白い闇

朝日奈

 その村は、ロシアの中心都市よりもさらに北にある山の奥の奥にひっそりと在った。村は四方を山に囲まれており、人々は一年の大半を白い雪に包まれて過ごしていた。

 村の外へ出るための道はたった二つ。一つは、山と山の間の小さな隙間に作られた、町へと続いている正式な道。もう一つは、その正式な道とは正反対に位置している山道。こちらの道はある程度舗装されているものの、その道がどこに続いているのかは誰も知らない。道の続く先を見たという者が言うには、山の頂上は広い白銀の平野がずっと広がっているという。しかし、そのさらに先のことを尋ねられると、途端に口をつぐみ、皆一様にただ首を振るだけだった。顔色を雪のように白くして。

 やがて、そのうちの誰かがポツリと、こう呟いた。


――山の向こうには、悪魔が潜んでいる。




白い闇




「なーにが悪魔だ。そこはなんにもない、ただ広いだけの平野なんだろう。どうして悪魔が潜んでるなんて分かるんだ」

 フェリックスはそう言って小馬鹿にしたように笑った。平野ならば潜むどころか住む場所すらないだろうと。彼は両手を頭の後ろで組み、木製の椅子にだらしなく腰掛けていた。

「きっと、白いから分かりにくいんだよ!」

 フェリックスの幼馴染のマリーナが隣の席から必死で言い返してきた。彼女は村に伝わる噂話をすっかり信じているようだ。目じりにうっすらと涙まで溜まっている。先程の授業で聞いた話のどこがそんなに怖かったのか、フェリックスは不思議で仕方なかった。

「じゃあ、晴れた日に見に行けばいい。そうすれば吹雪に邪魔されずに悪魔を確認できる。ま、本当にいればの話だけど」

 フェリックスは相変わらず皮肉めいた口調で言った。

「じゃあ、お前、今度晴れた日に見にいってみろよ」

 突然、フェリックスの前の席から乗り出してきたのは、マリーナと同じ幼馴染のアランだった。小さい頃からなにかとフェリックスにちょっかいを出してくるが、決して仲が悪いわけではない。むしろ、二人は近所でも有名な悪戯っ子として名を馳せていた。何かトラブルが起これば、必ずこの二人組が絡んでいるといっても過言ではない。

「ああいいぜ。なんならお前も来るか?」

 フェリックスはイタズラっぽい笑みをアランに向ける。アランも同じようににやりとした。

「ちょ、ちょっとやめなよ! 危ないよ!」

「誰もお前に来いなんて言ってないだろ」

「そうそう」

 マリーナは二人を慌てて止めようしたが、この二人がマリーナの忠告を聞かないのはいつものこと。マリーナは怒ったように小さな唇を曲げたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「じゃあ、決まりだな。いつにする?」

「俺の爺ちゃんが明後日は晴れだって言ってた」

「本当か! じゃあ明後日で決まりだな。お前の爺ちゃんの天気予報は絶対当たるからな」

 フェリックスの祖父は生まれてこの方一度も村を出たことがなく、村の中だけで生きてきた。だからこの村に関することで彼以上に詳しい者はいなかった。

 二人は早速、集合時間や必需品の打ち合わせを始めた。マリーナはその横でまだ不服そうに二人を見つめていた。


 肩に背負ったリュックをカチャカチャいわせ、フェリックスは山道の入り口に向かった。親に出掛ける言い訳を考えるのに手間取ったから、少し遅れてしまった。アランはもう来ているだろうか。

 集合場所にたどり着いたとき、そこにはアランだけでなく、マリーナの姿もあった。

「なんでマリーナもいるんだよ」

 フェリックスは唇を尖らせ文句を言った。

「決まってるじゃない。私も二人と一緒に行くからよ」

 マリーナはリュックの紐をピンと掴んで胸を張った。確かに、服装からもただ見送りに来たわけでないことは一目瞭然だった。

「帰れって言ったんだけど……」

 アランがバツの悪そうに目を逸らす。大方、マリーナに説き伏せられたのだろう。アランもフェリックスも口喧嘩で彼女に勝ったことは一度もない。

「一昨日はあんなに嫌がってたくせに」

 フェリックスはキッとマリーナを睨んだ。しかし、マリーナもリュックをギュッと握り締め、負けじと食って掛かる。

「もちろん怖いわよ。でも、二人が変なことして、止めなかった私まで大人の人たちに怒られる方がよっぽど恐いもの。だから、今日は二人を見張りに来たの」

「変なことってどんなことだよ」

「それは……とにかく、危ないこととか無茶なことよ」

「ちょっと山を登って頂上まで行くだけだよ。危険なことなんかあるもんか」

「あななたちの場合、危険じゃないことも危険になるのよ。騒ぎを起こすプロフェッショナルなんだから」

 そう言うマリーナの口調はまるで小さな子供に説教する教師みたいだった。

「ふーん。どっちでもいいけど、途中で怖くなって、帰りたいなんて言うなよ。容赦なく置いてくからな。行こうぜ」

 フェリックスはアランに合図して、さっさと山に入っていった。アランもマリーナの様子を窺いながらついていった。

「そ、そんなこと、分かってるよ」

 マリーナも、二人の背中を追いかけるように山に入る。前方を貫く傾斜道は雪に埋もれて全く見えない。道の両側に並び立つ細い木々だけが、そこに道があることを教えてくれていた。だが、マリーナはその光景を見てどきりとした。なぜか木々が道に怯え、避けているように見えたのだ。彼女は前を歩く二人に声をかけようとした。やはり行くのは止めよう、と。しかし出来なかった。フェリックスの意地悪な顔が浮かんだのだ。マリーナは強がるように唇をきゅっと結び、二人のもとへ駆け寄った。今ここで止めなかったことを、後にひどく後悔することになるとは、このときはまだ夢にも思っていなかった。


 三人は黙々と山道を登った。会話がなかったのは体力を温存するためでもあったが、突然乱入してきたマリーナのことで、フェリックスは少し機嫌が悪くなっていた。だから、ぶすっとした表情で先頭を歩いた。

 マリーナの奴、保護者ぶりやがって。怖いんだったら家に帰って布団でも被っていればいいんだ。

「なにが見張りに来た、だ……」

「何か言ったか?」

 口の中で呟いたつもりが、しっかり発声してしまっていたらしい。後ろを歩くアランが覗き込んできた。フェリックスはなんでもないと、片手を上げて制した。

 上を見上げてみると、白い空とその上に点々と描かれている雲が見えた。太陽は光しか見えなかった。本来空は青い色のはずだが、ここからはなぜか白色に見える。前に父親が、空が青いのは海の色を反射しているからだと言っていた。だからきっと空が白く見えるのは雪を反射しているからだとも。フェリックスはマリーナのようになんでも素直に受け取るほど従順な性格の持ち主ではないが、そのときの話は妙に納得できた。確かに晴れたときの雪の白さと言ったら目を開けていられないほどだ。空に色がうつったとしても不思議じゃない。

 ふと、視界の隅に灰色の雲が入り込んできた。灰色といってもほぼ白に近く、天候の悪化を報せるそれとは似ても似つかない。だが、山の天気は変わりやすい。万が一のことも考え、フェリックスは足を速めた。

 しばらく歩くうちに前方がやけに明るくなっていることに気付いた。フェリックスはすぐにピンと来た。もうすぐ頂上に着く。話では頂上は平野だと聞いている。だからきっと、あれは太陽の光で輝く雪の光に違いない。

「もうすぐ頂上だ!」

 首を曲げ二人にそう告げると、二人とも疲労した顔を上げ、綻ばせた。三人とも自然と足が早くなる。光り輝くゴールに近づくにつれ、期待と不安がない交ぜになって強くなる。三人が白い光に包まれたとき、一瞬言葉も出なかった。

 そこは、一面の銀世界が広がっていた。本当に山の頂上か疑ってしまうほどに。山に囲まれて育った三人にとってこんなに広い空間を目にするのは生まれて始めてだった。

「ひろーい」

 疲労も恐怖も忘れて、マリーナがはしゃいだ声を出す。

 フェリックスが一歩足を踏み入れると、膝の辺りまで沈んだ。しかし、本人はそんなことお構いなしに、前人未踏の雪の上をずかずかと歩き、辺りを見渡した。その大きさは自分達の学校にあるグラウンドの二倍くらいの広さがある。半分くらい進むと、地面がゆるやかに傾斜していた。その向こうには、ぽつぽつと木々が佇んでおり、山を降りていくにつれて木々の量も増えていった。ただ、この山の向こう側もいくつもの山がどっかりと腰をおり、すっかり視界を遮っているので、山々の向こうに何があるのかは分からなかった。

「なんだ。やっぱり、なにもいやしないじゃねえか」

 フェリックスは平野をぐるりと回って観察したが、どこも同じようなものだった。端に行くにつれ、傾斜していき、森が広がり、そのさらに向こうはまた新たな山に囲まれている。

 この辺一体は山だらけなんだな。フェリックスは今更ながらにここが田舎の中の田舎であることを実感した。

 と、突然、後ろから激しい衝撃を受け、フェリックスはなんの防御も出来ずに雪の上に倒れた。雪のクッションのお陰で怪我はなかったが、顔に冷たい雪が当たってすこしヒリヒリした。身体についた雪を払いながら起き上がる。フェリックスは攻撃を受けたのにちっとも恐怖を感じていなかった。それどころか次第に口元が意地悪くにやけていった。

「何すんだよ!」

 身体を起こすのと同時に後方に向かって足を振り上げた。

「おおっと!」

 フェリックスの後ろに立っていたアランは雪の中でも器用に蹴りを避けた。

「いや、せっかくこんな綺麗に雪が積もってるから人型でも残してやろうと思ってな、お前の」

 アランはにやにやと笑って雪の上を指差した。確かに、フェリックスの足元からは人の形に雪が窪んでいる。

「よおし、じゃあお前の型は俺が作ってやるよ。ほら後ろ向け。おもいっきり蹴り飛ばしてやる」

「いや、俺は遠慮しとくよ。お前みたいに綺麗に作れそうにないしさ。だから、お前が二人分作ってくれ」

 二人がじりじりと向き合っていると、マリーナが雪を掻き分けてきた。

「もー、なにやってるのよー!」

 男子二人はそれを見たあと、顔を見合わせてにやりとした。一瞬の打ち合わせの後、二人はマリーナに向かっていった。

「マリーナ」

 自分のもとに戻ってきた二人を見て、ほっとしたのも束の間、マリーナは二人におもいきり突き飛ばされた。

「きゃっ」

 頭からは倒れなかったものの、マリーナは雪の上に尻餅をついた。

「人型じゃなくてケツ型がとれたか」

 二人が馬鹿みたいに笑い出したので、マリーナの顔は真っ赤になった。

「もう……ばかあ!」

 笑うことに夢中になっていた二人は、マリーナの投げた雪の塊を見事に顔面キャッチした。

「いってえ! 何すんだよ!」

「あ、冷てえ! 服に入った!」

「うるさい! そっちが悪いんでしょう!」

 とはいえ、やられっぱなしで終わる少年達ではない。二人はマリーナに向かって雪だまを投げ返した。マリーナも負けずに防いだり、投げ返してやった。フェリックスは先程の仕返しにと、アランに向かっても投げつけた。この雪合戦は彼らの気が済むまで続けられた。

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