幽霊


 あの方は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

今も水底に沈んでいるのだろうか。

あの夜、蛍と共に消えてしまった。

あれから、悲しくて苦しくて、もう歌舞伎若衆女形として舞台に立って歌うことも舞うこともできなくなってしまった。

床から起き上がれなくなり、息をするのがやっと。

鏡にうつる姿は、何だかひどくやつれた。

ふっくらとしていたほおはこけて、やせおとろえている。

目は落ちくぼみ、顔色もくすんでしまった。

まるで幽霊のよう。

二十歳を前にして、歌舞伎若衆の盛りは過ぎてしまった。

こんな顔では舞台に立てない。

でも、いつも贔屓ひいきにしてくれた方広寺近くに店を構える紙屋のご隠居が、あわれんでくれて、醜くいわたしを酔狂にも身請みうけしてくださった。

お話し相手をしたり、時々床のお相手もいたしますが、のんびりとした静かな暮らし。

わたしは幸せなのだと思う。

歌舞伎若衆なんて辞めたいと、いつも思っていた。

芝居小屋で華やかに着飾り客の目線を一身に集めて舞い踊る。

町の娘たちが、わたしの着物や帯の着こなしを真似る。

客は皆、興奮して口々に叫ぶ「殺じおれ」と。

「人殺し」そう言われて悪い気はしなかった。

わたしの歌や舞を見て、老若い男女の客たちが震えていた。

それはそれは愉快だったけれど、今はもう遠い国の出来事のよう。

嫌な客に酒を無理強いされることも無く、体を好きにもてあそばれる事も無く、身も心も大切に扱ってくれる人の元で静かに暮らしている。

衣装代の心配も無い。


「おや、半太夫、一体どうした。わしが部屋に入ってきたことも気づかずに、じっと行灯あんどんに向かって座って何してる」

真っ白な頭の背の丸い老人が不思議そうに立ち尽くしていた。


「ご隠居様、からかわないでくださいな。鏡にうつったおのれの顔を見ているだけです」

「何を言う。これは行灯や。紙が張ってある四角い行灯。この部屋に鏡はない」

「行灯ではありませぬ。だって、わたしの顔がうつっておりますもの」

「行灯や。行灯の中に炎の中に何を見ている。これはいかん。さては、ずっとこの屋敷に閉じこもっていて、気が滅入っておかしくなったんか。気晴らしに二人で旅でも行こか」

「はい、お供いたします」

半太夫は寂しげにうなづき微笑んだ。


 

 旅先の伏見の宿の近くには池があった。

池といっても湖のように広く、森の木々をうつす澄んだ水をたたえている。

ご隠居は部屋で昼寝をしている。

半太夫は池にうつる己の姿を見ていた。


「おや、水面に若い男がうつっている。うつっているのは、わたしではない。ため息が出るほど美しい顔のあなたは一体どなた様ですか。見覚えがあります。もしや、恋蛍のお坊様ですか。ここにいらしたのですね。あの川と、この池が地の底で繋がっていたとは驚きました。京の都は不思議ですね。ずっとお会いしたかったです。水面にうつっているのは、わたしの姿だとばかり思っていました。でも違った。わたしは、あなた様。あなた様はわたし。二人で一人、いつも一緒なのでございますね。でもなぜ水の中で生きることができるのですか。わたしもそちらへ、今すぐ参ります。待っていてくださいませね」

水鳥が跳ねるような、軽い水音がした。

半太夫は深い池に身を投じる。


 だが、いつも半太夫を見張っている下男が慌てて駆け寄り、水面に漂う長い黒髪をすく手繰たぐり寄せて、池からその身を引きずり出した。

半太夫はたくさんの水と緑の藻を吐く。




 


 












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