくように動かす。


 やがてこちらを振り向き、その大きな口を開けて吠え始めた。


 粘ついたあぶくがその大口から漏れる。


 二匹目。先程海原が手鏡で確認したヤツだ。二つの頭に、灰色の皮膚。海原は昔テレビで見た、コモドオオトカゲを思い出した。


 アレを悪意を持って進化させたらこの生き物になるのではないか?


 どう見ても仲良くできそうにない。



「たいぎぃ、気色悪い姿してからに」



「う、海原さん」


 雪代の声が震える。海原は一歩前に。雪代をは背後に庇う。



 だが。



「じゃああああああ!」



 背後からも鳴き声が。



 海原が肩越しに確認する。青い血を流しながら這い寄るそのトカゲ。床を汚しながらも這って来やがった。


 また、追い付かれた。



 挟み撃ち。横に逃げようとも結局は同じことだ。探索するには広い店内も、化け物から逃げる場所として考えるとあまりにも狭い。


「う、うみはらさん。これってマジでやばいてやつじゃないですか?」



「残念だが雪代の言う通りだ。マジでやばい」



 海原の額に冷たい汗が浮く。前門の虎、後門の狼。いや、両方トカゲか。


 海原は雪代と背中合わせに正面を向く。


 じわり、じわりとトカゲが二匹ともこちらへ近付いてくる。飛びかかる時を伺っているのか?


 どちらにせよ、もう取れる選択肢は限られていた。



 海原の脳裏にこれまでの思い出が駆ける。幼少、少年、青年、成人。


 それらどの記憶よりも海原が強く思い浮かべたものは、この最悪の一ヶ月の思い出だった。


 ちり紙と切れかけのライター、拾った小枝だけで火をつけたあの夜、雪代と分け合って食べた乾パンの冷たい味。


 終わった世界の思い出の方が海原に濃く残っていた。



 走馬灯、いや早すぎるなと海原は自嘲する。


「決まりだな」


「な、何がですか? 」


 雪代が泣き出しそうな顔で海原に問う。



「作戦を考えた」


「え?」


「正面突破だ。俺が前のアホトカゲに突撃するからその間にお前は逃げろ。後ろを振り向かずにひたすら、校舎を目指せ」


 それは作戦というにはあまりにもおざなりな内容だ。



 要は海原善人は早くも自分の命を投げ出したのだ。自分が食われている間に雪代 長音を逃す。それでいいと本気で考えていた。



 この終わった世界ではまともな人間は生きていけない。一ヶ月という期間はとうの昔に適者生存の淘汰を終えていたのだ。



「ば、馬鹿なんですか?海原さん。 そんなの絶対苦しいですよ」


「やかましい、分かっとるわそんなこと。じゃがここで2人まとめてヤツらのおやつになる事もなかろうが」


 海原は雪代を睨みつける。思わず口調が荒くなるのを海原は自覚していた。


「逃げろ、雪代、お前まで死ぬ事ぁねえ」



 海原はもう、雪代を見ていない。眼前のオオトカゲを見つめていた。


 頭に蹴りを1発、そのあとおそらく脚に噛み付かれて引き倒される。最期は首か、顔面かを噛み砕かれて窒息か、即死か。


 体重を前に、僅かに前傾に。



 願わくば即死であれと、海原はきっといることはないであろう神様に祈りをーー





「お断りします」




 背後から感じた冷たさと低い声に思わず後ろを振り返る。


「ゆ、雪代?」



「なんですか、自分勝手な海原さん」


 目がすわっている。雪代が低い声で短く言葉を放つ。


「いや、あの、逃げて頂ければと」


「お断りします」


「あ、はい」



 雪代の様子がおかしい。先程までの動揺や怯えが今は一切見られない。細められた鋭い瞳に海原は背筋に氷柱をさしこまれたような錯覚に陥った。


「いつも、男の人ってこうです。勝手にカッコつけて、勝手に居なくなって。押し付けがましい事この上ないです」


「え、と雪代、雪代さん?」


 俯いた雪代の表情は見えない。海原がなんと言葉をかけたらいいのかを考えたその時。



「ジャア! 」



 鳴き声、ブレたかのような二重、四つの鳴き声が重なった。



 しまっーー


 海原はトカゲから意識を逸らしてしまった。


 それがこの脆い均衡を崩したのだ。



 2人を挟み撃ちにしていたトカゲが、一斉に飛びかかる。



 大口を開き、よだれを撒き散らし、獣欲を閉じ込めた瞼のない眼を爛々と広げながら。



 トカゲ達は、活きのいい餌に襲いかかる。人と化け物の関係など決まりきっている。


 海原の目に地を蹴り、その身体毎宙へ投げ出すトカゲの動きがゆっくりと映る。


 脳がこれから先の未来を予測した。


 2人はこのまま飛びかかるトカゲに押し倒され、地面に強く頭を打つ。体をその太い前脚で押さえつけられ身動きの取れないまま、首か頭を齧られる。


 雪代の柔らかな肉はチーズのように裂かれる。海原の固い肉は何度も何度も咀嚼される。



 たいぎ、さいていだ。



 海原は動けなかった。自分が避ければ背後の雪代はどうなる?


 いや同じ事か。結局2人とも、喰われーー









「今、長音が話をしてるんですけど」





 きぃん。


 海原の耳の奥が鳴った。



 ばちゃ、どた。


「ジュ!?」


「ジャ!?」


 短い、人のものではない声。威嚇でも交信でもないその鳴き声が短く鳴った。


 それは、悲鳴にも似ていて。




 弾かれた。



 空中を踊るかのように飛んだ2匹の化け物は、まるで見えない壁にぶつかったかのように何かに弾かれそのまま地面に落下しもがいていた。


「なっ」



「話の邪魔、しないでもらえますか?」



 雪代長音がゆっくりと顔を上げる。


 黒い瞳は、まるでその中に血を溶かし込んだマグマを秘めたかのように、紅く輝いていた。

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