恋蛍


「おまえのいいところは、尻だけや」


四条の色宿、大鶴屋の座敷に歌舞伎若衆女形の藤村半太夫がいる。

酔客が長い銀製の煙管きせるの灰を、瀟洒しょうしゃ螺鈿らでん箱型煙草盆はこがたたばこぼんに、こんこんと大きな音をたてて落とした。

半太夫に寄り添い肩を抱く。

酒臭い息が半太夫の頬にり、柔らかなおくれ毛を揺らす。


 薄幸はっこうな姫を演じさせれば、見物客は皆むせび泣く。

客の涙で、芝居小屋の地べたに水たまりが出来るほど。

美しいだけの女形ではない。

舞も歌も素晴らしい。

客は口々に叫ぶ「殺じおれ」と。

いっそのこと、殺してくれ。

殺されたいほど愛しい役者という意味や。

それなのに、この客はずいぶんな物言い。

いくら金を積んでいる大尽客だいじんきゃくか知らないが、言っていいことと悪いことがある。

藤村半太夫を、そこいらの遊女と一緒にするとは許せへん。

頬が赤く染まっているのは、あの大尽客への怒りか、はたまた酒の酔いか。

あまり酒が強くないと見える。

べったりとひっつかれても、尻を撫でられても嫌な顔ひとつせずに、口元に笑みを浮かべている。

まるで舞台のつづきのように、今宵の宴の半太夫も薄幸な姫に見える。

夏虫色の絹の振袖には大きな丸卍まるまんじ紋と藤の花。

酌をする指先の動きまで心が行きとどき優雅や。

きっと、あの客の顔は小判に見えてるんやろうな。

わしもそうや、つまり半太夫とわしは同類や。

おや、ひょっとして、わしに惚れてるんか。

さっきから、わしのほうばかり色っぽい目で見てるさかい、間違いない。

どこか寂しげで涼しげな、川辺の風に揺られる緑の柳。

抱き寄せてあの艶やかな黒髪に触りたいし匂い嗅ぎたい。

そしたら、思いきりにらみつけて欲しい。

半太夫はわしの目の奥の情欲の底なし沼にあきれて、きっと妖しく笑う。

「殺じおれ」とわしは叫ぶ。

そんで、あの白魚のような指がすっと長く伸びてわしの首をしめあげるんや。

ぞくぞくするわ。


 それにしても半太夫という女形と出会い、こうして同じ座敷で遊べるとは良き世に生まれたもんや。

京の都へ住んでて良かった。

この四条の色町には三十一人の歌舞伎若衆がいるが、揚げ代は皆同じ。

どんなに借金したって若衆買いをしないのは、もったいない話しや。

そういや、浮世草子「好色一代男」いうの書いた坊主頭の井原西鶴っておっさんが「それはそれは、半太夫はとこ上手で、もう忘れらない、命を取られるようだった」とか言いくさってたわ。

うらやましい腹立つ

わしはもう三十路みそじや。

よしゃ、しがない太鼓持ちやけど、一生懸命稼いで金貯めていつか半太夫を一晩買うわ。



「おい大吉、半太夫に見とれて、にやにやしてないで、何かおもろいことをしろ」

恰幅かっぷくのいい四十絡しじゅうがらみの裕福な商家の主人らしい大尽客が怒鳴どなる。


「へえ、何しましょ。先ほどの捕り物ごっこ遊びで、皆様にひもで固く縛られて、散々蹴飛ばされて腰痛くしまして、踊りは無理でございますよ。小唄でも歌いましょか」

あわてて、ぐい飲みの酒を一気に飲み干すと畳の隅に放り、両手をついて額を畳にこすりつけてへつらう。


「阿呆言うな。かえるの声でも聞いてたほうがましや」

「蛙のものまねは十八番でして、ほらこの通り」


そのまま腹ばいになり、潰れた蛙のように手足をばたつかせると、ぐわぐわぐわと声を上げる。


「はははは、随分と腹の出っぱった大きな蛙だな。まるで、猟師に鉄砲で撃たれて死にかけている熊みたいや。まあええ、ほら、えさをやる」

大尽客が膳に残っていた油揚げの煮物を投げた。

必死でそれを四つんいのまま口で受けようとするが、びたりと額に当たって汁が飛び散り、顔中を濡らして畳に落ちた。

その様子を見ていた他の三人の客は、げらげらと腹をかかえて笑う。


「おおきに、これは美味しいこん布だしで煮こんだ、こんいなりさんどすな」

犬のように舌なめずりして、上目使いで様子を伺った。

ちょろいもんや、こいつら皆ただのあほやし、かんたんにすぐ笑ってくれるわ。

おや、半太夫だけ笑ってない。

何でや、何見とる。

おもろいわしを見て欲しい。


 

 天井てんじょう近くに薄緑がかった、ちらちらと燃える小さな炎が浮かんでいる。

それは一匹、また一匹と増えていくほたるの光だった。

蛍は行灯あんどんあかりの行き届かない、ほの暗い天井で小さな光を放つ。

やがて十匹ほどの蛍が互いに挨拶を交わすように、光の瞬きを繰り返す。

いつしか珍客に心を奪われた半太夫は、顔を桜色に蒸気させて見上げていたが、肩に重くしなだれかかる大尽客を押しのけて、すっくと立ち上がった。

腰まである緑の黒髪と藤の花の振り袖が揺れる。


「ああ、蛍は、なんて美しいのでしょう」

半太夫は透き通るような声で語り出す。

「蛍も同じ身の上……」と浄瑠璃の平安城の道行きか。


大吉は四つんばいになったまま聞き惚れていた。

そのすらりとした立ち姿を、目玉が転がり落ちるのではないかと思うほど、上目使いで見つめている。


「ふん、こんな町なかに蛍が飛ぶとは。格子窓の隙間から入ってくるのも妙や。きっと蛍も酒を飲みたいんやな。おまえの仲間か。尻を光らせ男をたぶらかす。売若衆うりわかしゅうのおまえにそっくりな悪い虫や。叩き落してやるわ」

懐から取り出した手ぬぐいを振り回そうと、大尽客が立ち上がる。


「お静かに。無粋ぶすいなことはおやめください。蛍のおかげで、今宵の宴が風流になりました。蛍の光は燃える恋の炎。たしかに、蛍はわたしかもしれまへん」

振り向き、舞台さながらの凄みのある流し目を送ると、大尽は魂を抜かれたように、へなへなと座りこんでしまった。


 

 しばらく、うっとり蛍の舞を見つめていた半太夫は、我に帰って縁側に行く。

「もしや」と言いながら、着物のすそ白足袋しらたびが土で汚れるのもおかまいなしで、草履ぞうりも履かずに狭い庭へ飛び出し、辺りを見回す。

月明かりを避けるように、木陰に人が隠れていた。

それは、会いたかった人。

貧しい身なりの若い僧侶だった。


「やはり、あなた様でしたか。蛍を連れてきてくださいまして、ありがとうございます」

女形らしく、なよなよと優しげに近づく。


「こんばんは。見つかってしまいましたね。芝居小屋の前でお会いした、あなたがずっと忘れられず、喜んでいただきたくて、ついこのような事をしてしまいました」

にこりと笑う。

半太夫がその腕に触れようと近づくと、僧侶は恥ずかしそうに後ずさりした。


「あれれ、へえ、お坊様が一匹ずつ薄紙に包んだ蛍を、墨染すみぞめの袖に入れて持ってきて、部屋に放したんですか。蛍捕りの名人や。十匹はいましたかね。ずいぶんと粋なことされますね。さては半太夫様のいい人ですか。蛍と一緒に恋心を伝えに来なさったに違いない。これは熱い恋蛍や」


月明かりに照らされた二人の様子を縁側から亀のように首を伸ばして見ていた大吉が、素っ頓狂とんきょうな大声で言うので、酔った大尽客と連れの三人まで、下駄げたを引っかけて庭へぞろぞろと出ようとする。


「半太夫の恋人やて。一体誰や、断りもなしに勝手に庭に忍び込むとは、どういうことや。姿を見せろ」

大尽客が庭木へ向かって大声で叫ぶ。


「人が大勢来ますね。それでは半太夫様、失礼します。いづれまた」

若い僧侶は慌てて暗い庭の隅へ走り去る。


「お待ちください、次はいつ蛍の舞を見せてくださいますか」

半太夫は涙声で問うが、その声は庭の横の激しく流れる鴨川の音にかき消された。

低い石垣で宿の庭は囲まれている。

大きな水溜りを避けようとして、僧侶が慌てて石垣に飛び乗った途端、それは崩れた。

前日の大雨で、いつもより水かさが増している暗い地獄のような川にどぼんと低い水音を立て、僧侶は落ちてしまった。


嗚呼ああ、流されてまう。今、お助けします」

そう言って半太夫は素早く帯をとき、端を持って川に投げ入れたがとどかない。

振り袖と襦袢じゅばんを脱ぎ捨て、肌襦袢姿になり川へ飛び込もうとする。


「やめろや、半太夫様まで死んでまう」

慌てて縁側から飛び出した大吉は、今まさに川へ飛び込もうとする半太夫の細い柳腰に抱きつき、地べたに押さえ込んだ。


「いやや、はなして」

二人は転げ回った。

女の姿をしていても、暴れる力の強さはまぎれもない若い男。

こんな形で半太夫を抱くことになるとは。


 驚いた客たちが提灯ちょうちん川面かわもを照らす。

すると、浮き沈みを繰り返す僧侶の姿があったが、黒い大蛇だいじゃが荒ぶるような様相で、恐ろしいほど早く川は流れて行く。

その哀れな姿はすぐに闇に飲み込まれ見えなくなった。

髪を振り乱し、薄い胸と肩をあらわにした半太夫が狂ったように泣き叫ぶ声だけが残る。


















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