Ⅱ
平野中の雪に一通り自身たちの痕跡を残した頃、三人ともほんの少しだけ空気が変わったことに気付いた。上空を仰ぐと先程まで白かった空が、うっすらと灰色がかっていた。
「天気、悪くなってきたんじゃない?」
マリーナが不安そうに言った。
「いや、これぐらいならまだ大丈夫だろ」
アランが空を見上げたまま言う。あちこち走り回っていたので、まだ肩で息をしていた。他の二人も同様で、赤くなった頬とは対照的に白い息を頻繁に吐き出していた。おまけに三人とも全身に雪を被りあちこち濡れている。
少しはしゃぎすぎたかもしれない。フェリックスは雪を払いながらそう思った。腕についた雪を払うついでに腕時計に目をやる。
「うん、もう少しくらいなら平気だな」
しかし、アランとフェリックスの予想は数分後には覆されてしまった。薄灰の空はいつの間にか厚い雲に覆われ、山全体に強い風がなびいた。やがて、風に乗って雪も降り出してきた。
「ね、ねえ、もう帰ろう。吹雪いてきたみたいだし。前が見えなくなっちゃうかも」
マリーナは顔に浮かぶ不安の色を一層強め、フェリックスの腕を掴んだ。
「そうだな。これ以上ひどくなる前に帰るか」
「ち、じじいのうそつきめ。今日は一日中晴れだって言ってたくせに」
さすがの二人も、天気が荒れ始めたことに難色を示した。身支度を整えて、最初に自分たちがやってきた入り口を目指す。
「……おい、今何か聞こえなかったか?」
突然、アランが前方の二人に尋ねた。吹雪とは別に、なにやら呻くような声がするという。
「ああ?風の音だろ?」
「驚かさないでよ、アラン」
フェリックスとマリーナには聞こえなかったらしい。アランは首を傾げたが、フェリックスの言う通り風の音と聞き間違えたのだろうと、自身に言い聞かせた。
「あれ、俺達が通ってきた道ってどこだっけ?」
森の入り口まで来たところで、フェリックスが周りの木々をキョロキョロと見回す。どれも同じような木々が並んでいるので、どこから入ってきたのか分からなくなってしまったのだ。
「あ、こっちよ」マリーナも前方の木々を眺めていたが、すぐに一本の木に向かって言った。「こんなこともあるかと思って、目印つけておいたの」
彼女の指差した木は、樹皮が少し削れていた。
「やるじゃん、マリーナ」
フェリックスは目印のついた気のところまで駆け出した。側に立つマリーナは少し得意げになって微笑んでいた。しかし、フェリックスがそこまで辿りくころには、また怯えた表情に戻っていた。何度も木につけられた目印確認している。
「どうしたんだ?」
「え、うん……。それが……」マリーナは忙しく目を泳がせる。「道が……ないの」
マリーナの視線につられてフェリックスも木の周辺を探してみたが、確かに道らしきものはどこにもなく、ただ眼前一帯に木々が生い茂っているだけだった。
「目印は、それであってるんだろ?」
マリーナはこくりと頷く。それを確認して、もう一度地面に視線を向けた。
「もしかして、雪で道が埋まったのかもしれない。もっと慎重に探してみよう。おい、アラン! お前も探すの手伝え!」
フェリックスは風の咆哮に負けないよう大声を出してアランを呼んだ。しかし、風にかき消されたのか、なんの返事も帰ってこない。フェリックスはもう一度、友人の名前を呼んだ。冷たい空気を吸って、咽喉が凍てつきそうだった。しかし、何度呼んでも、アランは返答する様子も、こちらに向かってくる気配も見せない。二人は不審に思い、顔を見合わせた。
「あいつ、なにやってんだ?」
フェリックスは目の上に手をあてて、平野を眺めた。吹雪はだんだん強くなり、視界は悪くなる一方だった。
「まさか、風に飛ばされたんじゃないだろうな?」
「何馬鹿なこと言ってるの! きっと吹雪で前が見えなくてはぐれちゃったのよ。アラーン! どこお! 聞こえたら返事してえ!」
マリーナがいくら声を張り上げてもアランからの応答は返ってこなかった。まるで、彼がもとから存在しなかったかのように。いくら吹雪いていて視界が悪いとはいえ、そこは何もない平野で、しかもつい先程まで自分達のすぐ側にいたのだ。姿が全く見えなくなるなどあり得はしない。
「うそ……アランが、消えた?」
「ばか。人が突然消えるわけないだろが。きっとはぐれたんだ。探しに戻るぞ。ったく、世話の焼けるやつめ」
強がりを言ってみたものの、フェリックスにも不安が募っていた。
「ま、待って……」
マリーナはフェリックスを追いかけ、その手を握った。フェリックスは手をほどこうとして何か言いかけたが、マリーナの不安げな表情をみて、そのままにしておくことにした。
どれだけ雪原を歩き回っても、二人がアランと遭遇することはなかった。三度目に目印の木の前を通ったとき、遂にマリーナの足が止まった。手を握っているフェリックスもつられて立ち止まる。振り向くと、マリーナは俯いたまま、何も言わずじっとその場に立ち竦んでいる。強くなる一方の吹雪の中をずっと歩き回っていたから、疲れたのだろうか。
「大丈夫か?」
フェリックスは気遣わしげにマリーナの顔を覗きこんだ。しかし、当の本人は何も答えない。
「疲れたんなら、ここで休んでろよ。俺一人でもう少し探してみるからさ」
マリーナの手をほどこうと力を入れてみたが、逆にマリーナにもっと強く手を握られた。
「マリーナ?」
フェリックスが再度、マリーナの顔を覗きこむ。すると、ようやくマリーナは顔をあげ、フェリックスを見つめた。その顔は不安と恐怖で満ちていた。
「アランは、悪魔に連れ去られたんじゃないの?」
その言葉の意味を理解するのに、一分ほどかかった。
「何言ってんだよ。悪魔なんているわけないって言っただろ。お前だって、ここに来てからそんなもの一度も見てないだろう」
「でも、だったらどうしてアランが見つからないの? もう何度も探したのに……」
「き、きっと、反対側の森に入ったとか、そんなんじゃねえのか? ほら、この辺似たような木がいっぱい並んでるし。入り口だと思って、別のところに入り込んだんじゃ、」
「うそ! フェリックスだってさっき確かめたでしょ? アランの足跡なんてどこにもなかったし、第一、周りの森は人が通れるような道なんてどこにもなかったじゃない!」
確かに、マリーナの言う通りだった。二人は平野をぐるりと回りながら、アランが間違えて別の森に入ったのかもしれないと、その辺一帯も調べたのだ。結果は今言われたとおり。アランが平野を離れた可能性はゼロだ。それは、今自分たちの目の前にある、本来入り口だった場所を見ても分かる。そこにはアランの足跡どころか、道らしい道すら見当たらない。アランがいるとすれば、必ずこの雪原の中、自分達の近くにいるはずなのだ。しかし、どれだけ探してもアランは姿を現さない。この吹雪の中、二人をからかうため、アランが自分の意思で隠れているのだとしたら、それはあまりにも度が過ぎている。雪の恐ろしさはアランだってよく分かっているはずだ。こんなひどい吹雪の中で隠れるなど、意味もないし危険だ。
だとしたら、やはりアランは悪魔にさらわれてしまったのだろうか。そんな思いが頭の中をよぎったのは一瞬だけだけで、フェリックスはすぐにそれを消し去った。悪魔なんているはずがない。
「悪魔なんているわけない! アランは絶対この辺のどこかにいるはずだ! 俺はもう一人で探す! 探す気がないならお前はここにいろ!」
フェリックスは無理矢理マリーナの手をほどくと、吹雪き乱れる平野に戻った。
「え、待って! フェリ……」
マリーナはフェリックスを追いかけようとしたが、足がすっかり雪に埋まってしまい、抜け出すことができなかった。フェリックスの姿を見失わないよう前方に注意しながら、急いで足を引き抜こうとしたが、どうにも抜けない。それどころか、動くたびにどんどん身体は雪に埋まっていくように感じられた。
「うそ……やだ……」
マリーナは目の前の盛り上がった雪にしがみつき、這い出ようとしたが、逆に体重をかけた両腕が今度はずぶずぶと雪の中に沈んだ。慌てて引き抜こうとしたが、しっかりと固定されてしまったようにピクリとも動かない。マリーナは全く身動きが出来なくなってしまった。下半身はもうすっかり雪中に埋まってしまい、腹部から上しか見えない。足を出そうとすれば腕が沈み、腕を引き抜こうとすれば今度は足が一層沈んでいく。しまいには、雪から出ている部分は頭と胸部だけになってしまった。疑問と不安が脳裏を駆け巡る。
どうして……? どうしよう……。助けて……。
「助けて……フェリックス! 助けて……!」
不安定な体勢で声を出すのもままならないが、それでもマリーナは必死に声を張り上げた。フェリックスの姿は吹雪によってすっかり姿が見えなくなっていた。真っ白なその光景を目の前に、マリーナは絶望の闇に飲み込まれそうだった。
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