二.
「あら?」
弥七の酌をしていた梅が、不意に遠くを見つめて言った。
「ん? どうしたんですかい?」
「あちらの方にある木って、梅じゃないですか?」
その言葉に、弥七は首を傾けて梅の指差す方を覗き込んだ。
「ありゃあ、本当だ。今の頃合いにしては珍しいなあ」
二人の視線の先、空き地の隅のほうに、所狭しに並んでいる桜とは少し間を空けて一本の梅の木がぽつねんと立っていた。
今の時期ならば、梅の花はもう枯れ始めていてもおかしくはないのに、その梅は周りの桜に張り合うように、昂然と花を咲かせていた。
梅はそんな梅の木を魅入られたかのように見つめた。
そのとき、木の陰で何かが動いたような気がした。
なんとなく、人の形をしていたような……。
梅がその辺りを凝視しているとまた何か動いた。今度ははっきりと分かった。
人だ。それも小さな子ども。
「あの子、あんなところで何をやっているのかしら」
梅は立ち上がって梅の木に近づいていった。
「あれ、お梅さん、どこ行くんです?」
「あの梅のところに子どもがいるんですよ」
それだけ言うと、梅はさっさと歩き出した。
「へ? 子ども?」
弥七は梅の木に目をやったが、誰かがいるようには見えなかった。
梅の木のすぐ下まで来ると、梅は木の後ろを覗き込んだ。しかし、そこには誰もいなかった。上に登っているかもしれないと思い見上げてみたが、枝が絡み合っているのがあるだけで、他には何も見当たらなかった。
「何もいませんよ」
後ろから梅を追いかけてきた弥七が梅の木を眺め回しながら言った。
「きっと舞い散る花びらか何かを見間違ったんでしょう。あ、ほら、旦那も戻ってきた。俺達も戻りましょうぜ」
弥七は梅の肩に手をかけると、二人を探す勘九郎の元へ戻った。
梅も、釈然としない想いのまま、じっと佇む梅の木を背に自分を呼ぶ夫の元へと戻った。
* * *
梅が倒れたのはその日の晩だった。
尋常ではない高熱が続き、少しも下がる気配がない。医者に診せても、原因は何も分からなかった。
夜、苦しみ横たわる梅の傍らで、心配そうに勘九郎が看病していると、話を聞きつけた弥七が来訪してきた。今度はきちんと門から入ってきている。
「一体、急にどうしたってんですかい? お梅さん、昼はあんなに元気そうだったのに」
「私にも分からない。とにかく、一晩様子を見てないことには……」
二人は梅の眠っている隣の部屋に移動していた。
「花見から帰ってから少しもしないうちに倒れたんだ。けれど、それまではなんともなかったように見えたのだが……」
勘九郎の表情は心底つらそうだった。妻が苦しんでいるというのに何もできない自分が悔しいのだろう。
そんな勘九郎を見ていられず、弥七は顔をしかめて俯いた。
弥七は昼間見た彼女を思い浮かべた。
あんなに元気だったお梅さんがどうして……。
しかし、突然弥七は顔を上げると、自分の頭に浮かんだ考えに背筋を凍らせた。
咽喉が渇くのをつばを飲み込んで阻止した。
弥七は、いつもは言われなくても開いてしまう口を、やっとの思いで開けた。
「……旦那、驚かずに聞いてくれ」
突然顔を真っ青にして話し出した弥七に、勘九郎は眉をひそめて続きを待った。
「今日の昼、旦那が家に戻っていったとき、お梅さん、梅の木を見つけたんだ。それから、そこに子どもがいるって、近づいていったんだ」
その話なら勘九郎にも心当たりがあった。梅が帰り道に話していた。近くに住む子供が遊んでいたか、弥七の言う通り、ただの見間違いか、そう思って大して気に留めていなかった。
勘九郎がそのことを思い出しながら弥七に先を促すと、弥七は急に話題を変えた。
「旦那。『梅童』っての聞いたことあるかい。あるいは『朽ち童』でもいい」
「うめわろ?」
勘九郎はその言葉を反芻してみたが、聞き慣れない言葉だった。「朽ち童」も聞いたことがない。
それが表情に出ていたのか、弥七は納得したように頷いた。
「でしょうね。俺も死んだ婆に聞くまでは知らなかった。『梅童』ってのは、梅の木に巣食う呪い子のことだ」
弥七は「梅童」について、己が知っていることを勘九郎に話して聞かせた。
* * *
うめ童 うめ童 どこさ行く
うめ童 うめ童 どこにも行かねえ
梅の木だけが 童のいえ
梅の木だけが 童のおや
うめ童 うめ童 何してる
うめ童 うめ童 何もしねえ
梅の木だけに 腰掛けて
梅の木だけを 見つめてら
うめ童 うめ童 どこ行った
うめ童 うめ童 どこにも行かねえ
だけどもうめ童 見えちゃいねえ
梅の木だけも 見えちゃいねえ
どこも 何にも 見えちゃいねえ
「見えちゃいねえ、ってのは梅童も木も見えなくなった、つまり死んだってことなだ」
「死……」
勘九郎は背筋が寒くなるのを感じた。
この唄はある地方で大昔に出回ったものらしいが、その梅童を見たものが一人もいなかったため、時が経つにつれて忘れ去られていったのだという。
「婆によれば、この唄は梅童を見た奴が歌った唄で、つまり、梅童を見た奴は死ぬっていう意味らしい」
「梅童」のもう一つの呼び名である「朽ち童」とは、枯れ落ちる花のように死んでいくということが所以となっているらしい。また、その「朽ち童」の巣食う梅は「朽ち梅」と呼ばれるのだという。
「まさか、梅が見た子どもはその梅童だというのか?」
この問いに弥七は答えられなかった。確証はない。しかし、この時期にあんなにも咲き誇る梅の花をおかしくないと思えるだろうか。
弥七の無言を、勘九郎は肯定として受け取った。
「そんな、梅が……死ぬ?」
勘九郎は目の前が真っ暗になりそうだった。
梅と夫婦になったのはさほど遠くない昔。まだ子どももできていない。ようやく夫婦として形が整い始め、これからだと思っていた。それなのに……。
「一体、どれくらいもつんだ?」
勘九郎は俯きながら途切れ途切れに尋ねた。
「……三晩はもたないらしい」
勘九郎は、硬く目を閉じた。
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