小さき勇者の行進

 マルコが透を救いに引き返す数分前のこと。

 彼は校門で立ち止まり、透を待っていた。


『サンマで落ち合う約束じゃなかった?』

「そう言われてますが透さんが心配です。彼女の足ならとっくに僕を追い抜かしてもいいはずです」


 どこまでも人の言うことを聞く少年ではなくなっていた。自分で判断し行動するようになっていた。


「お姉ちゃんもそう思いませんか?」

『追いつけないわ、今の彼女なら亀にも追いつけないわ』

「それってどういう意味ですか?」

『足を挫いているようだったわ。歩く時に足首を庇っていたのがちらっと見えたわ』

「な、なんでそれを早く言ってくれないんですか!」

『聞かれなかったからよ。透も隠していたようだし』

「お姉ちゃんは透さんが死んでもいいの!?」

『マルコの命が助かるなら例え恩人であろうとトカゲの尻尾になってもらうわ』

「なんで助けようと考えないのさ!」

『考えたわ……必死に考えたけど何も出来ないのよ。今の私じゃ万年筆一つ持つのがやっとの念動力者なのだか』


 カレンが言い切る前にぱちんとマルコは自分の右耳を叩いた。


「なんで諦めるのさ! 諦めるなんてお姉ちゃんらしくないよ!」

『じゃあどうしろっていうの? マルコが戦うのって言うの?』

「……あぁ、そうだよ、戦ってみせる」


 マルコの足は動き出した。校門とは逆方向にゆっくりと動き出した。


『……マルコ、あなたは本気なの』

「止めないで、お姉ちゃん。お姉ちゃんもわかるでしょう? 大切な人を目の前で失うのがどれだけ辛くて苦しいか」


 マルコの言うことは痛いほどわかった。弟を失いかけた時のことを思い出す。

 だからこそ、カレンは否定する。二度と同じ思いをしないためにも否定する。


『無理よ、非力な子供一人に何ができるの』

「僕は子供でもないし非力でもないし一人でもない」

『……』


 屁理屈だったが、カレンを黙らせるには充分だった。


「僕はあの人を助けたい。僕達家族を引き合わせてくれたあの人を恩義関係なしに助けたい。不真面目そうで真面目で、素っ気なさそうで人懐っこくて、無鉄砲なようで実は臆病で……僕の……僕の好きな人だから!!」


 助けに行くと同時にそれはもう一人の好きな人を危険が及ぶ。今の彼の体は彼だけの所有物ではない。同時にカレンの命も宿っている。それが気がかりだった。しかし気がかりなのは透の命も同じだった。自分と姉の命と彼女の命で天秤にかけたら、透の命に傾いていた。


『……そう、それなら、ビクビク足を震わせてちゃダメよ。右目からも見てもはっきりとわかるわよ』


 カレンにも似た経験がある。観衆がひしめき合うステージに立つ前は全身を震わせていたものだった。その時と歳の変わらない弟が自分の時以上の過酷な状況に立たされてなお、前に歩んでいる。いつの間にこんなに立派になったのだろうか、とマルコの成長にカレンは寂しくも嬉しくも思った。文字通り、ずっと側にいたのに姉を失った悲しみで夜も眠れなくなった弟の成長に気付けなかったミスを恥じた。


「……止めないんですか」


 てっきり危険という理由で全力で止められるとばかり思っていた。


『止めないわ。あなたが決めたんでしょ? だったら姉である私はそれを全力でサポートするわ。それにさっきはああ言ったけど透に死んでほしくないのは私も一緒よ』

「……ありがとう、お姉ちゃん」

『お礼は後よ、今は急ぎなさい。走りながら作戦を説明するわ』

「ありがとう! お姉ちゃん!」


 姉弟は真の一心同体となり二人三脚で駆け出す。

!PB



# 決着と決別


「マルコ! 何やってんだ、早く逃げろ!」


 透の全力の制止にマルコは翠色の左目でお茶目にウィンクして返す。


「大丈夫です、透さん。僕を信頼して下さい」


 マルコは憤怒で肩をわなわなと震わせていた物部を見据える。


「あなた……嫁入り前の大事な体を傷つけてくれたのよ、簡単に死ねるとは思わないでよね」


 激高した大人を初めて目の前にし、マルコは震え上がりそうになるも、


「あなたこそ透さんに手を出してただで済むとは思わないで下さい。それに手を怪我をしてるのはあなただけじゃありません」


 マルコの手から何枚かの割れたガラスがこぼれ落ちた。


「あらあらあらあら。可愛い顔してガラスを割る不良だったのね、本当に手加減はいらなそうね」

「元から僕は手加減するつもりはありません!」


 マルコはガラスを手に取り物部に目掛けて投げる。正確無比のコントロールでフリスビーのように回転しながら、ギロチンのように首を落としにかかる。


「忍者ごっこからしら」


 物部が鼻先を下に向けるとガラスの手裏剣は床に叩き付けられ割れてしまった。パワーは覆しようがない。圧倒的に物部が上だった。

 散らばった破片を物部はヒールで何度も何度も踏んで、さらに細かく割る。この行為はゾンビが再び襲いかからないよう無力化したかったわけではなく、地面に出来た霜を何となく踏み潰してしまう破壊衝動によるもの。

 両者共に、同じ念動力者だったがそれぞれ違う長所と短所を持っていた。

 マルコは一度手に触れていないと物体を上手くコントロールできないが、その条件さえクリアしてしまえば広い射程で精密なコントロールが可能になる。一方の物部は射程は短く精密さにかけるが、それを補うようにパワーが強力だった。車を傾かせるほどのパワーは類まれだ。また一定空間内なら手を触れずとも物体の大まかなコントロールができる。

 戦局は圧倒的にマルコが不利に思われる。


「ごっこではありません! 最初から本気です!」


 今度はガラスを二枚同時、真正面に投げる。一枚は物部のテリトリーに侵入、一枚は届く前に床に突き刺さる。

 物部は飛んできた一枚を再び念動力で叩き落とす。


「もうおしまいかしら?」


 マルコは何も言わず、大きめのガラスの破片を掴み、アンダースローで投げる。大きめのガラスが今度は天井すれすれを飛んでから急降下する。


「バカの一つ覚えね」


 これも同様に念動力で叩き落とし、足元で割れてしまった。また同様に踏みつけようし、ふと視線を下げるとタイツが破け、膝から血が流れているのが見えた。手と比べようにならないほど大量の血が流れている。さらに足元の床にはトマトケチャップがたっぷり乗ったピザのようになったガラスが突き刺さっていた。痛みは遅れてやってくる。


「あああああああ! また傷つけてくれたわねえええええええええええええ」


 マルコは雪合戦での必勝法を取っていた。一発目は囮で高く上げ、二発目で敵を狙う。

 アンダースローで投げたのは一枚ではない。もう一枚、小さめのガラスも掴んで同時に投げていた。そちらは一枚目とは真逆に地面すれすれを低空飛行し、死角の足元を狙った。

 今は夜であり、室内に照明はなく暗闇に近い。薄く透明な飛来物の捕捉は困難極まる。

 この作戦を考えたのはカレンだった。彼女はマルコの長所と短所をしっかりと把握している上、物部の能力の特徴も瞬時に見抜いていた。カレンはアメリカの最先端の超能力研究開発の前線に籍を置いていたために念動力だけでなく、他の能力についても詳しかった。それに加え、彼女は念動力の本流であり、始祖。何の向上心も持たない物部にはない、超能力に対する探究心、老獪さ、超能力の女王と呼ばれるだけの素質をカレン・リードは持っている。


「このガキが……!」


 年端も行かない子供が成人女性を圧倒している。覆せない実力差が二人にあった。その事実を物部は受け容れられなかった。未だに彼女は自分がパワーで優っているはずなのにどうして自分が傷だらけになっているのか理解できずに苛立っていた。

 イライラが最高潮に達しそうな時に、マルコが口を開く。


「そろそろ降参したらどうですか。あなたはまだ人を殺していない。やり直せるはずです」


 この降伏勧告はカレンの作戦にない、マルコ独自に考えたものだった。カレンの作戦通りに行くと戦意が失うまで連続のアウトレンジからの手裏剣攻撃という非道な内容だった。手の次は足、足の次は耳、耳の次は目といった調子にエスカレートしていく。女性を甚振る趣向は紳士のマルコにはなかった。

 しかしその優しさが仇となる。


「あんまりガキが……調子乗るんじゃないわよおおおお」


 物部はナイフをマルコに投げつけた。それは馬詰の兄から馬詰に、透に、最後に物部の手に渡ってきたナイフだった。思わぬ反撃にマルコは必要以上に回避動作を取ってしまい、隙ができてしまう。


「調子に乗ったツケを払ってもらうわよ!」


 物部は身を翻し、透の元へ向かう。悪役がよく取る、人質を作るつもりだった。


「ところがどっこい! 私はもう動けるぞ!」


 しかし透は息を潜め、すでに拘束から解放されていた。ナイフを没収され、逃げる手立てはないはずだったのに。


「なっ……!」


 透の手には血糊のついたガラスを持っていた。それは透の血ではなく、物部の血だった。そしてそのガラスは最初に物部の手を傷つけたガラスだった。

 マルコと物部が派手に超能力バトルを繰り広げている中でもう一つの作戦が裏で始まっていた。透はマルコが目のウィンクをさせた時から思考の透視で時間稼ぐから逃げるようにというメッセージを受け取っていた。


「くらえ! 馬詰の仇!」


 鋭利な刃物をちらつかされ、物部は反射的に優先的に回避行動を取ってしまう。本来、彼女の実力なら再び念動力で透を封じ込められたが、それが咄嗟に出来なかった。彼女は普段から超能力を隠して生活しているため、このような咄嗟の場面では非超能力者と何ら変わらない行動を起こしてしまう。

 かろうじて腕のガードが間に合い剣戟を待つ。

 しかし透は斬りかからず、その横をダッシュで逃げる。


(余計なことはしないで退却退却! それに馬詰の仇を討つ義理はない!)


 見事なフェイントが決まる。

 自分の身の程をよく弁え実行していた。透視能力者が念動力者に勝てるわけがない、と冷静に判断した。以前の調子に乗って危険な目にあったのが記憶に新しい。

 物部はまだ人質になる透を諦めない。とにかく足止めを考え、一つの方法を閃いた。それは自分を窮地に追い込むことにもなるが後先考えていれなかった。


「こうなったら……!」


 物部は素早くマッチに火を点け、油の海に投げ込んだ。炎の包囲網は一瞬にして出来上がった。


「正気かよ……!?」


 透の目の前に火柱が立ちはだかり、逃げ道を塞ぐ。一瞬飛ぶのを躊躇ったばかりに透の肩に物部の手が届く。


「捕まえたわよ! 生徒が先生から逃げられるわけないじゃない!!」


 しかし一度は掴んだ肩をまた離してしまう。物部の意志ではない。


「透さんから離れろおおおおおおおお!」


 火の壁の向こうからマルコが飛び込み、渾身の体当たりを物部にかましたのだ。

 地面に物部とマルコが倒れる。倒れた物部の髪先が炎に触れてチリリと音を立てて焦げる。


「ああああ髪がああああああ!」


 気を取られている内にマルコは逃げようとするが、


「にがすかあああああくそがきいいいいいい」


 物部の足が器用にマルコの足に絡まる。持ちこたえようとするが怪力で引き倒され、あっという間にマウント体勢になってしまう。


「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すころおおおおおおおす」


 物部はマルコの引っ張れば取れてしまいそうな華奢な首を両手で雑巾のように絞る。


「マルコをはなせえええええ!」


 そこに透は叫びながら今度こそ本気でガラスで斬りかかるも、


「お前は寝ていろ! 糞が!」


 念動力で床に叩き付けられ、金縛り状態になってしまう。ガラスは手元から離れ、投げることも叶わない。


「まただ……また私は無力なのかよ……!」


 もがいても、もがいても指は動かず、ガラスに届かなかった。

 その惨めな姿を見て物部は鼻で笑う。計画は狂いに狂い、一度は不利に立たされるもやはり最後に勝つのは自分だと確信した。


「そこでお友達が死ぬのを見てなさい……!」


 首を絞める腕をさらに力を込めるが抵抗は消えなかった。マルコは何とか自分の首と物部の指の隙間に自分の手を滑り込ませ、念動力と筋力で辛うじて隙間を保っていた。物部の血は今も流れ出ており、滑って思うように手が掴めず抜け出せなかった。


「へえ、念動力はそんな使い方ができるのね……姑息ね。いつまで持つかしら?」


 マルコは怯まず、物部を睨み返した。


「僕は諦めません……! 必ず三人で生きて帰ります!」

「三人? 違うわね、生き残るのは一人! そしてそれを許されるのは女王様である私のみよ!」

『いいえ、三人で合ってるわ』


 聞き覚えのない若い女性の玲瓏な声がした。


「誰……!?」


 物部は周囲を見渡すも自分以外にいるのは死にかけのチビと死にかけの雑魚のみだった。


『それとあなたが女王ですって? 笑えないわね。ユーカリの木を一本独占しただけの可哀想なコアラにしか見えないわ』

「……生意気な口ね。うんこの腹話術?」

『あなたは女王に名乗るに値しないわ。真の女王はレンジ、コントロール、パワーその他諸々どれも上回っている。他にも特技があったわ。例えばこんな風に……』


 物部の瞳には透が落としたガラスが映っていた。カレンはそれを見逃さなかった。


『……鏡越しに念動力を使えるのよ』


 血糊のついたガラスがゾンビのように飛び上がった。物部の眼鏡のフレームを器用にすり抜けて、鋭利な先端が瞳を深く抉った。


「---!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 声にならない絶叫が廊下中に広がる。自分で眼鏡を弾き飛ばし、両手で抉らてた目を押さえつける。それで痛みは和らいだりはしないが、反射的にそうしてしまう。


「痛いたいたいいたいいたいたいしぬしぬしぬ!!!!」

『不快な声ね、ラーメンを啜る音以下』


 物部の集中力が切れて透は念動力より解放されたが、漬物石のように物部はマルコの上をどかなかった。


「よくもやってくれたわねえええ!!!!!」


 再び首を掴みかかろうとしたが、その手は首に届かなかった。

 両腕が開放されたマルコが掴まれる前に物部の両袖を捉えていた。


「僕が母からは学んだのは日本語だけじゃありません!」


 体重移動を逆手に取り、さらに念動力が加え、一つの技が完成する。


「巴投げだあああああああああ!」


 一本が華麗に決まる。

 従来の巴投げと違い、物部の体ははるか上空へ飛んで行く。放物線を描きながらの不時着地点は幸いにも炎のない中洲だった。しかしそれは四方八方を囲む檻でもあった。火炎は念動力でもどうしようもないまでに高く成長し広がり、皮肉にも作り主の逃げ道を遮っていた。


『悪運尽きたようね。さあ私たちはお家に帰りましょう』

「カレンの言うとおりだ、いつ崩れ落ちるかわからない。ここを一刻も早く立ち去るべきだ」


 カレンと透の意見が珍しく合致し早々に立ち去ろうとするが、


「待って、いや待ってください!」


 物部は火の向こうで深々と土下座をしていた。


「さっきまでのことは全部謝るから! お願いだから助けて! こんなところで死にたくない!」


 その涙の訴えにカレンと透は耳を貸さなかったが、マルコは心を揺らされた。男ゆえに異性の涙には弱かった。


「……助けましょう」


 マルコの決めたことにいちいち口を出さない透もこの時ばかりはその提案を否定した。


「何言ってるんだ、さっきまであいつに殺されかけたんだぞ」

「それでも……見殺しにはできません、したくありません」


 マルコは涙ながら訴えかけていた。純粋な気持ちで今まであったことを全てを水に流すつもりで助けようとしていた。

 否定したものの透も同じ気持ちではあった。侮蔑され、嘲弄され、嘲笑されたというのに、出来るなら助けたいという気持ちもある。自分はひねくれ者と自評していたが底なしのお人好しな面があったとわかって少し驚く。


「わかったよ、マルコ。私も手伝う」

『ちょっと本気で言ってるの』

「多数決で決まったのさ。責任なら私が取る」

『責任なんて言葉軽々しく使うんじゃないわよ』


 カレンのつぶやきが気になったが今はともかく、人命救助を優先する。


「にしてもどうやって助けるか……」


 透は周囲を見渡す。視界にはほとんど炎しか映っていない。炎は壁から天井にまで勢力を広めていた。使えそうな道具の類は床に落ちていない。それに天井から不気味な音がする。


「白衣の中にロープがあるからそれで先生を引っ張って欲しいの」

「それ、私を縛ったやつの余りですか?」

「それについては謝ります。ごめんなさい。だけど耐火性があるから多少火に触れても大丈夫なはず」

「それなら僕が手伝います」


 マルコが積極的に救助活動に参加する。炎に囲まれても変わらない英傑に思わず笑みを浮かべてしまう。

 それは物部万里も同じだった。先ほどの激高ぶりが嘘のように、今の彼女の表情は穏やかそのものだった。ノロケ話している時と変わらない笑顔だった。

!PB

 +口の端が頬まで吊り上がった点以外は+。


 透はその表情の微々たる差から肌を晒した背中に氷山を押し当てられたように震え上がるも、瞬時に思考の透視を開始した。


(あいつの狙いはなんだ!? 何をしようとしてる!? くそっ、間に合え……!!!)


 物部に対し成功した試しはない。

 今日のコンディションは絶不調だ。

 しかし、それはやらなくてもいい理由にはならない。

 非力であろうと、無力であろうと、何かを守るためには全力を尽くさなくてはいけない。

 透の直感は結果として的中していた。悪意の真意を見抜き、必死に叫びながら走り出した。


「マルコ!!! 今すぐそこから離れろおおおおお!!!!!」

「……え?」


 愛らしい表情しながらマルコは振り返る。その頭上には天井が迫り来ていた。

 罠だった。物部万里が咄嗟に考えた罠だった。天井の一部が崩れかけていたことを発見した物部は一矢報いようと道連れにしようとおびき寄せ、念動力で力任せに天井を落とした。

 しかしその狡猾な罠は失敗に終わった。

 狙われていたマルコは今、透の胸の中に顔を埋めていた。すんでのところで手を引かれ、落下してきた天井を回避していた。


「生きてる……?」


 透の問いかけに、


「大丈夫ですよ。心臓が動いてます」


 マルコの手はちゃっかり透の胸に置いてあった。熱い鼓動が伝わってくる。


「私じゃなくてマルコとカレンさんの命……まあいいや、元気そうだ」


 起き上がると天井に大きな穴が空き、夜空が見えた。


『ロマンチックな感傷には浸っていられないわよ』

「わかってる、わかってますって」


 瞳の先をいつまでも見ていたい綺麗なものから目を背けたい醜悪なものに移す。


「よくも……よくも……!


 物部が目を覆った手の影から痛みからか怒りからか、とにかく顔中の筋肉を引き攣った表情が伺える。背中の肉を胸に持ってくるように、全身のしわを顔に集めたようだ。 


「邪魔してくれたわね……先生は頭を下げたのよ、頭を下げてまで殺そうとしたのよ……」


 それを見て、透は脱力する。


「……もうこりごりだ。私にはどうしようもない」

「……」


 マルコの返事はなかった。

 彼の手を引き、その場から立ち去る。


「どこに行く、うんこども!!! こっちに来なさい!!!! 逃げるなんて許さないわよ!!!!」


 怨嗟に満ちた声はガラス片よりも鋭利で透の背中を突き刺し、心臓を貫通した。しかし足は止まらなかった。

 無事に旧校舎を脱出したと同時に寿命が尽きたのか、建物全体が一方向に傾き始めた。傾いたと思った次の瞬間には轟音を立てて旧校舎は崩れていった。火の粉が天高く舞い上がり、夜空の星と並ぶ。

 疲れ果て、怒りも名残も凝りもないのに、通りすがりの人間が火事現場を撮影するかのように、誰に共有するわけでもないのに、透は旧校舎の瓦礫の中を透視しようとしていた。


『透、絶対に透視しちゃダメよ。瞼の裏がこびりつくわ』


 それをカレンは止めた。


「……さすがカレンさん、何でもお見通しか」


 別に断末魔に興味があったわけじゃない、せめて誰かが彼女の最期を見届けようと自己満足なお節介をしたかっただけだった。


「変な話だ……見捨てたはずなのに……」


 遠くから消防車か、救急車か、はたまたパトカーのサイレンが聞こえ、三人は早々にその場を後にした。

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