野の花いちりん夢枕

オボロツキーヨ

歌舞伎若衆女形の日記

 とてもうれしいことがありました。

若いお坊様が芝居小屋の裏口に立っていらした。

長い手足のすらりとした姿の良い方。

目が合ったとき、澄んだ湖水のような瞳に、何やら魂がすい込まれたような気さえしました。

人に見つめられたり、笑いかけられたり、追いかけられたりするのは慣れていますが、体中が熱くほてり血潮ちしおがさわいでしまい、思い出すといてもたってもいられませぬ。

着物のすそをからげて、はだしで夜道をどこまでも叫びながらけてしまいそうです。

この世にあのような美しい方がいらっしゃるとは。

目元口元におだやかな笑みを浮かべていらした。

包みこまれるような、優しい笑顔で見つめてくださった。

あの品の良い笑顔は何と申し上げてよいのやら。

どこか、なつかしく温かい気持ちです。

もし、あの方に抱かれたなら、心地ここち好くて身も心もとけてしまうにちがいありません。

 小屋の裏口には、いつも大ぜいの老若男女が押しよせて来て、袖を引っぱられたり、髪をさわったり、あつかましくも羽織はおりぬがせて、うばおうとするやからまでいて、芝居小屋へ入るのも大さわぎ。

いつも草履取ぞうりとりの佐吉さきち采配さいはいで何とかなんをのがれているのです。

あの方は、少しはなれた場所に静かに立っていて、あの方のまわりにだけ、さわやかな春風が吹いているような、野に咲く青い花のようなたたずまいでした。

でも悲しいことに、あの方に見ていただきたくていにしえの姫を演じ舞い歌ったというのに、どちらのお席にいらしたのやら、お姿を見つけられなかったのでございます。

もしや、質素な身なりでほとけに仕えるあの方は、木戸銭きどせんをお持ちでなかったのでしょうか。

芝居小屋の外でかべに耳をよせていたのかもしれませぬ。

女形として恋する娘心と悲しい別れを、いつもよりも上手うまく舞うことができました。

親方には、たいそう今日の舞台は良かったとほめられて、それもこれもあの方のおかげ。

お名前も存じ上げませぬが、どうか舞台を見に来てくださいますように。

また、お会いできますように。


 

 

 ここは、恐ろしい無間地獄むげんじごく

昼は舞台、夜は大金を積んで派手に遊んでくれる大尽だいじん客の相手。

歌舞伎若衆女形が贔屓ひいきのお大尽に買われるのは仕方がないけれど、昨夜はほんとうに、つかれはてた。

のんびりできると思っていたのに。

五人組の伊勢講の田舎者たちが茶屋へやって来た。

大して金も持っていないくせに、一度でいいから若衆遊びがしたいという。

たまたま、昨夜は大尽客からの声がかからなかった。

奴ら全員で遊ぶほどの金は持っていない。

だから、くじ引きで当たった者の相手をすることになった。

その中には、ちょっと小ぎれいな兄さんもいたのに、よりによって一番汚らしいおやじが、くじを引き当てた。

あかのつまった伸びた爪で体をさわられて寒気がした。

吐く息も臭い。

爪が食いこむほど、強く肩をつかまれて見つめられた時には、思わず顔をそむけて息を止めた。

あまりの臭さに同じ部屋に居るのも嫌だった。

客の身も心もほぐすのが仕事だが、昨夜はお手上げ。

風流心のかけらも無いおやじで、気のきいた言葉のやり取りも無いままに着物を脱ぎだして、皮足袋かわたびで蒸れた臭い足を投げ出す。

そして股引ももひきを脱いだと思ったら、いきなりふんどしを解き、飛びかかってきて乱暴に押したおされた。

まったく流儀を知らないおやじ。

髪を引っぱられて、あっちこっちをいじくられて、汚い、いちもつ押し付けられて気分が悪いやら情けないやら。

仕方ないから、されるがままになっていたが、最後は得意の素股すまたであの世へ送ってやった。

鶏が絞め殺されるような叫び声を上げた後、おやじは満足して高いびきで眠りこけていた。

金を稼ぐのはつかれる。


 華やかに着かざり舞台に立っているから、皆にあこがれられて、ちやほやされる。

家では佐吉が身のまわりの世話を何でもしてくれる。

肩や腰をもんでくれる。

親方はいつも、ねぎらいのことばをかけてくれる。

まわりの皆におだてられて大事にされていると思う。

でも、昼は稽古けいこに舞台、夜は客を取らされる。

昼も夜も体を張って働いてる。

もうかるのは親方ばかり、あほらしいやら情けないやら悲しいやら。

客に気を使って、夜もぐっすり寝れない。

初めて会った知らない男と一つの布団で足をからめて、朝まで寝るなんて因果な商売さ。

でも親方には逆らえない。

金さえ積まれれば、どんな男にでも抱かれる。

しょせん遊女のような身。

稼いだ金は高い衣装代に消えていくばかり。

誰よりも華やかに風流に着飾らなければ、歌舞伎若衆はつとまらない。

もういやや、こんな暮らし。

ここは無間地獄むげんじごくや。


 あのお坊様の姿を見かけないのは、さびしい。

好いてくれていると思ったのに、ただの旅人だったのか。

いつも目をつぶって、客に身をまかせながら、あの方に抱かれているのだとおのれに言い聞かせているのに。





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