四、身を知る雨に猫が鳴く(了)
僕はあの時、何を思って涙を流したのだろう。
公園を出た僕と夢原さんは、高台へ続く階段を上っていた。読める気がすると言っても、あくまでも気がするだけでやはり確証はなかった。
『取り敢えずマップは風景の形をしているので、似た風景の場所に行きましょう』
僕一人だけだったら、いつまでもマップとにらめっこしていたかもしれない。夢原さんには本当に頭が下がる。
マップをひさしにして階段を上りきると、なるほどマップと似た風景が広がっていた。町並みは同じだが、雑木林か森が広がる部分は伐採され、空き地が広がっていた。
どうでしたか、と夢原さんも横からマップを覗き、実際の風景と見比べた。
「一部は変わってますが、ここで間違いないようですね」
「はい」
僕は夢原さんの横顔を見ながら、あのことを打ち明けるべきか考えた。いや、考えるまでもない。ここで打ち明けなければ後悔する。
夢原さん、と僕が呼びかけたのと、それは同時にやってきた。
「ケンジ?」
背筋を冷たい手で撫でられ、反射的に振り返った。
――父さん?
なぜ父さんが、花束を持ってここにいるのだろう。それを尋ねようとするも、口がうまく動かない。ぱくぱくと、金魚のように開いたり閉じたりする。
父さんも目を見開いて驚いていたが、やがて納得したような声を出した。
「そうか。お前もアヤちゃんの墓参りに来たのか」
『父さん、明日は帰りが遅くなるから。食事は先に済ませてくれ』
帰りが遅いというのは、墓参りのことだったのか。
(でも、どうして?)
父さんはアヤちゃんの死を知らないはずだ。だって僕が、
「タカトシくん。だいじょうぶですよ」
夢原さんのささやきが聞こえた。冷たい背中も温かくなり、今まで感じたことのない安堵を覚えた。
首を後ろに回すと、夢原さんが僕の背中を押して、静かに笑っていた。
「父さん。今まで隠してて、ごめんなさい」
僕は先に階段を下りていく背中に頭を下げた。
「いや、父さんも悪かった。お前を厳しく育てようとして、どこかで間違えてしまったんだ」
父さんは背中を向けたまま言うと、階段を降りきった。僕も階段を降りきり、父さんの隣を歩いた。
「いつから気付いてたの?」
「お前が大泣きして帰ってきた時だ。体中泥だらけで、ただ泣きじゃくるばかりだった」
「よく気がついたね」
「親だから。と言いたいが、本当はお前とアヤちゃんが連れだって遊びにいったことを、母さんから聞いていたんだ」
そっか、と呟いた言葉にため息が混じった。僕は最初から、父さんに分かる嘘をついていたんだ。
「だがその時のお前は、どこで遊んでいたのか、誰と一緒にいたのか、頑なに言わなかった」
「ごめんなさい。僕は――父さんに、怒られるのが怖かったんだ」
父さんから小さく息を飲んだ音が聞こえた後、「そうか……そうだったか」と返した。
頭の中で、さっき父さんが言った言葉が繰り返す。
『お前を厳しく育てようとして、どこかで間違えてしまったんだ』
僕がアヤちゃんのことを打ち明けられなかったのと同じくらい、父さんは僕のことで苦しい思いをしていた。母さんとの離婚も重なって、僕との会話が減り、僕も僕で、父さんを『父さん』と呼べなくなってしまった。
「父さん。事故現場って、あの空き地なんでしょ?」
「ああ」
「タイムカプセルは?」
「アヤちゃんのご家族が持っていると思う」
「そう」
「……中にはアヤちゃんがお前に作った、金メダルが入っていた。裏に、『いつもがんばるけんじへ』と、書かれていたのを覚えている」
僕が立ち止まると、父さんも数歩先で止まり、振り返った。
「父さん。明日改めて墓参りに行こう。その後僕、アヤちゃんの家族に会いにいってくる」
「……一人でか?」
父さんの表情に不安が浮かんだ。あれが事故だったとしても、僕ら家族を恨む気持ちはあるはず。父さんはこれを懸念しているんだ。
「うん――だいじょうぶだよ。僕、父さんの子だもの」
なるべく平気な顔で言いたかったけど、途中で歪んでしまった。情けない顔を隠すように涙をぬぐうと、父さんの手が、僕の頭をぎこちなく、けれど優しく撫でてくれた。
数日後、僕の携帯に夢原さんから着信があった。
「もしもし?」
『お久しぶりです。トポグラフ・マッパー。またの名を、夢原涙子です』
「夢原さん。お久しぶりです」
『その後はどうですか?』
「はい、なんとか。まだぎこちないですが」
『そうですよね。お互いずっと言えなかったんですもの』
「夢原さんは知ってたんですか? 父がアヤちゃんの事故のことを知ってたって」
『いえ。どうしてですか?』
「や、だって」
『タカトシくんがアヤちゃんを引き上げようとしたって聞いて、素直なタカトシくんなら、服の汚れとか気にせずお父さんのところに行くと思いましてね。仲の良いお友達が落ちたんですから、涙で顔がぐちゃぐちゃになってそうですし』
「父もそう言っていました。でも僕を問い正しても、なにも答えてくれなかったと」
『アヤちゃんとの約束を守りたい。でもお父さんに言ったら約束を破ることになるし、なにより、ご両親に黙って危ないところに行ったんですから。小さい頃のタカトシくんはお父さんに怒られることへの恐怖で、一緒に大事なものと忘れてしまった……というところでしょうか?』
「あはは、自分でも恥ずかしいです」
『それが子供です。そして、親は子を思って叱ります』
「『叱る』と『怒る』は違うんですか?」
『全然違いますよ! 「怒る」は自分のために、感情に任せたもの。「叱る」は相手のために、相手に良くなってもらうために注意するものです』
「なるほど」
『あとタカトシくん。あなたはこの先、自分を信じて進まなければいけない場面に何度も遭遇します。その中で、本当の自分をさらけ出すことができなかったり、自分を追い詰めてしまうこともあるかもしれません。でも、本当の自分を知ることや、本当の自分を忘れないことはもっと難しいと思うんです』
「はい」
『今回のことで、あなたは本当の自分を知ることができました。迷ったら、その自分を思い出して、労ってあげてください。だいじょうぶ。タカトシくんならだいじょうぶです』
「ありがとうございます。夢原さんって、アリスみたいですよね。未知の世界に迷い込んでも、自分のペースを崩さないところとか」
『そうですか? では猫を飼わねばなりませんね』
「猫?」
『作品の冒頭に出てくるアリスの猫です。冒頭に出てくるといえば、タカトシくんは白ウサギですね。最初にウチに来た時、時間ばかり気にして、大事なものを蔑ろにして』
「え、気付いてたんですか?」
『私はあなたより多くの人に出会っていますからね。だから意地悪したんです。タカトシくんが大事なものに目がいくように』
「え~?」
『んふふふふ』
「あの……僕、夢原さんにずっと謝りたいことがあるんですけど」
『はい』
「偽名使ってごめんなさい」
『ちゃんと反省していますか?』
「父にこってり絞られました」
『じゃあ私も許します。これからは自分に責任を持って行動してくださいね。タカトシ・ケンジくん』
「分かりました。ありがとうございます。本当に、いろいろと」
『私はただマップを作っただけですよー』
「あ。あの、なんで夢原さんは名乗る時、自分の名前に『またの名を』って付けるんですか?」
『「夢原涙子」は名前じゃなくて、屋号というか、通称みたいなものなんで。あ、年齢はシークレットですからね?』
「あはは。分かりました」
『ふふ。それじゃあ、また』
「ケンジさん! お時間は大丈夫ですか!」
電話が終わるのと同時に、家政婦さんの声が飛んできた。僕は携帯で時間を確認しながら部屋を出た。
「うん、だいじょう――」
階段を降りると、これから出勤する父さんと、折りたたみ傘を持った家政婦さんと鉢合わせた。「おはようございます」と明るく挨拶する家政婦さんとは反対に、父さんは何も言わずに、僕をじっと見つめている。
「今日は夕方から雨が降るそうですから、念のため、折りたたみ傘を持っていってくださいね」
「あ、うん」
傘を受け取ると、家政婦さんは目尻の皺をくしゃっとさせて笑った。父さんは僕と家政婦さんとのやりとりを見届けたように、玄関先で靴を履き始めた。
「と、父さんっ」
僕は口に溜まった唾液を飲み、父さんを呼び止めた。
「父さん、いってらっしゃい!」
「――いってきます」
父さんは振り返ってくれなかったものの、しっかり返事をした後、玄関を出ていった。
夢原さんの件以来、僕は父さんの前で緊張することが少なくなった。父さんは僕が思っていた『怖い人』とは真逆の『不器用な人』で、僕から歩み寄れば、しっかり応えてくれると分かったからだ。
一緒に父さんを見送った家政婦さんは、僕に「ホント。いじらしい方ですね」と言って笑った。
「え?」
「旦那様ですよ。あんなに努めて、ケンジさんに接しようとして。今の旦那様を見たら、いくら勝ち気な奥様でも飛んで帰ってくるかもしれませんね」
「えっと、僕と無理に接してるってこと?」
「いやですねぇ。そうじゃなくて……ふふっ」
家政婦さんは口元を抑えると、キッチンへ戻っていってしまった。『いじらしい』という意味自体は分かるが、それで家政婦さんが笑って、母さんが飛んで帰ってくる意味が分からなかった。
ピンときていない顔でキッチンにやってきた僕に、家政婦さんは「ケンジさんの鈍感さは奥様譲りですね」と言って、僕の朝食の準備を始めた。
(そういえば、夢原さんも電話の終わりに、家政婦さんと同じことを言っていたような……)
『ふふっ、タカトシくんてば鈍感ですね。女の子が十六歳で結婚できるって知らないなんて』
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