大きくなる足音

 夕暮れ時、透は学校の校門前に戻っていた。ビラ配りをしているであろうマルコが気になり迎えに行くためだった。しかしその姿はなく、校門はワニのようにぽっかりと開いているだけだった。部活の生徒も教師も見当たらない。早退した身でわからないが、今朝の交通事故の一件で暗くなる前に帰るよう一斉下校したのだろうか。彼との連絡も取れていない。

 学校敷地内に中に入ろうとしたが、


「あら、里見透さん。忘れ物かしら?」


 またも突如、物部万理が現れた。今日もダサい車に乗っていて、車の中から呼ばれた。


「あ、はいちょっと、マルコを忘れてしまいましてね」


 ノロケ話を始められる前に退散したかったがふと気になった点があり、つい訊ねてみる。


「あれ、先生。眼鏡どうされたんですか」


 よく見るとフレームがどこか歪んでいる。


「あぁ、これ……ちょっと落としちゃって」


 ちょっとどころでもない気がする。叩きつけた後のような壊れ方だった。


「派手に転んだんですね」

「まあ、そんなところ」


 物部は車から降り、校門を閉めてしまった。


「すみません、まだマルコが中にいないか確認させてもらえませんか」

「マルコさんならもう帰りましたよ。学校が終わったらすぐ校門を出て行くところを見ました」

「え、本当ですか。しまったな、早く帰らないと。遅くてぷんすか怒っている頃かもしれない」

「そうね、早く帰りなさい。馬詰さんみたいになりたくないでしょう」

「はーい、わかりましたー」


 口論は無駄だと判断し、透は校門から立ち去る。物部は透の姿が見えなくなるのを確認した後、車に乗り直し走り去っていった。そして透もまた物部が見えなくなったの確認すると校門に戻った。身を案じて早く帰るよう嘘を吐いたのかもしれないが熱心な彼が真っ直ぐ帰るとは思えず、やはり一度学校の中を探したかった。


(それに夜の学校ってちょっと興味があるんだよね)


 校門をよじ登り、飛び降りる。着地で足首を捻るも歩く分には問題ない。

 校舎のどの部屋にも明かりはなく、もぬけの殻のようだったがかえって好都合と言えた。

 校舎のどこかに侵入口かないか探してみると一階に鍵の閉まっていない窓があり、そこから靴を脱いでからお邪魔し徘徊を始める。職員室等はさすがにセキュリティでしっかりと守られており周れそうなのは生徒教室のみだった。誰もいない自分の教室に着き、何となくいつも物部がしているように登壇すると目線が高くなり狭く感じる教室がいつもより広く見える。。空間を独占、支配してる気分になる。


「晴れ晴れした気持ちだ……なんだけど」


 マルコの席に何故か大量のジュースが置いてあるのが少し気になった。どんな人からの差し入れも全て持ち帰るほど真面目な彼が果たして机の上に置いて行くだろうか。少し怪しく思ったが帰った後に誰かが置いて行ったと結論づけた。


「よし、せっかくだし」


 その後理性が若干外れ、普段は決して覗かない机の中も透視してみる。ほとんどが整理整頓されている中、一つだけゴミ箱のように荒れている席があった。透ではなく、馬詰の席だった。近付いてよく見てみると平均点以下のテスト用紙がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。マルコが自分の部屋を見た時の気持ちがわかり、かなり恥ずかしくなった。


「仕方ない、私が片付けてやるか」


 そう呟きながら生ごみがないか警戒しながら、慎重に机の中を掻き出していくと一冊の新品のノートが出てきた。表紙にでかでかとマル秘と太文字で書かれていた。


「……あいつは馬鹿か」


 馬鹿も度が過ぎると逆に可愛らしくなってくる。


「さてさて、どんなことが書いてあるのかな」


 透視せずノートを開く。一行毎に里見透という文字がびっしりと詰まっていた。


「……」


 光の速さでノートを閉じた。


「なんてこった……あいつはストーカーだったのか」


 事実はいつも残酷だ。しかし目を背いていては前に進めない。勇気を出して続きを読む。

 内容は愛憎日記ではなく、観察日記だった。日記は今年の春から始まっていた。

 馬詰はトイレ半壊事件より前から透の能力を突き止めようと隠れて実験を繰り返していたようだった。それはどれも超能力の知識に疎い一般人なりに幼稚ながらも敵ながらも感心する内容だった。その中で特定される危険性が高かったのは靴箱の中に大量の虫を詰め込むという実験体を透視能力者だと仮定した実験だった。もし躊躇って開けられなかったら透視能力者と特定するらしい。これは悪戯されていないか開ける前に透視する習慣を持ち且つ虫が大の苦手の透にうってつけの実験だった。しかし日記によると偶然通りかかった物部に見つかり失敗に終わっているようだった。他にもクロロホルムで眠らせた後に誘拐するなどあったが気付かない裏で手際の悪い本人の自爆や教師の間の悪さに生徒のピンチを救われていた。

 もしかしたら今朝の脅迫文は馬詰の実験の一環だったのかもしれない。問い詰める前に気を失ってしまったが靴箱に小細工する点が共通している。


「なるほど……」


 ノートを閉じ、元の位置の机の中に戻す。

 一呼吸した後、馬詰の机を全力で蹴り倒す。


「気色悪いんじゃあああああああああ」


 机を起こさず、そのまま教室を後にした。




 現校舎を周った後はいよいよ本番の旧校舎へ向かう。点滅する照明が、古びた外装がホラーとしてはなかなか趣きのある雰囲気を醸し出していて背中がゾクゾクする。照明に集る蛾の群体が視線に入り、違う意味でゾクゾクする。

 再び入り口がないか校舎の周りを歩いているととある壁にぽっかりと穴が空いている。よく見ると穴ではなく、元窓だったあの場所だった。あれから一週間が経つのに新しい窓が届いていない。旧校舎ということで修理が後回しになっているのかもしれない。


「花子さん、いらっしゃいますかー」


 返事がないのを確認し、挫いた足首を庇いながらお邪魔する。ガラケーのカメラの照明で周囲を見渡す。囲いが外され、便器だけが残っているというシュールな光景に少し驚く。

 光を飲み込んでしまうほどの暗闇の中、明かりを反射する異物が床に落ちていた。割れた鏡の破片の掃き残しかと思いながら近付いてみるもその予想は外れで正体は腕時計だった。腕時計は故障もなく、正確に時間を刻んでいた。

 拾ってよく見ると見覚えのある意匠をしている。まさかと思い、透視をして確信した。


「これ、マルコのだ……」


 落としたまま気付かなかったのだろうか。いや、そんなわけがない。風呂と就寝の時以外肌身離さず持ち歩いている。


「ケイトさん、聞こえてる? マルコがどこにいるか知らない?」


 腕時計は花子さん同様、返事をしなかった。魂の抜け殻のようだった。

 故障かと思い、透視を再度試みるも時計のネジは規則正しく動き、他の電子部品に目立った損傷はなかった。

 初めての異常事態に透は焦り始めた。ケイトが返事しないことではなく、マルコがこの腕時計を落としていることに不安を覚えた。耳の奥の鼓動がやけにうるさく聞こえる。脳裏によぎるのは今朝の脅迫文だった。あれは馬詰の悪戯で無関係のはずなのに、どうしても否定できなかった。

 マルコの身に何かが起きているとそう直感する。肝試しは即刻中断し、捜索を始めた。手始めに旧校舎を探す。

 一階は盗まれても困らなそうな教材を放置している物置だが一つを除いてどの部屋も鍵が閉まって侵入が叶わなかった。そのため、廊下からひとつひとつ立ち止まって隅々まで透視する。本来なら透視能力の精密作業で相当の集中力を必要とする作業を歩きながらも容易に成し遂げた。

 一階が肩透かしで終わると今度は二階へ上がる。二階へ上がると透はまっすぐに過去にマルコに運ばれた教室へと向かった。その部屋は二つの入口があり、そのどちらも鍵が外されていて誰でも出入りができる。二階の廊下は老朽化により一歩毎にうぐいす張りのように鳴る。今にも突き抜けそうな床を大股で早足でお構いなしに歩く。

 一階に落ちることなく教室に無事に辿り着いた。空っぽだった部屋に見かけない物が落ちていた。サンタクロースが持ち運ぶような大きい、子供一人が入りそうな袋だった。中に何が入っているのかを予感する。すぐに側に駆け寄り、解こうと試みる。口をヒモできつく縛られていた。解けそうにないので馬詰から無断で拝借したナイフを取り出し、ヒモを断ち切り、袋の中を取り出した。

 中から人形が、


「マルコ……!」


 否、中から人形のように美しい造形の少年が出てきた。しっかりと息をしている。


「こんなところで寝てるんじゃない! 風邪引くだろうが!」


 お目覚めのキスをしてあげたいところだが往復ビンタで乱暴に起こす。


「いたたたた……と、透さん? あれ、ここは」


 眠らされて記憶が定かではないマルコはぼけっとした顔をしていた。


「マルコ……!」


 戸惑う白雪姫(かれ)を力いっぱい抱きしめる。

 良かった、無事に生きていた。失踪発覚から一瞬で発見に至ったが婚約者が一ヶ月も遭難してからの奇跡の生還をしたかのように感激していた。


「と、透さん、胸が……苦しいです……」


 自動車のエアクッションで窒息するように、マルコは透の顎の下のクッションで酸欠状態になっていた。


「うるさい! こっちは死んだかと思って心配したんだぞ!」

「……こ、ころされる……」


 この後マルコは何とか脱出し、自分の身に何が起きたかを透と別れた時まで遡って話をした。

 二人はその場で状況の整理に入る。


「まず最初、馬詰を事故死と見せかけて殺そうとした犯人は念動力者で合ってると思う。馬詰のあの様子だと本当に現場にいたんだと思う」

「念動力以外の情報はないんでしょうか」

「……あるにはあるけど、ちょっと微妙かな」


 よぼよぼの爺さんが目撃したというグレーの自動車。犯人が乗っていたかどうかも疑わしい。透の数少ない知人もグレーの自動車が乗っていることを思い出し、それだけ大衆に乗られていると考えた。


「……まあいいか。次に脅迫文について。これは馬詰の仕業なのかもしれない。あいつは私の靴箱に細工して超能力を見極めようとしていた。サイコメントリーと仮定しての行動かもしれない」

「馬詰さんではなく、事故の犯人かもしくは誘拐犯の可能性はないでしょうか」

「動機はカレンを捜索させたくないとしても、脅迫文を送った私を抜いてマルコを先に狙うのがわからない……待てよ、今日マルコはカレンの捜索したの。それならターゲットが移っても納得がいく」

「いいえ、してません。それどころか、途中、さぼっちゃいましたし」

「あぁエイリアンに夢中になっちゃったんだっけ」

「その呼び方、いくら注意しても直すつもりはないんですね……」

「あぁ、やっぱりわからない……」


 透はマルコの言うことを無視して頭を抱える。


「あ、ケイトさんが言ってました。透さんの超能力を念動力と信じ込んでる人か、もしくは正確に透視能力だと知っている人物がやったんじゃないかって。それならバレても怖くないって言ってました」

「信じ込んでる方はともかく、私の能力が透視だと知っている人か……」


 そういえば学校内に能力を唯一知る人物がいた。しかし能力を知ったのは脅迫文が送られる前だった。だからやはり白のはず、と邪な考えを振り払う。

 何度も同じ人物が容疑者として浮上してくる。先程も彼女は嘘をついた。まるで旧校舎から、マルコから遠ざけるような嘘だった。しかし疑うのはまだ早い。誰にだって見間違いはあるはずだ。


「そ、そうだ、ケイトさん! ケイトさんを知りませんか」

「ケイトさんというか、腕時計だな。落ちてたの私が拾っておいたよ」


 ポケットから腕時計を取り出す。落し物が戻ってきてマルコの表情は明るくなった。よっぽどこの腕時計とそれを伝いに交信してくるケイトが大切なのだろう。


「ありがとうございます!」

「それにしても薄情な奴だな、マルコの緊急事態なのに何も話さないなんて」


 マルコの指先が腕時計に触れる、その瞬間だった。


『こらああああバカマルコおおおおおおおお』


 腕時計は電池が入ったように、魂を宿したように、突然大音量で叫んだ。

 マルコは驚いて落としそうになったが何とか手の中に留めた。


『だからあれほど止めなさいって言ったのに! もう少しで死ぬところだったじゃない!』

「ご、ごめんなさい」

『ごめんなさいで済まないわ! どれだけ心配したと思ってるの!』

「……ごめんなさい」


 謝ってばかりのマルコを見兼ねて透がフォローに入る。


「まあまあ、母さん、マルコがこうやって無事だったんだし」

『透! あなたにもずっと側にいなさいって言ったでしょう! なんで守らないの!』

「それについては……本当にすみません。明日からは本当に」

『いいえ、明日はないわ。姉の捜索なんて馬鹿な真似はやめて、明日にはいえ今日にでもアメリカに帰ります』

「え、待って、それは……いや……何でもない」


 透はケイトの決断を止めようと思ったがすぐに諦めた。自分はあくまで第三者であり、深入りすることはもっての外だ。それにマルコの安全のためにも帰国が最善だと考えた。これ以上ここにいては危険だ。


「ま、待ってください! まだ時間は残っています!」


 しかし当の本人は納得しなかった。


「もう少しでお姉ちゃんを見つけられるんです! だからあと少しだけ」

『そ~~。マルコ・リード。あと少しで見つけられそうなの? 一週間使って何の手がかりも掴めなかったのにあと少しなのね?』

「それは……そうですけど」

『途中、車に心が傾いてたじゃない。本当は探す気なんてないんでしょう』


 ケイトの辛辣な言葉にマルコは徐々に涙目になっていた。

 透はふと違和感に気付く。その違和感はガスのように不可視だったが確かに存在していた。試してみる価値はあるかもしれない。


「確かに一瞬はそうでしたけど……姉を探しているのは本気ですから……」

『車に浮気した弟に会ってカレンは喜ぶかしら』

「……そ、それは」


 ケイトの言葉はマルコの中にあった膨らみ始めている疑惑に直撃した。

 姉は自分と会いたがっていないのかもしれない。

 その疑惑を知っている透は割って入る。第三者であろうと桑弧蓬矢を否定されたのが許せなかった。


「おい、ケイトさん。その言葉はないだろう。マルコがどんな気持ちで姉を探しているのか、あんたはわかっているのか」

『黙りなさい、部外者。これは私とマルコの問題よ。これからについて話し合ってるの』

「話し合い? これのどこが話し合いだ!」

『黙りなさいって言ってるのよ! バカ透!』

「黙るのはあんたのほうだ! バカケイト!」


 透はマルコから時計をひったくる。


「バカバカこのバーカ!」

『……』


 黙ったのはケイトのほうだった。違和感は確信へと変貌する。


「あぁ……やっぱりな……」


 腕時計を振り回してもチョップをしてもケイトは返事をしなかった。


「さぞ驚いているだろう、ケイトさん。私はあんたの正体、見破っちまったぞ」


 突然黙りこんでしまったケイトにマルコは驚きを隠せずにいた。


「透さん、一体何が起きたんですか」

「マルコ、喜べ」


 マルコの問いに透は答えなかった。だけども、


「お前の姉は生きている」


 ずっと待ち望んでいた答えを持ってきてくれた。

 透は続けてこう言った。


「いい? 驚かないで聞いて。最悪驚いてもいいけど、どうか信じて欲しい。今は、ケイトさんよりも私を信頼して」


 マルコは無言で頷く。

 透は一世一代の大勝負を目の前にして深呼吸をする。失敗は許されず緊張感で吐く息にビブラートがかかる。

 空間はしんと静まっていたが透の耳は心臓の音で埋もれていた。プレッシャーに押し潰されそうになる。

 この場から逃げたくもなる。しかしその場に踏みとどまっていた。

 ついに巡り待ってきた使命を果たすべく、かつての憧れ、理想、畏怖の対象に立ち向かう。今から狐が虎に勝負を仕掛ける。狐には虎のような骨を噛み砕く牙も肉を抉る爪もない。優れているとしたら、それは化かす力だ。


「さっきからずっとだんまりだけどさ、ちゃんと聞こえているんだろう。見えてもいるんだろう。私としたことがケイトさんにすっかり騙されちゃったよ……いや、こう呼ぶべきかな……カレン・リード」


 空間がしんと静まる。空間は支配され、透の独り舞台になっている。


「あんたは大きな嘘を二つ吐いている。嘘を見破れず、ついつい信じてちゃった。一つは自分の正体をケイトだと偽ったこと、もう一つはあんたが音だけでなく、しっかりと映像も見えているということ。さてさて、これらを見破れたのは何だと思う? あんたは初対面から大きなミスをしてたんだ。ラーメン屋の出来事を覚えてる? あの時誰も餃子とはカレンが話すまで誰も言葉にしなかった。それなのにテーブルの上に餃子があるとあなたは知っていた。それは見えていたからだ。だけどここで矛盾が生まれる。腕時計にはカメラの部品が含まれていない。それじゃあどこから見ているのか」


 透はマルコを指を指した。


「ぼ、僕ですか」

「その答えはイエスでもあり、ノーでもある」


 透子の指は、正確にはマルコの右の茶色の瞳を指していた。


「カレン・リード、あんたは今、マルコに移植された自分の欠片……目と耳となっているんだ」


 開いた口が塞がらないマルコの手元に腕時計が戻る。


「それじゃあそろそろ本人に登場してもらいましょう。腕時計お返しします」


 動物の肉球のように温柔な手に戻っても腕時計は石のように固まり口を閉ざしている。


「マルコ、呼んであげて。呼び方間違えないでね」


 信じ難いが透との約束通り信じた。


「か、カレン……」

『……違うわ、違う。私は……私は……ケイトよ』


 岩のように頑固だったが、言葉に先ほどの力強さはなく和紙のように軽かった。

 マルコは問いかける。


「ずっと僕を騙してたんですか?」


 その言葉で油に火が点いたように彼女を燃え上がらせる。


『それは違う! 騙してなんかいない! 騙そうとしてるのはそこの女! 騙されないで、マルコ! 信じちゃダメ!』

「ごめんなさい、僕は……彼女を信頼します」

『なんで私を信じてくれないの……待って、そうよ、証拠! その女に証拠がないじゃない!』

「見苦しいな、カレン・リード。私の能力を忘れたの? 目さえ合えば思考の透視ができるって。これが証拠」


 その証拠はハッタリだった。これこそが化かしの真骨頂。茶色の瞳が黒く焦げるまで見つめても思考は飛んでこない。これが実力の限界だった。飄々と平静を装うが心臓はばくばくと鳴っている。ハッタリだと気づかれないことをひたすら祈る。


『違う! 違う違う! カレンは死んだのよ! マルコ、早く帰りましょう。この女の家じゃなくてアメリカの家に!』

「……嫌です」

『なんで……なんで私の言うことが聞けないの……』


 昔から温順な弟は姉の言うことをしっかりと聞いていた。だから初めて頑なに拒否を続けられ、姉は途方に暮れる。そんな姉にも弟は温かく接する。


「違います、僕は姉がまだ生きてるって信じたいんです」

『……』


 再び腕時計は静かになる。攻勢と判断し、透は援護に入る。


「言っておくがカレン。マルコがこれで諦めると思うなよ。彼の執念はそんなに簡単に折れると思うなよ。よく考えてみろ。ここに来たきっかけはほんとちっぽけなもんだ。ネットの噂を信じて性別隠して留学までするか?」

『……』


 ほんの少しの追撃のつもりが説得しているうちに、煮え切らない態度に、思わずヒートアップしてしまう。


「そもそもだ! そもそも、ネットの噂は最強の念動力者というだけでカレンの一文字も出ていない! それでもマルコは信じてやってきたんだぞ! それがこれっきりだと思うのか! 日本なら言葉が通じて私がいるからまだいいさ! 今度は日本とは限らない! 北極か、南極か、アフリカの奥地か、チョモランマのてっぺんにだって行くかもしれない! 今も世界中でどこかで噂ができるかかわからないぞ、なんせ世界中に名の知らない者はいないカレン・リードだからな! 話題に尽きないだろうぜ!」


 説得する透も平静を忘れ、語調がクレッシェンドのように強くなる。


『そ、そんなこと、わからないじゃない……』

「マルコ、日本の次はどこの予定だ」

「次は……バミューダトライアングルです」


 突然話を振られ、返答にもたついたが意志の強さが見て取れる返事だった。


『あなたはどこまで……』

「バカって言いたいのか? そうだな、お前の弟はバカだ。姉バカだ。大好きな姉のために三千里も旅するとんでもないバカだ。旅だけじゃない、カレンがいなくなる前からずっと勉強を頑張って飛び級したのは何でだと思う? おかしくて笑っちまうぜ、忙しい姉と少しでも一緒にいたいからだよ! 研究に携われるように遊びを我慢して必死で勉強したんだよ! なのになのに! どうして! どうして、こんなに愛してくれる家族がいるのにそれに気付いてやれないんだよ! 気付いておきながら、向き合ってやれないんだよ!!!」


 マルコの右耳に口を近づけて大声を上げた。


「この! バカレンがああああああああ!」


 再びの沈黙。肩が凝りそうになるほど過重な沈黙だった。

 最初に沈黙を破ったのは、


『……だって…………だって、こんな、惨めな姿を見せたくないじゃない……私がどれだけ……どれだけ弟を愛しているかわかって言ってるの』


 カレン・リードだった。

 ついに正体を認めた。狐と虎の異種勝負は狐に軍配が上がった。

 透は緊張で凝りに凝った肩の力を抜き、ため息をこぼした。何とも言えない脱力感があった。しかしそれ以上に、


(ひゃっほーーーー! やってやったぜーーーーーー!)


 ランナーズハイに似た興奮が湧き上がっていた。


 観念したカレンは二人に自分の身に何が起きたか、わかる範囲で説明をした。まず彼女が意思疎通できるのは言わずも知れた腕時計の未知なる部品が関連していた。これは生前に完成したカレンの念を感知し、言葉に翻訳するデバイスだった。超能力者の念は感情が深く関わっており、怒れば怒りの念に、悲しめば悲しみの念に、人の顔のように念は感情を変える。感情のパターンを記憶させ、ついには言葉に翻訳させられるようにまで至った。


「超能力者なら誰でも使えるの?」


 一縷の期待を込めて透は尋ねるも、


『それは無理ね。このデバイスは試作品で私専用なの。だから透どころかマルコにも使えないみたい』


 この試作品の開発が成功すれば一生遊んで暮らせる報酬を約束されていた。カレンはマルコとの生活を我慢し、先の未来のために研究に集中した。


『私がいなかったらこの腕時計は完成してなかったわ。この装置、これでも小型化されたほうなの』

「へえ、元はどれくらいなの」

「元は東京ドーム一個分くらいはあったのよ』

「嘘! まじで!」

『えぇ、嘘よ』

「嘘かよ!」

『本当は内野ぐらいの大きさ』


 野球に疎い透はすぐに規模を想像できなかったが、


「それでも充分すごいよ……」


 マルコは充分に理解していた。

 開発に終わりが見え、賞与として多額の金額が支給された。それと一緒に長期休暇を貰えた。その矢先にあの悲劇は起きた。そこからはマルコも知っての通り、彼の命を救うべく自分の命を差し出した。

 その後カレンが何故マルコの耳と目になったのかは自分でもわからなかった。邪推で考えられるとしたら超能力が関連しているとしか言いようがない。


「本当に……カレンなんだね……あっ」


 今の言葉を失言だと捉え、マルコは口で手を抑える。彼は未だに半信半疑のようだった。そんな言葉を投げかけるのは無理もない。いくら超常現象を日常とする彼でもこのような超+々+常現象はすぐには信じられない。ちなみに透は早々に考えるのを諦めてカレンの説明を携帯ショップの店員の説明を聞いている時のようにほいほい頷いていた。


『えぇ、そうよ。寄生虫みたいになっちゃったけどね』

「本当の本当に……カレンなんだね」

『ええ、そうよ。今まで騙してごめんなさい。騙すつもりはなかった……と言ったら言い訳よね。情けなくて惨めでしょうがない姉の姿を見せたくなかったの。でも嘘に嘘を重ねて、終いには見破られてますます情けなくなっちゃったね』


 カレンは自分の身体を失う前から真っ直ぐで優しい弟に相応しい真っ直ぐな姉でいたかった。


「情けなくなんかなってないよ。ずっと側で僕を見守ってくれたんだもん、やっぱ無茶苦茶凄いよ。お姉ちゃんは」


 二人の歯車はずっと逆方向に回っていた。姉は自分を忘れて欲しかったが、弟は姉を忘れたくなかった。お互いの想いは余りに大きく、相手の気持ちの大きさに気付かずにすれ違っていた。


「お姉ちゃん、ずっと言いたかったんだ。会えたら言おうと思った言葉、ここで言うね……僕を身を挺して守ってくれてありがとう。大好きだよ、お姉ちゃん」

『私もよ、マルコ。これからもずっと一緒にいましょうね』


 透はしばらく二人だけにしようと気を利かせ、その場に後にしようとした。しかしその足が一旦止まる。

 階段のほうからぎしぎしとうぐいす張りの廊下が鳴る音が聞こえた。

 透は自分の浅はかさ、愚かさに後悔し小さく舌打ちをした。

 何故、犯人が帰ってくると考えられなかったのか。タイムマシンがあったら過去に戻って自分の顔を原型がわからなくなるくらい殴りたい。

 呼吸を整え、心臓の乱れを抑えて、透視を行う。彼女の瞳は確かに足音の主の正体を捉えた。

 その正体を認識したと同時に心臓が飛び跳ね、透視が強制終了された。透視を再開しようにも鳴り止まぬ心臓の鼓動と身体の震えを抑えられなかった。だがしかし透視の必要性がないほど寄ってくる足音の正体ははっきりと確認し、今回の全ての事件の黒幕だと確信した。


「二人共、感動の対面はまた後だ。今、向こうから犯人がやってくる」

『片耳の私にも聞こえたわ。ごめんなさい、もっと早く気付くべきだったわ』

「悪いのは私だ。透視で周囲を警戒するべきだった」


 音は着々とこちらに近づいている。この教室に真っ先に向かっている。


「いいか、マルコ。よく聞け。相手が誰であろうと発煙筒を投げるから、その隙に逃げろ」

「まだ持ってたんですか、あれ」

「今は呆れてる場合じゃない」


 透はキャップを開き、いつでも火を点けられる体勢に入っていた。

 傷んだ古い木が軋む不気味な足音が三人がいる教室の前で止まると同時に扉が開く。


「あらあら、あなた達こんな時間にこんなところで何してるの」


 足音の正体は物部万理だった。

 物部万理が突如現れた。


「なんだ、物部先生か……」


 見知った人物にマルコは胸を撫で下ろすが、


「先生、それ以上近づかないで下さい。近付いたら爆弾を投げますよ」


 透は臨戦態勢を崩さない。


「と、透さん、先生相手にそれは」


 爆弾と聞いても物部は顔色一つ変えなかった。


「あらあら、先生も嫌われちゃったものね」


 警告を無視し、物部は一歩前進した。


「近づいたな! ぼんばー!」


 透は予告通りに火を点けた発煙筒を物部に投げつけた。

 発煙筒は物部の眉間目掛けて飛んでいくも、直撃する前に見えない壁に阻まれたかのように床に落ちた。

 夥しい量の煙が物部の足元で吹き出し始める。しかしそれでも物部は眉一つ変えなかった。炎天下の砂漠の上でも溶けない氷のような歪な狂気がそこにあった。

 

「なにしてるんだ、マルコ! 早く逃げろ!」

「で、でも、先生は」

「今のでわからなかったか! あいつは念動力者だ!」


 能力を見破られても物部は冷たい笑みを浮かべるだけだった。

 マルコはようやく事態を飲み込む。自分を誘拐した犯人、そして馬詰を事故と装い殺そうとした犯人、それがいつも教壇に立っていた先生だということをようやく理解した。


「いいか、マルコ! サンマで落ち合うぞ!」


 サンマと聞き、マルコは真っ先に魚屋ではなく中華料理屋を思い浮かべた。


「透さんも一緒に行きましょう!」

「大丈夫、すぐに後を追うから」

「で、でも……!」

「逃げ足には自信がある。私を信じろ」


 ウィンクする透に急かされ、ようやくマルコはもう一つの入り口へ走り出す。

 その道を阻もうと物部は走り出す。マルコの逃げ道確保のため、透はもう一本火を点けた発煙筒を物部に目掛けて投げ付ける。


「姑息ね」


 物部は足を止め、念動力に集中する。すると発煙筒はフォークボールのように急激に角度を変え、再び床に叩き落とされる。直撃前にはたき落とされてしまったが煙は濛々と吹き出ている。

 直撃したところで何のダメージにもなりはしない。ただ当初の目的通り、マルコを逃がす時間は確保できた。


「……煙いわね」


 彼女の周囲だけを避けるように煙が広がる。

 発煙筒が短い生涯と役目を終え、視界がクリアになる。教室には物部と透が残っていた。

 透は逃げずにその場で立ち尽くしていた。


「あら、逃げないの? それとも、かくれんぼはスタート地点近くに隠れて鬼をやり過ごすタイプ?」


 逃げるにも逃げられなかった。足首が未だに傷んで走れなかったからだ。

 近づいてくる物部を無視し、透は透視でマルコの行方を追っていた。無事に校舎を抜け出す姿を確認し透視を解除した。


「まあ、いいわ。ちょっと痛いから我慢してね」


 物部は手をかざし、ほんの少し手首を撚る仕草をした。それと同時に透は見えない手によって床に叩き付けられ、金縛りのように身動き一つ取れなくなった。


(想像はしていたけど……予想以上に重い……!)


 てこの原理があるとはいえ、自動車を浮かせるほどの力。その気になれば煎餅のように潰せるだろう。しかし超能力の主はポケットから紐を取り出し、セレナーデを鼻歌で歌いながら透の腕と足をセオリー通りに背中で縛り始めた。


「先生はいつから超能力に目覚めたんですか?」


 身動きが全く取れなかったが、辛うじて口の自由は許されていた。


「何? 時間稼ぎのつもり? でもいいわ、生徒の疑問に答えてあげるのが教師の努めですものね、教えてあげるわ。先生ははだいぶ遅くてね、高校卒業してからよ」


 淡々と質疑応答は続く。


「馬詰を事故と見せかけて殺そうとしたのは」

「先生よ」

「脅迫文を入れたのは」

「先生よ」

「マルコを誘拐したのは」

「それも先生」


 悪びれる様子もなく、授業の時と同じように笑顔で質問に答える。

 いつもと何ら変わらない。警察に任意同行された時に見せてくれた笑顔のままだった。

 それが腹立たしく透は声を荒げる。


「……なんで、なんで、こんなことするんだ!」


 他人を拒絶していたにも関わらず他の生徒と変わらず差別なく接してくれた教師だった。本当に信頼に値する素敵な人だと思っていた。

 きっと何か訳があるに違いない。彼女にもただならぬ事情、葛藤があり、自分を殺めようとしているに違いない。

 しかしここでも目算は大きく外れた。


「それはね、透さん。あなたたちが先生にとってハエとウンコそのものだからよ。ハエをいくら駆除してもウンコがそこにあれば必ず寄ってきちゃうの」


 希望を粉になるまですり潰す鬼畜な答えだった。

 物部が馬詰を殺そうと決心したのは唐突のこと。以前から超能力者である透にちょっかいを出す馬詰の行為を問題視し、監視を続けていた。馬詰の問題行動が公になると学校の全体の問題と大きくなりえるので上には報告せずに握り潰していた。しかしついに物部の手には負えない事態が起きてしまった。馬詰がネットに実名付きで超能力を公開してしまった。真偽はどうであれ、誰にでも目に触れられるのが良くなかった。問題が握りつぶせなくなってしまった。

 問題は学校にも発覚され、物部は教頭に呼び出され、二時間も説教に付き合わされた。二時間も愛しい人といる時間を奪われた。もしこのまま野放しにしていればこれ以上の時間をさらに無駄に浪費するかもしれない。

 これ以上問題が大きくならないように、いなくてなってもらおう。

 こうして簡単に、馬詰抹殺計画を立ち上げた。

 馬詰の行動パターンはすでにほとんど把握していた。決まった曜日、決まった時間に彼女は朝練のため、早朝から登校する。その時は学校内とは違い、ひと通りの少ない時間に一人で行動をする。暗殺にはうってつけだった。

 証拠が残らないよう、超能力を使うことにした。しかしそれが原因で彼女は重大なミスを犯す。彼女の超能力は遠方のコントロールが苦手で、馬詰を殺し損ねてしまった。

 救急車で病院に運ばれた馬詰に何食わぬ顔で事故で怪我した生徒が心配で駆けつけた教師の体で近付いた。

 当初彼女は自分を殺そうとしたのが透だと勘違いしていた。しかし警察がやって来て透が念動力者ではないと物部もいる場で説明した。


「学校にも来てた警察官、覚えてる? あのいかにも一生独身そうな男。病院でね、ちょっと色目使ったら門外不出のはずのあなたについての書類を簡単に見せてくれたわ。あ、勘違いしないでね、先生はダーリン一筋よ? そいつに指一本体を触らせてないから」


 また一つ問題が発覚した。自分が透の前で念動力をつい使ってしまったのを思い出す。それはマルコが留学した初日、透が変な格好で校門に立っていた時のことだった。後輪が浮いて立ち往生してしまった車を念動力で脱出するところを見られてしまった。気付いている様子がなかったがバレるかもしれない。

 どうしても事件から目を逸らせたく苦肉の策として脅迫文を閃き、職員室で誰もいない内に脅迫文を書き上げた。理由は不明だがカレン・リードを探しているようだったので彼女の名前を利用させてもらった。その手紙を読んで透が喜ぼうとも怯えようとも関係はなかった。ほんの少しの時間稼ぎになればいい。後は放課後で透一人しか住んでいないアパートに足を運び始末すればいい。

 透の問題をクリアできたが、またも問題が発生した。昼休みにマルコが車に接近し、何やら調査をしているようだった。透にばっかり気を取られていたが、マルコも目撃者になりうる人物だった。どうにか口止めをしなくてはいけない。その時に閃いたのが馬詰から没収したクロロホルムだった。使う場面はすぐにやってきた。狙われていると知らず旧校舎に一人でのこのこと歩いて行くのを追いかけ、隙を見て襲った。

 その場で始末したかったが時間が許してくれなかった。物置から使えそうな物をかっぱらい、誰も近寄らない二階にマルコを隠した。夜になったら改めて殺そうと考えていた。


「さてさて、他に疑問はある?」

「……それじゃあ私をどうやって殺すんですか?」

「良い質問ね。先生ね、血が見るのは嫌なの。人の血も獣の血も魚の血も……自分の血以外はどれも平等に嫌なのよ。だって汚いじゃない? だから血が出ない殺し方をしてあげるわ……っと、こっちも終わったわ」


 透の手首はヒモで何重にも縛られた。透視能力があっても解くのは不可能だった。


「それとね、透さん。特別に良いことを教えてあげる。あなた、ちょっと冷静すぎなのよ」


 物部は透の尻をまさぐる。ポケットに異物があるのを確認し、取り出す。


「立派なナイフね。でも学校に不要物持ってきちゃダメよ。没収します」

「か、返せ!」

「いくら言ってもダメなものはダメです。それともう一つ良いことを教えてあげる。マルコさんを無事に逃がしたと思ってるでしょうけど、先生が取り逃がした時の策を考えてないと思った?」

「……どういう意味だ」

「あなたの姿を校門で見かけた時に虫の知らせってやつ? それがしてね、マルコさんをね、捜索願いをしたのよ。あの独身男にお願いしてね。今では彼女は街のお尋ね者よ。どこに隠れようたって無駄なの。ついでに見つかったら先生の元に連れてくるようにお願いしてあるわ」

「警察に捕まるなら好都合だ。そこで真実を話せば良い。あんたが超能力者だってばらしてやればいい」

「残念、現実ってそう上手く行かないものよ。子供の言うことを大人が簡単に耳を傾けると思う?」

「そんなのわからないだろ! 実力のある超能力者を呼べばマルコが嘘を吐いてないとすぐにわかる!」

「透さん、残念ながら0点を上げるわ。もうちょっと社会について勉強するべきね。警察は保守的でね、各方面で超能力が認められ始めた昨今でも未だに物的証拠として認めてないのよ。裁判でも無視されます」

「そんなことが……そんなことがあってたまるか! じゃあ何なんだよ! 何で超能力があるんだよ!」

「認めたくないのはわかるわ。でも現実がそうなんだから受け止めなさい。命を挺して助けたつもりだろうけど残念でしたね」


 そう言って物部は教室を後にした。彼女が離れると体が自由に動かせる。透は身を捩らせながら尺虫のように脱出を試みた。木のささくれが顎を突くが動きを止めずにもがき続ける。廊下まで逃げ出すことができたが、そこで物部は戻ってきてしまった。


「タイムアッ~~~~プ」


 手にはプラスチック製のポリタンクがぶら下がっていた。


「まあまあ、よく頑張るわね。頑張る生徒にはご褒美を上げないとね。丸焼きにするつもりだったけど燻製にしてあげる」


 物部は透にかからないように廊下に油を撒き始めた。

 廊下を一周すると同時に油が底をつく。


「さて、と」


 ポケットからマッチを取り出す。使い慣れているのか、一発でマッチに火が灯った。


「あんたは何の権限で私を殺すんだ……!」

「もう質問何回目よ、もうすぐ死ぬんだからおとなしくしなさい」

「教師だったら生徒に何してもいいわけ無いだろ! 大人だったら子供に何してもいいわけ無いだろ!!」

「はいはい、じゃあこれが最後ね……。先生はね、女王様なの。だからこうやって安寧な人生を脅かす不届き者を火炙りにできるのよ」


 殺す理由というなら、透は死線を越えたのだ。その死線、基準を設けたのは傲慢極まりない物部だっただけの話だ。


「脅かすって……全部あんたの撒いた種だろうが!」

「悪いけどこれから死ぬ人の言葉はもう聞こえません。とっくに定時ですから」


 透の言葉はもう物部の耳には届いていなかった。彼女の頭の中には家に帰ったらシャワーを浴びて愛しの恋人といちゃつくイメージが浮かんでいた。

 そう、だからこそ、すぐには受け容れられなかった。


 ヒュッ……!


 風切り音が耳元を掠める。


「ん……? 蜂かしら?」


 正体不明の音に一度は振り返るも暗くて何も見えなかった。


「気のせいね」


 そして前を向くと火が灯っていたはずのマッチの先が消えていた。


「あれ……?」


 目の前で起きた異変に声を漏らす。

 火が消えただけではない。

 異変をすぐに受け容れられなかった。

 突如として自分の親指の根元の拇指球に深い切り傷ができ、深紅の血が漏れ出しているビジョンを受け容れられなかった。

 最初は何かの見間違いと思ったが遅れてやってきた激痛に現実だと教え諭される。


「きゃああああ!」


 ピッチの合ってないソプラノのような絶叫が響く。耳をふさげない透は顔を顰める。


「里見透……!! これはあなたが……! いや、お前は何のとりえもないただの透視能力者! じゃあ誰が!?」

「先生、それは僕がやりました。いえ、もう、あなたを先生と呼ぶべきではないですね」


 その場にいた女二人は声の方向を向く。

 その少女は女王に仇なす蛮族に見えた。

 その少年は窮地を救う王子様に見えた。

 小さき少年マルコが二人の視線の先に立っていた。

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