三.
翌日。
梅の容態は芳しくなかった。それどころか、昨夜よりも悪化しているようだった。
勘九郎は静かに眠る梅の横で、その青白くなった顔をじっと見つめていた。その姿はすでに息絶えているようにすら見えた。
しかし、よく目を凝らしていると上にかけてある布団がかすかに上下しているのが分かった。
昨夜、勘九郎は一睡もできなかった。自分が眠っている間にも梅が死んでしまうかもしれないということが怖かったのだ。
「梅……」
勘九郎は妻の名を呟いた。名の持ち主は自分のすぐ側にいるのに、その声はどこか遠くにいる誰かに向かって言っているようだった。
声が届いたのか、梅がうっすらと目を開けた。
「かんくろう……さま」
夫の姿を認識すると、梅は力ない唇を懸命に動かし、愛しい人の名を呼んだ。
「すまない。起こしてしまったか?」
勘九郎の謝罪に、梅は小さく首を振った。そして、夫の目をひたと見据えて言った。
「申し訳、ありません」
「なぜ、お前が謝るんだ?」
「勘九郎様のお役に立てなくて、それどころかこんなにご迷惑を……」
梅は顔を歪めて言った。今にも泣き出しそうだ。
「何を言っているんだ。私たちは夫婦なのだから、余計な気を使う必要はない。それよりも、今はゆっくりと休みなさい。きっとすぐに良くなる」
勘九郎の言葉に梅はさらに顔を歪めた。涙が一筋、目から零れ落ちた。
梅は勘九郎から視線を逸らして言った。
「私はもうすぐ死にます。もっと、勘九郎様にお使えしたかった……」
「な、何を馬鹿なことを……。死ぬなんて。少し疲れが出ただけだ。しっかり休めばすぐに良くなる」
勘九郎はそう言いながらも、頭の中では昨日の弥七との会話が浮かんでいた。
「ですが、私は……」
梅は何か言おうとしたが、途中で口をつぐんだ。
そのまま、しばらく暗い沈黙が続いた。
先にそれを破ったのは勘九郎だった。
「そうだ。桜餅を買ってきてあげよう。確か、好きだっただろう」
「え、ええ。ですが……」
「少しくらいなら食べられるだろう。もしかしたら、それで元気になってしまうかもしれない」
そう言って、はははと笑うと、勘九郎は早速立ち上がった。
突然明るくなった夫に驚きを隠せない梅を横目に、勘九郎は部屋を出て行こうとした。
「あ、あの……勘九郎様」
勘九郎が振り向くと、梅が心配そうにこちらを見ていた。
「あの、お気をつけて」
その言葉に、勘九郎は精一杯の笑顔で答えた。
* * *
勘九郎は苦い顔をして甘味屋を出た。
そう長い距離を歩いてはいないのに、足は鉛のように重かった。
勘九郎は手にした紙の包みに目をやった。
桜餅を食わせてやりたいという気持ちはあった。しかし、ほとんどはあの場から離れるための単なる口実に過ぎなかった。
もしずっとあの場にいれば、自分はきっと梅に昨日の話をしてしまうに違いない。それだけは避けたかった。
梅が呪われてあと三晩もたたずに死んでしまうなんて、言えるはずもない。何より、自分自身が信じたくなかった。
勘九郎は小さくため息をつくと、餅を懐に入れ、帰路に就いた。
なるべく遠回りになるような道を選んで進んでいると、昨日三人で花見をした空き地を通りかかった。
勘九郎は何とはなしに立ち止まり、昨日梅が子どもを見たという梅の木を目で探した。
それは隅のほうにひっそりと佇んでいて、一見桜と見間違いそうだった。それでも誇らしげに花を満開に咲かせていた。その悠然さが逆に不気味にも思えた。
「え?」
不意に梅の木の側で黒い影が動いた。一瞬だったのでよく分からなかった。気のせいか?
勘九郎はもう一度目を凝らしてよくよく梅の木を観察した。しかし、今度は何も見えない。梅の木は変わらず春風にその身をなびかせていた。
しかし、今確かに……。
勘九郎は慎重に梅の木に近づいていった。
梅の木をぐるりと回ったり、生い茂る花や絡み合う幹の合間を覗き込んだりしてみたが、何かがいる気配はなかった。
やはり、身間違いか……。
きっとあのことを気にしすぎていて、枝か何かを見紛えたのだろう。
勘九郎は踵を返して立ち去ろうとした。
そのとき、頭上からパラパラと砂が零れ落ちてきた。
頭上を仰ぎ見ると、そこにはふわりとしたたくさんの白い花びらに包まれ、頑丈そうな太い枝にちょこんと座りこちらを見下ろしている童が一人いた。花や幹と同様におかっぱ頭の柔らかそうな髪を風で揺らめかせていた。
勘九郎は目を瞠った。まさか、この子どもが……。
その瞬間、勘九郎は昨日の会話を再び思い出した。
――梅童を見た奴は死ぬ。
背筋が凍った。足が棒になってしまったかのようだった。
私も、死んでしまうのだろうか?
子どもは枝からはみ出した足をぶらぶらさせながら、しばらく勘九郎を見下ろしていたが、不意に枝からぴょんと飛び降りてきた。
とっさに、勘九郎は腰に添えた刀に手をあてた。
「お、お前が『梅童』か?」
しかし、その名前が気にくわなかったのか、童は眉間に皺を寄せ、嫌がるような考え込むような顔をした。
それでも、何故だか勘九郎には目の前の子供が例の童であると分かっていた。
勘九郎は目の前に立つ子どもを凝視した。
思っていたよりも普通の童だった。角や牙もない。
しかし、この童を切れば梅は助かるかもしれない。
勘九郎は刀に添える手に力をこめた。しかし、どうしても抜けなかった。目の前にいるのは妖とはいえ、小さな子どもなのだ。
それに、こいつを切って祟られでもしたら何の意味もない。
踏ん切りがつかないまま、勘九郎があれこれ考えていると、童は踵を返して木の後ろに回りこんだ。
「ま、待ってくれ」
勘九郎は急いで童のあとを追った。しかし、そこには誰もいなかった。
首を回して探していると、風の音とは違うガサガサとした音が頭上から聞こえてきた。見上げると、あの童が絡み合った枝の上で器用に立っている。
一瞬で上ったのか?
勘九郎が唖然としていると、童はまたそこからひょいと飛び降り、勘九郎の背後に回った。
勘九郎は急いで振り向いて、梅童と向き合った。
しかし、童は勘九郎など見えていないかのように、脇をすり抜けてまた幹の裏へと回りこみ、いつの間にか枝の上に立っていた。
何度も何度も、その繰り返し。
勘九郎はその奇怪な行動を後ずさりながら眺めていた。
何がしたいんだ……。
その無意味な行動を眺めているうちに、勘九郎は本来の目的を思い出した。
童が枝から飛び降りたのを見計らって、勘九郎は口火を切った。
「梅を、妻を助けてくれ」
勘九郎は自分よりも小さな童に懇願した。すると、童は急に立ち止まり、今初めて勘九郎の存在を知ったかのように、じろじろと見つめた。そして、何を思ったのか、童はケタケタと腹を抱えて笑いだした。何がそこまで可笑しいのか、しまいには地べたに転げて足をバタつかせる始末。
勘九郎は一瞬訳がわからずその光景を唖然として見ていたが、その笑い声に耐えきれず、ついに刀に手をかけた。
「貴様、妖の分際で、いくら子供だろうと人を侮辱すると許さんぞ!」
その叫び声に驚いたのか、童は急に笑うのをやめ、ガバッと起き上がった。しかしそれは刀を持つ勘九郎を恐れてではないことはその視線からはっきりと分かった。
童は勘九郎の懐をじっと見ていた。その眼差しは子供が初めて目にするものに興味を注いだ時のそれと同じだった。
勘九郎も不審げに自分の懐に目をやった。中には桜餅以外には何も……。
「もしかして、これが欲しいのか?」
勘九郎は懐から餅を取り出した、桜餅は白色の紙に包まれていて、ほんのりと桃の色を紙に浮かび上がらせていた。
童はそれを見てますます目を輝かせた。まるで自分を抑え込むかのように自身の服を両手でつかんで。
その無邪気な光景に勘九郎は怒りも忘れて思わず吹き出してしまった。
勘九郎はその場にしゃがみこむと、未だ瞠目したまま動かない童の目の前に、紙を開いて桜餅を差し出した。
「お食べ」
勘九郎の言った言葉が通じたのか通じなかったのか、童はしばらく勘九郎と桜餅を交互に見つめた。
勘九郎がさらに前に差し出すと、童は恐る恐る餅を手に取ると、脱兎の勢いで木の裏に隠れた。
耳をそばだてていると、むしゃむしゃと餅を食う音が聞こえた。
それが消えて間もなく、また童が木の上から飛び降りてきた。そして、頬に餡をつけたまま、勘九郎の目の前に握り締めた小さなこぶしを突き出した。
「なんだ?」
童はなおも勘九郎にこぶしを差し出したまま立ち尽くしていた。
「手を出せ、ということか」
勘九郎がそっと手を出すと、童はその上にこぶしから何かを落とした。
手の中を覗いてみると、小さな梅の蕾が三つ乗っていた。
「これは……餅のお礼か?」
勘九郎が童を見やると、童はちょうど自分が手にしていた蕾を口に入れているところだった。
あっとなったときには、童はもう蕾を飲み込んでいた。
童は梅を持ったまま呆然としている勘九郎と彼が手にしている梅を交互に見た。
「食べろ、というのか」
子どもは答えず、じっと見つめている。
勘九郎は一粒を眼前に持ってくると、恐る恐る口に入れた。
その途端、勘九郎は驚いて目を瞠った。
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