おもむろに、フェリックスは後ろを振り向いた。マリーナの様子を確かめようとしたのだ。しかし、吹雪のせいですぐ目の前も見えないのだから、手を放したマリーナの姿が見えるわけがない。フェリックスは今更ながらにマリーナの手を放したことを少しだけ後悔した。やっぱり一緒に連れてこればよかっただろうか。離れ離れになって今度はマリーナがはぐれてしまっては元も子もない。とはいえ、彼女にはあそこで待つよう言ってあるのだ。自分がはぐれないようにすれば問題はない。フェリックスはそう思い直し、アランの探索を再開した。

 それにしても……。フェリックスは自分の足元を見下ろす。足は太股の辺りまですっかり雪に埋まってしまっている。今は歩いているからその程度だが、普通に立っているだけなら腰の辺りまで沈んでしまうのではないか。

「さっきはここまで酷くなかったのに……」

 それだけ吹雪が強くなってきたということだ。急いでここから出なければ全身が埋まってしまうかもしれない。

 もしや、アランは雪の中に埋まってるんじゃないだろうか。だが、その意見はすぐに却下された。マリーナならともかく、アランなら雪の中から自力で這い上がることくらい訳ないだろう。というか、埋まる前に這い出しているはずだ。

 そんなことを考えていると、不意に風とは違う音が耳に入り込んできた。フェリックスは反射で後ろを振り向いた。

 今、マリーナに呼ばれたような気が……。

 耳をそばだてていると、今度は間違いなくマリーナの声が聞こえてきた。吹雪にほとんどかき消されているが、必死に自分の名前を呼んでいる。アランが見つかったのだろうか……。フェリックスは急いで今来た道を戻っていった。

 目印のある木のところまで戻ったとき、フェリックスは目の前の光景に唖然とした。さっきまでそこに立っていたはずのマリーナの姿が見えない。いや、正確に言うならばほとんど見えないのだ。マリーナの身体は今や肩から上を残して全てが雪に埋まっていた。

「マリーナ!」フェリックスは慌ててマリーナに近づいた。「何やってんだ!」

 マリーナは眩しそうにフェリックスを見上げた。顔が濡れているのは泣いているせいか雪のせいかは分からない。

「助けて……フェリックス……どうしても、抜けないの……」

 マリーナは嗚咽交じりにそう呟いた。雪にすっかり体温を奪われてしまい、声が震えている。顔色も悪い。フェリックスは一目で深刻な事態だと悟った。

「ちょっと待ってろ」

 フェリックスは腕があると思われる場所から手をつっ込み、マリーナの身体を探った。やがて、両腕を脇に挟んでしっかり掴むと、思い切り上に引っ張った。しかし、雪が重くてそう簡単には抜けない。それどころか、反動でフェリックスの方が沈んでしまいそうだった。フェリックスは一度雪から手を引き抜き、マリーナの周りの雪をかいて、少しでも身体が出るようにしてやった。自分の身体も沈んでいかないよう、頻繁に移動して、一ヶ所に留まらないようにした。そして、また雪に手をつっ込み、先程と同じ要領でマリーナの身体を引き上げていく。それを何度か繰り返したところで、ようやくマリーナの胸が完全に現れるところまで引き出すことができた。マリーナも自力で両腕を引き出すことができた。

「よし、掴まれ。一気に引き上げるぞ」

 マリーナの腕はすっかり冷え切っていたが、それでも懸命にフェリックスの腕を掴んだ。フェリックスもしっかり握り返してやる。

「いくぞ」

 マリーナがコクリと頷くのを確認した直後、フェリックスは懇親の力を込めて腕を引っ張った。自分の身体が少し雪に沈んだが、この際、そんなことは気にしなかった。マリーナの身体には錘でもくっついているのではないか疑うほどに重かったが、それでも顔を真っ赤にして引き上げた甲斐あってか、まもなくマリーナの身体は大根のようにずるりと雪の上に引き上げられた。その勢いで二人揃って雪の上に倒れた。

「ったく、何やってんだよ……」

 フェリックスは息を整えながら、隣に横たわるマリーナを覗き見る。マリーナはまだ泣いていた。

「だって……この雪変なの……全然抜けなくて、どんどん沈んじゃって……底なし沼みたいに……」

 怖かった、と震える声でそう呟いた。

「とにかく、とっととアランを探して帰ろう」

 フェリックスはむくりと起き上がって、立とうとした。しかし、足がびくともしない。

「今度は俺かよ」

 フェリックスは苛立たしげに舌打ちをすると、足を引き抜こうとした。だが、まるで足は雁字搦めに縛られているかのようにちっとも抜けなかった。まるで、雪が自分達を逃がさないようにしているみたいだ。

 マリーナが横で不安そうに見ている。

「大丈夫だって。これぐらいすぐに抜ける」

 フェリックスは心配しないよう努めて明るく言ったが、内心では焦りを感じていた。

 おかしい。さっきはどれだけ埋まってもすぐに引き出せたのに。雪が硬くなっているのだろうか。試しに近くの雪を掴んでみたが、降り落ちたばかりの雪はどれも柔らかく、掴んだ途端にボロボロと崩れた。すると、突然フェリックスの腕を掴んでいるマリーナがその手に力を込めた。まだ怯えているのか、とフェリックスは文句でも言ってやろうかと振り向いたが、マリーナはフェリックスのほうを見てはいなかった。その双眸は広い雪原に釘付けになっている。

「どうした? アランを見つけたのか?」

 フェリックスは首をよじってマリーナの視線の先を追ったが、底には何から何まで真っ白な景色しかなかった。それでも、マリーナは腕を握る力を緩めない。

「ねえ、なんか、変じゃない?」

「変って何が?」

 足が抜けないことだろうか。

「なんだか、雪が波立っているような……」

「そりゃあ、まあ、風も大分強くなってきてるし、雪が風に流されてても不思議じゃ……」

「そうじゃないの! そうじゃなくて、なんだか、雪が、自分の意思で動いているのような……」

 言っている意味が分からない。フェリックスは小首をかしげながらも、平野に目をやった。が、すぐにマリーナの言わんとしていることを理解した。

 雪が動いている。風に流されるとか、そんなレベルではない。平野に積もった雪が波のようにざわざわと揺らめいているのだ。雪は風の流れに抵抗して渦を巻くように揺れている。出来上がった渦はやがてゆっくりと頭上高くまで盛り上がった。そのまま二人の子供達を見下ろす。目なんかどこにもないのに、二人ともそれに見られていることがはっきりと分かった。しかも、その雪の塊は体積を増やしながら、だんだんこちらに近づいてきているようだった。

 フェリックスは最初現実とは思えないその光景を呆然と眺めていたが、やがて我を取り戻すと、急いで足を引き抜きにかかった。頭の中で警報がわんわん響く。

 何がなんだかよく分からないが、とにかくあれはヤバい。

 しかし、焦れば焦るほど、足はますます抜ける気配を見せなかった。雪にがっちりと足を掴まれている。逃がしてくれる気はないらしい。隣を見ると、マリーナはまだ腰を抜かしたまま、馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、ゆっくりと近づいてくる雪の塊を見つめていた。

「マリーナ!」フェリックスはマリーナの肩を掴んで引き寄せた。正気に戻ったマリーナの瞳には瞬時に恐怖の色が広がった。「逃げろ! お前だけでも!」

 思考回路がまだ正常に戻っていないのか、マリーナがフェリックスの言葉に反応するまでにほんの少し間があった。

「え……で、でも、フェリックスは……」

「俺はまだ足が抜けないから、お前だけ先に逃げろ! あれがヤバイものだってのはお前も分かるだろう!」

 雪の塊は最初に見たときよりも随分大きくなり、重そうに巨体を引きずりながら二人のほうへと近づいてきいていた。

「や、やだよ、フェリックスを置いて一人で行くなんて! それに、道だってないのに……」

「道がなくても進め! とにかくここから離れるんだ! 俺もすぐに後を追うから!」

「でも、」「早く行け!」

 マリーナが完全に森の中に姿を消す頃には、大雪の塊はフェリックスのすぐ目の前まで来ていた。バランスが悪いのか、若干前のめりになったその雪の塊は、風変わりな生き物のように感じられた。大雪は歩を止めることなく進んでいく。やがて、傾いた頭部がフェリックスの上に倒れてきた。フェリックスはもう逃げ出すことを半ば諦めていた。こんなことになったのは全て自分のせいだ。アランが消えたのも、マリーナにあんな怖い思いをさせたのも。

 身体が雪に押しつぶされる間際、フェリックスは思った。確かに、悪魔はいた。だけど、それはここに棲んでいるわけではない。ここにある雪全てが、大地そのものが悪魔だったのだ。

「そんなの、気付くわけないだろ……」

 その言葉は、空に響くことなく、腹に響くような重低音にかき消された。


 マリーナは道なき道を懸命に走った。途中で何度も雪や木に足をとられ躓いたが、それでも走ることは決して止めなかった。

 早く村に戻って大人の人たちを呼んでこよう。そしてフェリックスたちを助けに戻ろう。

 そこのことだけが、マリーナの頭の中にあった。そして、その思いがいっそう足を速めた。

 気がつくと、いつの間にか足場はならされ、見知った景色が広がった。やっぱり道はちゃんとあったのだ。マリーナは内心で安堵のため息をついた。良かった。もうすぐ村に着く。

「待ってて、フェリックス!」

 マリーナがさらに意気込み、さらに歩を速めようとした、そのとき。

 突然、後方で鳴き声が響き渡った。それは到底生き物のものとは思えないものだった。かといって、吹雪の悲鳴でも、雪を踏むような小気味のいい音でもない。唸るような低く重い音。しかも、それはマリーナの背後から次第に大きくなって近づいてくるようだった。それにあわせて、稲妻の音がバリバリと聞こえてくる。

 マリーナは恐怖に煽られて後ろを振り向いた。彼女のすぐ背後からは、稲妻と間違えるほどに勢いよく木々をなぎ倒し、群れを成して押し寄せる悪魔の姿があった。

「あ、ああ……」

 マリーナは急いで逃げようと足を動かそうとしたが、すっかり竦んでしまって動けない。進めば進むほど勢いを増していくそれに、小柄な少女は成す術もなく白い悪魔に飲み込まれていった。


 村が闇に包まれたのは、彼女が飲み込まれてから程なくしてからだった。突然の強襲に、村人達は何の抵抗もする事ができなかった。

 せめて、もう少し早く分かっていれば……。そう思う頃にはすでに村は白い闇に覆われていた。


 以来、悪魔は何する事もなく、静かに眠っている。

 村は、今もなお闇の中に沈んでいる。

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白い闇 朝日奈 @asahina86

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