第2話 海原 善人 26歳、独身


 


 足音はなるべく立てずに。履き慣れた青いスポーツシューズの靴底をそっと、スーパーの白い床に置くように移動する。



 海原は近くに伴う雪代の顔を確認。硬く結ばれた唇、キョロキョロと動く大きな瞳。緊張しているみたいだ。


 しかし、パニックじゃないと海原は内心で胸をなでおろす。



 シュロロロロロロ、シュロロロロロロ。



 広い店内に、奇妙な音が再び響く。



「う、海原さん」


「静かに」



 海原が商品棚に囲まれた通路の出口、ちょうどT字路のようになっている部分で止まる。


 心配そうにその名前を呼ぶ雪代を手で制した。



 シュロロロロロロ、シュロロロロロロ、シュロロロロロロ。


 声はちょうど、二人の背後から聞こえて来ている。十中八九、先程海原が手鏡で、姿を確認したトカゲのような生き物の声だろう。



 大型犬を三倍ほど大きくしたサイズのそれを、トカゲと呼んでいいかどうかは別として。



「この声……」


 海原は、再び手鏡をポケットから取り出した。


 この声は何かがおかしい。その響き、音量、共に聞いていて怖気が走るような不気味さは言わずもがな。


 シュロ。


 リズム。リズムがある。


 海原の脳みそが回転する。


 声、鳴き声。言葉。リズム。言語。





 そもそも、声とは何のためにある?




 …………あ。



「……コミュニケーション!」




 小さく、海原が呟いたその時だった。



「海原さん! 上!」



 絹を裂くような、女の悲鳴。


 雪代がそのトーン高い声を張り上げた。



 海原は反射的に、上を見上げる。




「シュロロ」



 店内の天井は高い。十メートル近くあるその高さ。天井に。



「化け物が……」



 それがいた。


 ヤモリが壁に張り付くように、重力をせせら笑うかのように。


 血に染まったような赤く、長い舌を出したり、引っ込めたり。


 大型犬を丸呑みに出来そうなサイズのオオトカゲが天井に張り付き、逆さまの状態でこちらを見下ろしていた。


 煤にまみれたかのような。太い四つ足。


「う、海原さん、アレ、頭が……」


 雪代が泣きそうな声で、天井を指差した。


 海原は初めその姿を正確に理解出来なかった。


 なんだ、アレは。


 サイズだけでも現実離れしているのに、更にそれをあざ笑うかのように異質なその特徴。


「頭が二つ……あるのか?」



 そう、そのトカゲには尻尾がなかった。


 本来頭の反対側にあるはずの尻尾がなく、そこにはもう一つの頭が。爬虫類が恐竜の子孫と誰しもが認めるだろう顔がもう一つ。


 まるで二匹のトカゲを半分にちょん切って、無理やり二匹の胴体を腹の部分で繋げたような。


 歪で、醜い。



「クリーチャー……」


 雪代が呟く。同時にその場に腰が抜けたかのようにぺたり。


 座り込んだ。座り込んでしまった。



「バッカ……!」



「ジャアアアアアアアアアアアア」



 ジャアアアアアアアアアアアア!!


 不協和音のみで構成された楽曲のようにその怖気走る鳴き声が同時に、二つ響いた。


 趣味の悪い二重奏。



 海原は、今度こそ舌打ちをかました。



 しまった。もっと考えるべきだった。一匹じゃない。


「二匹か!」



 あの声は会話の鳴き声だった。そう理解した時にはもう遅い。



 天井に張り付いたオオトカゲが、その身を縮めた。


 それを確認した瞬間


「雪代!」


 海原はへたり込んだ雪代を押し倒すようにその場から飛び退いた。


 缶詰の入ったトートバックは離さない。袋からいくつか缶詰が転がり、硬質な音を立てた。


 雪代の軽い体を、海原が肩で抑え込み庇うように押し倒す。


 二人の位置は変わった。


 そのすぐ次の瞬間、



「ジャアア!」


 びぃたああん。


 まるで大量の液体が、上から落ちて来たような粘着質な音が二人の背後から聞こえてきた。



 天井に張り付いていたオオトカゲが、急降下して来たのだ。


 あともう少し反応が遅れていたら。


 二人は即死こそしないものの、オオトカゲにとってとても狩りやすい獲物に成り果てていただろう。


 二人は人間ではなく餌になるところだった。


 その尊厳を全て化け物に奪われ、その食欲と獣性を満たすためだけに存在する、哀れなモノへと。



「雪代、怪我は?!」



「あ、ひ、い、いえ」


 海原と雪代の顔が近い。側から見たら男が女を床に押し倒しているようにみえてもおかしくない。


 それを咎める警察も、法律も既に亡い。


 故に人間を守る機構も亡き者となっていた。



「じゃぁ」


 二人の背後でヘドロがあぶくを立てたような鳴き声が。


 背後など振り向く必要もない。


 二人の背後にあるのはただの死だ。


 一切の遠慮も慈悲も期待出来ない、真摯なほど残酷な摂理。


「ジャア」


 食われる。


 このままでは。



「立て! 雪代!」


 飛び跳ねるように、海原は立ち上がる。同時に仰向けの雪代の腕を掴み、持ち上げる。



「は、はい!」


 雪代は海原の助けを借り、少し遅れて立ち上がる。


「走れ!」


「はい!」



 よろけながら二人が狭い通路を駆ける。


 びた、びた、びた。後ろから音が鳴る。


 足音。なんの足音なんて確認する必要すらなかった。



「雪代! 非常口だ!」



 海原は意識して走るスピードを抑える。雪代を追い抜かすわけには行かない。


 目の前で走る女を突き飛ばして一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動を抑えて、彼女の背後を駆ける。


 肩越しに、後ろを確認。海原は見るのではなかったと後悔する。


 口からあぶくを溢れさせながら、あのオオトカゲがその短く太い足を千切れてしまうかのような勢いで振乱しながら走り迫る。


 走る勢いで、後ろの頭が振り乱れる。耳障りな声が重なる。



 化け物め。


 海原の脚が湧いたかのように震える。その感覚を海原は只、怖いとしか感じれなかった。それは久しく人類が感じ得なかった、被食者たして恐怖。


 食われる恐怖を海原の身体の根っこの部分が思い出していた。



「雪代、前だけ見てろ!」


 根源的な恐怖を、海原は勢いとノリでねじ伏せる。


 ビビって動けなくなるような人間は、既にこの一ヶ月、終わった世界の中で淘汰されていた。




 二人が商品棚の通路を抜ける。甘い匂いが海原の鼻腔にそよぐ。


 かつては鮮魚コーナーとして賑わうそこには、大量の夏の暑さに晒された魚肉が散乱している。


 ほとんどは、ヤツらに食い散らかされていたみたいだがそれでもその食い腐しなどは打ち捨てられ腐乱していた。



「右だ!」



「はい!」


「ジャ」



 海原の背後で、音がした。


 先にその音に反応したのは雪代。


「海原さん!」


 雪代につられ、海原が振り向く。



 あ。


 そこには二本足で、立つ、オオトカゲ。犬が仕込まれてたどたどしく二本足で立つかのように下手くそなその立ち姿。


 しかし、大きい。三メートルほどの巨体がいつのまにか海原達に追いついていた。



「じゃあ」


 四つ足から立ち上がり、威嚇するかのように立つその巨体。海原よりもはるか大きなその姿。


 感情の見えないその目の瞼が真横に閉じた。


 自動ドアかよ。海原は心の中で呟く。


 捕食者と被食者。



 雪代は凍りついたかのように動けない。そのまま足を前に進めればいいのに。足の裏、靴底が地面に張り付いたかのように、動けない。



 オオトカゲのもう一つの尻尾側の頭が、小さく、じゃあと鳴いた。



「舐めるな」



 この場でもっとも早く動いたのは海原だった。


 この場でもっとも早く、命を捨てる覚悟を決めたのも海原だった。



 ベルトに刺した短い、棒のようなものを取り出す。


 先を削り尖らせた鉄パイプ。持ち手には滑り止めの赤いビニールテープを巻いたあまりにも粗末な武器。



 それを握りこむ。



 脚を止めた時点で既に逃走は失敗していた。


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