第二章:はねっかえりバタフライ
一、夜の蝶だった頃
人は頭の中で「危ない!」と叫んだ後、すでに自分が怪我をしたことに気がつく。
ハヤマ・ユリカも階段で足がもつれた瞬間こそ、頭の中で「危ない!」と叫んだ。しかし体は重力に勝てない。結果、地下へと続く階段の入り口で尻餅をついてしまった。
脱げたハイヒールが暗い地下へと落ちていくのを呆然と眺めていると、地下から「落としましたよ!」という声が上ってきた。可愛い女の子の声だった。
「ああ、ありがとう」
回らない頭でなんとか返事をしたが、普段より酔いの回りが早い。
「――お水、持ってきますね」
階段を上ってきた女の子はユリカの様子を見るや、傍らにハイヒールを置くと、その足で階段を駆け下りた。
自分ではちょっと飲み過ぎたという感覚でも、人から見れば泥酔の域に達しているらしい。暗がりでよく見えなかったが、女の子も困惑した様子だった。
そういえば、ビールから焼酎のお湯割りやワインに手を出した辺りで、「そのくらいにしなよ」とカナコに止められた気がする。いろんな種類のお酒を飲む、いわゆる『ちゃんぽん』をすれば泥酔になるのは当たり前だ。
ユリカは背中から地面に倒れ、そのまま横になった。秋口の夜。お尻はまだ痛むが、アスファルトの冷たさが心地良い。
横になるなら土の方がよかったな、とユリカは思った。お客さんから買ってもらったブランド物の服やバッグ、アクセサリーを土と草まみれにしたらどれだけ気持ちがいいだろう。
「具合、どうですか?」
「へーきへーき。普段より飲んじゃっただけだし」
戻ってきた女の子からコップを受け取り、一気に飲み干した。味覚までおかしくなったのか、口の中に優しい甘さが広がる。
「お水に蜂蜜を入れました。蜂蜜には、肝臓でアルコールを分解する力を速める効果があるんです。二日酔いでつらい時、スプーン一杯分の蜂蜜を舐めるだけでも効果がありますよ」
ユリカは目をしばたたかせ、可愛い声でうんちくを語った女の子を見た。なぜこんな女の子が悪酔いや二日酔いの解消法を知っているのだろう。お酒好きの父親から聞かされたとしても、効果まで説明できるのはおかしい。
そもそも、女の子が深夜、うんちくを語るほどの余裕を持ってこんな場所にいるはずがない。
「あんた」
「はい?」
いくつなの、と聞きそうになって、慌てて口を噤んだ。やはり暗くてよく見えないが、相手は背が小さくて声が可愛いだけの『女性』ということもありうる。似たような子がお店にいたことを思い出し、ユリカは脱げたハイヒールを履き直した。
「なんでもない。それよりありがとう。おかげで酔いが吹っ飛んだ」
立ち上がり歯を見せるように笑うと、相手から安堵の声が漏れた。
「よかった。ああ、そうそう。蜂蜜は口臭予防にもいいので、ぜひお試しください」
「ははっ。なにそれ、通販番組みたい」
思わず噴き出してしまったが、彼女も気を害した風ではなく、「そうですね」という言葉に笑い声が混ざっていた。
できることなら、もっと明るい場所で会いたかった。そうすれば同じように噴き出す姿を見ることができたかもしれないのに。
「ねぇ。名前は?」
気がつけば、相手に名前を尋ねていた。こんな短い時間で、もっと話をしてみたいと思える人に会ったのは二度目。名前も聞けずに会えなくなってしまうのは一度目でたくさんだ。
「夢原涙子です」
ユメハラ・ルイコ。可愛い声の『女性』に相応しい、夢のような名前だと思った。
キャバ嬢とは、お店で一番になってやるだの、稼ぎまくってお金持ちになるだのといった野心がなければやっていけない職業だと思っていた。
実際はその通りなのだが、小さい頃から男の子と遊ぶのが当たり前で、気に入らないことがあればすぐ食ってかかるはねっかえりだった自分が、まさかお客さんのつまらない話に笑顔で相槌を打ち、お客さんと食事をしてからお店に出たりしていたなんて。
新人時代にボーイにいびられていたせいで反骨精神に火が付いたのもあるが、元々物怖じをしない性格も手伝って、お店ではある程度の地位をキープしていた。
会話力を鍛えることができ、お店の先輩からお客さんの誕生日や好みはメモに取った方がいいと言われて以来、すぐメモを取る癖がついた。
ユリカにとって得る物の多い仕事をなぜ辞めてしまったのか。きっかけは、先月お店を辞めたカナコだった。夜はお店で働きながら、昼は派遣社員として働いていたカナコに、ユリカはお酒の席で辞めた理由を尋ねた。
『必死になって稼ぐ必要もなくなったからかな? 前よりキャバ嬢の給料も下がってきたし、ここで派遣社員一本にしようと思って』
カナコにはお店で働く前から付き合っていた彼がいた。結婚資金を稼ぐために二足のわらじを履いていたこともユリカは知っていた。その彼と別れたことで、これからは堅実に働こうと決めたのだという。
最近は大手企業で働くことも増えたらしく、「玉の輿もあるかも」と冗談めかすカナコを見ながら、ユリカは今までのことを振り返った。
故郷から上京してきて五年。働かずに夜遊びを繰り返していたことが原因で両親と喧嘩、売り言葉に買い言葉で家を飛び出したのがきっかけだった。ほとぼりが冷めるまで友達の家を転々とするつもりでいたものの、自分を泊めてくれた友達が、「上京して働きながら専門学校に通う」と言った。
両親のことが頭をよぎったものの、田舎として中途半端な故郷から出る絶交のチャンスだと思った。一緒に上京し、マンションを借りてルームシェアをしようと持ちかけると、友達も快く承諾してくれた。女一人より二人の方が心強い。
働くお店も同じにしたのは言うまでもないが、友達は専門学校を卒業すると同時にお店を辞めて引っ越し、ユリカはルームシェアをしていたマンションに住み続け、お店に残って働いた。
目標を持って働いていたカナコと友達は眩しいほど立派で、二人とも手の届かない存在になってしまった。自分はというと、その場のなりゆきに任せてふらふらしているだけ。
自分はこのままでいいのだろうか。ただ働いて、ただお金を稼ぐだけでいいのか。なにか目標を見つけた方がいいのだろうか。しかし、ユリカには達成すべき目標、叶えたい夢はなかった。
焦りと不安に駆られながらも、その後はなんとか笑顔で働いていた。たとえなりゆきだとしても、進んで選んだ仕事なのだからと、自分自身に言い聞かせて。
それも長くは続かなかった。出勤しようとドアノブに手をかけた瞬間、自分の中で何かが切れてしまったのだ。まるで糸が切れたように、ぷっつりと。
その日を境にお店を辞め、今は貯金を切り崩して生活している。働かずに夜遊びを繰り返していた昔に戻ってしまったのだ。
自分もカナコや友達のように、目標や夢がほしい。この先の人生が夜のように真っ暗でも、目指すべき灯りがほしい。
小さい頃は考えるより先に動いていた体が、今やこんなにも重くなるとは。
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