異変は歩く早さでやってくる されど決して逃れられない
次の日、学校では新たな異変が起きていた。
透は登校するとまず下駄箱の中を透視を行う。馬詰に何か悪戯がしかけられてないか確認するため、習慣化している。
「……ん?」
下駄箱の中には封筒が入っていた。さらに封筒を透視し、刃物類が混入していないことを確認する。便箋ではなくコピー用紙のようだ。封筒の中の手紙は折り畳まれていたが透視でそのまま読むことが出来た。
「透さん、どうかされたんですか」
マルコに話しかけられ咄嗟に手紙を鞄に突っ込む。
「なんでもない」
教室に向かう途中、物部と遭遇した。またも空気を読まないノロケ話をされるか身構えたがその様子はなく、真剣な眼差しをしていた。
「里見透さん。警察の方がいらっしゃってるので今すぐ先生についてきてください」
異変はもう一つ起きていた。透が関与していない離れた遠い場所で。
鞄をマルコに託して透は応接室に任意同行もとい連行された。
教室の椅子とは比べ物にならない、比べてはならないほど、ふかふかの高級ソファに座る。目の前にプロレスラーのような体格をした警察官が二人座っている。透の隣には気を利かせたつもりか担任の物部万理が同席していた。普段は面倒事を押し付けられて迷惑しているがこの時ばかりは頼もしく思えた。
取り調べが始まる。
「まず最初に馬詰さんはご存知ですね」
「……」
「もしかして知らないんですか? クラスメイトなのに? それとも彼女に対し後ろめたい気持ちでも?」
「いえ、昨日の片頭痛がぶり返したようでして」
朝からあの女のトラブルに巻き込まれてしまうとはとことんついていない。
「馬詰武美さんがどうかしたんですか?」
「御存じないですか。彼女は今、病院にいるんです」
「へえ、そうですか。車にでも轢かれたんですか」
「透さん、なんでそれを」
「え? 本当なんですか? いや! 今のなし! 当てずっぽうですから!」
「あっはっは! わかってますよ。犯人がそう簡単に自白するとは思えませんから。それと命に別状はありませんのでご安心ください」
警察官の説明によると部活の朝練で早めに登校していた馬詰が交通事故で病院に運ばれたらしい。ただの交通事故ならまだしも異様な点があり、そのせいで透がその交通事故の容疑者として疑われていた。
「馬詰さんが『里見透に殺されかけた』と叫び続けていますが、これに心当たりはありますか?」
「全くありません」
「なるほど。彼女が『念動力で殺されかけた』とも仰っていますが関係ないんですね」
「全くありません」
「なるほど。なるほど。まあそうでしょうね。あなたの超能力は透視能力ですもんね。そう、登録されていますからね。殺傷能力が全くありませんからねぇ、んふふ」
透が透視能力だという事情を知らない第三者である物部万理がいるのに個人情報保護法を無視で取り調べは進められていた。家族構成や中学生時代の過去、経歴がどんどん漏れていく。調査に来ている警察官は超能力者を軽んじている。それにぬめぬめとしたナメクジのような笑みを浮かべていて見ているだけで不快になる。なるべく視界に入れないようにし時間の経過を待つのみ。
意味があるかもわからない取り調べが続き、いい加減嫌な気分になる。自分が日々どれだけ能力を隠すのに努力しているのか、それを知らずにこの目の前の人間は全てを台無しにする。沸々と込み上がる怒りを理性で冷ましていく。隣りにいたのがある程度の信頼を置ける物部万里で良かったと自分に言い聞かせる。
「彼女があなたの能力を念動力と勘違いされているようですけども本当の本当に違うんですね?」
「だから何度も言いますけど私は現場にいなかったし、全く関係ないんです。どうしてあいつが念動力と勘違いしてるかも知ったことじゃないんです」
「でも否定されなかったんですよね? 正直に話していれば事件に巻き込まれなかったかもしれないのに……」
またも事情も知らないで好き放題に言う。
「もしかして透視能力以外に能力があったりとかしませんか。いやはやそんなわけないですよね、あっはっは」
気に障る笑い方だった。一刻も早く、解放されたかった。
「それじゃあ……透視能力を実証すればいいんですね」
「そうしていただけると時間が短縮できて助かります。何分(なにぶん)こちらも忙しいのでね。この場でやっていただくと手間が省けて助かるのですが」
「……この場でですか」
隣に物部万理がいる。とうとう嘘も誤魔化しも効かなくなる。軽率な発言をしてしまったと後悔する。もしかしたら今までの質疑応答は自発的にこの一言を言わせるための布石だったのかもしれない。もし本当にそうなら性格の悪いやり手だ。
「はい、できるならそのようにお願いします。何か不都合があれば場所を変えますけども。警察署でも良いですよ」
このおっさんと何時間も一緒にいたくないし、警察署に同行すれば噂が噂を呼び、収集がつかなくなる気がした。
「透さん、それは先生からもお願いするわ」
物部も便乗し、催促してきた。
「ごめんなさい、教師なら生徒の言うことを信じてあげたいけど、でもやっぱり自信がなくてね。透さんが透視能力だとわかったら全力でサポートするから」
物部万里は真摯な目で訴えかけてくる。嘘か本当か見抜こうと思い、多少の罪悪感を感じながらも彼女に対して思考の透視を行うも彼女の思考がうまく伝わってこなかった。
(いつもこれだ……! ここぞという場面で使えない能力……!)
「どうしたの? 具合悪くなった?」
「いえ……そんなことはありません」
「そう? でも具合悪いようだったら今日も早退してもいいのよ? 無理しないでね?」
本当に気遣っているように見えた。そんな目を見てしまい、透はため息を零す。
「……先生、誰にも言わない約束ですよ」
若干やけになり、この場での透視を決めた。今の発言のどこが面白いのか、警察官がさらにニタニタ笑う。
「……おじさん、財布の中に子供の写真入れてるでしょ。それも四枚。四枚とも違う子供が写っている。子沢山なんですね」
何らダメージもないだろうが、せめてものお返しにニタニタ笑う警察官の家族構成を漏らしてやった。
「なるほど。なるほど。なるほど。事実確認は取れました。ご協力ありがとうございます」
驚いた表情もせずに警察官が淡々とした態度でお辞儀をし、立ち上がる。それが取り調べの終わりの合図だった。
「これで無罪放免なんですね」
「はい、一応はそうですね」
透が安堵のため息をつくも束の間、
「まあ捜査の結果で裁判所に来てもらうことになるかもしれません。被告席に立つなんてこともなきにしもあらずですよ」
笑えないジョークを飛ばす上、嫌な笑顔を浮かべる。
「それと財布の中の写真は私とは何ら関係のない子たちの写真です。個人情報は大事にしないとですな、あっはっはっはっ」
つくづく不愉快な男だった。帰ってから塩を撒くではだめだ、顔面に岩塩を投げつけたかった。
先週の校門前での奇行と今朝の呼び出し騒動に加え、学校新聞に乗ってしまうほど時の人になってしまった。校内は彼女の話題で持ちきりだ。
そこには問題が存在した。有名人は有名人でもマイナスイメージが振り切った悪い有名人になってしまっていた。廊下を歩いていると生徒も教師も揃って壁際に寄って道を譲る。手を触れずに物を動かす念動力者になった気分になるが愉快ではなかった。自伝に載ってなかったが強力な念動力者のカレン・リードもこんな体験があったのだろうか、とふと思う。
交通事故に見せかけた殺人容疑者という噂が学校中に広まり、透に近づく者も話しかける者もいなくなった。究極までに孤立したこの状況は何より理想だったはずなのにどこか釈然としない。
顔色が悪いのを察し、マルコが話しかける。
「透さん、大丈夫ですか。具合悪いようですよ」
取り調べから戻ると教室の前でマルコが出迎えてくれた。
「あぁごめん、大丈夫」
「顔色悪いですよ、今日も早退したほうがいいんじゃないですか」
「いいや、そんな訳にはいかない。約束したじゃない。今日こそカレン・リードを見つけなくちゃあ」
「まだ時間はありますから大丈夫です」
「日曜に飛行機で帰るんだから後もう五日間しかないんだよ」
「まだ五日間もあります。問題ありません」
本当は時間がないのに、焦っているのに、それを隠して彼は笑う。その健気な笑顔に負けてしまう。騙されてるとわかってても男に騙されるのは女の性なのか。
「ごめん……本当にごめん……明日は絶対に、手伝うから」
「先生には僕から言っておきます。お大事に」
鞄を持つと瀕死のゾンビのような足付きで透は下駄箱へ向かった。
二時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴る。二日連続早退することに罪悪感を覚えながらも下駄箱へ辿り着いた。
「さてと……」
ゾンビの真似を止めて背筋を伸ばす。顔色が悪いのは確かだが、首よりは下は元気なままだった。
鞄から今朝の下駄箱のラブレターを取り出す。封筒に糊付けはされていたが、量をケチったのか、すでに剥がれていたので破かずに手紙を読むことが出来た。
中の手紙にはこう書かれていた。
これ以上私を探すな。さもなくば馬詰の次はお前だ。カレン・リード
朝に透視した時と一つも変わりはなかった。生で見て改めて寒気がし、足が震える。しかしこれは恐怖ではなく武者震えかもしれない。
悪戯かも知れないが今や殺人犯と疑われる自分に対し、ここまで根性のある真似をし動機のある女子高生がいるとは思えない。もしかしてひょっとしてカレン御本人様からかもしれない。
最初に馬詰の事故の一報を聞いた時は何もないところで転んで事故を起こしてしまい、本当のことが言えずになすりつけたとばかり考えていた。しかしこのタイミングで犯行声明が届いた。カレン・リードなら脅し目的で交通事故すれすれの未遂ぐらいやってのけそうな気がする。惜しくも自分は物体に残っている残留思念を読み取り手紙の送り主を特定する精神分析の能力を持っておらず、その知り合いもいない。相も変わらない己の無力さを嘆きながらも一歩前進したことを喜びながら調査を進めることにした。そのためにも情報収集をしなくては。
透は早退にも関わらず元気に下校していった。
二時間目は体育で、マルコは着替えずに制服のまま見学をしている。クラスメイト達が誘おうと声をかけてくるが断って考えることに集中していた。彼の頭の中は届いていた脅迫文のことで頭がいっぱいだった。幸いにも思考の透視ができる透に悟られなかったが彼女がいない間に鞄の脅迫文を読んでしまい自責の念にも駆られていた。
再び彼女の負担をかけることが起きてしまった。これだけではない。トイレを半壊させた失態も彼女が背負おうとしてる。全ては自分の責任なのに。
「ケイトさん、いますか?」
『いるわよ』
まるでずっと側で話しかけられるのを待っていたかのようにケイトはすぐに返事をした。
マルコはケイトに今朝起きたこと、脅迫文のことを報告した。
『脅迫文は恐らく悪戯じゃないかしら。送り主に何のメリットもないし、バレた時のリスクが大きいと考えるはずよ。誰が好き好んで肩章付きにちょっかいをかけるのかしら』
肩章には本来の意味とは離れた意味と偏見が広まっている。着用することで自分は実力者だと自称する意味を持ち始めていた。偏見でも一度広まってしまえば常識になってしまう。生徒、教師から見れば透は常に核ミサイルのスイッチをちらつかせているように見える。
偏見が原因で謙遜を美徳とする文化及び出る杭は打たれる文化が根付いているとされる日本ではその普及率は圧倒的に低い。超能力本場のアメリカなら一ヤード、一メートル未満でも瞬間移動できれば肩章を両肩に付けてしまうくらい軽い気持ちで出来てしまう。
『リスクを省みず送るとしたら、ネットの情報で念動力者だと信じ込むお馬鹿さんか、透の能力を知っている人物か』
「脅迫文の送り主がもし仮に交通事故の犯人だとしたら、それは姉さんだと思いますか?」
『さあ、どうかしらね。あなたはどう思うの』
「ありえません。絶対にありえません」
マルコは断じて今回の事故に姉は関わっていないと信じていた。いくら無茶苦茶な彼女でも命に関わる危険な行為は絶対にしないと信じていた。
『わからないわよ。見つかりたくないから強行手段に出たのかも』
「ケイトさんは……姉さんの友達じゃないんですか」
姉を侮辱されたように思え、温厚なマルコも怒りを露わにする。
『あら、怖い。そんなにお姉さんが恋しいの?』
「恋しくなかったら探そうとは思いません」
ケイトはわざとらしくため息をこぼした後に説教を始める。
『何度も言うけど捜索なんて無駄よ。止めなさい。あなたはアメリカで遺産で平穏に暮らせば良いの。それをあなたの姉は望んでるはずよ』
「ケイトさんは姉の捜索に元から反対でしたもんね……だからそんなこと言えるんですよ」
ネットで噂を知り日本に行くと決めた時もケイトに相談したが、彼女は真っ先に反対した。その時と全く同じことをケイトは言っている。
『今回の一件でもまだ懲りないの。カレンは死んだのよ。諦めなさい。諦めたら口のうるさいいじわるケイトばあさんからも開放されるかもしれないわよ』
ケイトの話にマルコは耳を傾けなかった。彼の意志は変わらなかった。
「手紙の差出人はケイトさんなんですか? 脅迫すれば引き下がると思ったんですか」
勘ぐってみると、
『……やれやれ、まだ諦めるつもりはないの』
彼女は否定もせず肯定もせず、分からず屋の頑固さに呆れる。
「誰がなんと言おうと、僕は探し続けます。見つけるまで探し続けます」
『いい加減にしなさい。下手すれば死ぬかもしれないのよ』
「それはいいですね、天国まで姉を探しに行けます」
屁理屈にケイトの怒りは頂点に達する。
『もういいわ! 本当に死んだって知らないから!』
大きな声が漏れるが気付く者はいなかった。
その後、何度話しかけても叩いても反応はなかった。腕時計の向こうにいるはずの彼女はどこかに行ってしまったようだった。
「ケイトさん、疑ってごめんなさい」
聞こえてるかはわからないが謝っておいた。
勘ぐりはしたがマルコは相談、監視役のケイトも姉と同様で脅迫文の犯人として疑ってはいなかった。高圧的ながらも自分の身を案じてくれるいつものいじわるばあさんだと信じていた。最近覚えた日本語にツンデレという言葉がある。きっとケイトみたいな人のことを言うのだろう。
「でも男の僕にはやらなくちゃいけないんです」
透と姉の名誉のためにも真犯人を見つけ出し彼女の潔白を証明してみせる。
姉の捜索は中断にして、まずは事故の情報収集しなくてはいけない。学校内で目撃者がいないか探してみることにした。
授業の合間の小休憩の時間も使い、聞き込み調査を続けるも手応えがないまま、昼休みを迎える。
調査の進捗状況は最悪。調査として成り立たなかった。真面目な話をしているのにまるで取り合ってもらえなかった。話しかけると誰もがまず黄色い声を上げ、人形のように弄び、情報ではなくジュースやお菓子を提供してくれる。
こんな時に透がいればもう少しやりやすくなるだろうが、彼女は側にいない。例えいたとしても頼ることは出来ない。カレンの捜索以外でこれ以上彼女を頼ってはいけない気がした。
マルコの机の上には飲み切れない量のジュースが並んでいた。この全てが差し入れだ。生真面目なマルコは貰い物を捨てられず、時間をかけながらもちゃんと消化していたがさすがに飲み切れないと判断し、残りを持ち帰り、透に譲ることにした。家で落ち込んでいるであろう彼女に少しでも喜んでもらおうという心遣いだった。
飲み物が主食だった昼食が終わり、調査を再開する。生徒とは話にならない上、情報を持っていない。教師、それも物部に話を聞いてみようと考え、職員室へ向かった。
職員室を目の前にして、窓からとある車が見えた。
「あ、あれは……!」
思わず声が出る。姉の次に恋焦がれる自動車が職員用の駐車場に停まっている。できるなら側でじっくりと鑑賞したかったが今は大事な用がある。しかしいつ間の悪さに定評のある車の主が現れ、カモメのように飛んでいってしまうかわからない。この機を逃したら次が来ないかもしれない。
「いけない、いけない。僕には使命が……」
とは言いつつもあれよあれよと車に引き寄せられてしまい、我に返った時には憧れの車の前に辿り着いていた。透の影響で良くも悪くも誘惑に負けやすくなっていた。
「待て、これは調査のためだ。先生と会える可能性が高い彼女の所有する車に行くんだ」
言い訳も透の影響で上手くなっていた。
そして、いざ、御対面。
「オーマイガァ!」
憧れの車を目の前にし、湧いた感情は喜びよりも嘆きだった。物の価値をまるでわかっていないオーナーに手に渡ってしまった車の惨状を目の当たりにした。
ウィンカーの下が塗装が擦れて剥がれて徹夜した後のクマのようになっていた。タイヤは未舗装の道でも走ったのか泥んこで、サイドシルはへの字に曲がっていた。極めつけに百葉箱のようにルーバー状になっているボンネットがレンガでも積んだのか、ぽっきりと折れてしまっていた。
「こんな……こんなことって……」
あまりの惨状に失神しかけたが何とか持ち堪える。傷だらけではあったが少年の強い憧れは消えなかった。
内装は整理が行き届き、シートにはシミひとつなかった。満身創痍ながらも純正のステンレス製のボディは鈍く光り、まだ走れると力強く主張しているようだった。
自分もこの車のように逞しい男にならなければ。そう決心した。
うしろ髪を引かれながらも職員室に引き返すマルコ。しかしその足を一旦止めた。
「ううう……!」
唐突な尿意が襲う。昼前から飲んでいた分がお腹を通り過ぎていた。
トイレはマルコにとって死活問題だった。マルコは思春期ゆえに女子トイレに入るのに激しい抵抗があった。性別がバレないようにするためにも入らなくてはいけないが、それでも仕切りはあるとはいえほとんど同じ空間内に異性がいるのは気恥ずかしくてならなかった。そのためいつも透に協力してもらい、中に人がいないことを確認してもらってから入るようにしていた。
しかし今日は頼れる相棒がいない。男性職員用のトイレを使うわけにも行かない。万事休す、と諦めかけたが旧校舎を思い出した。
マルコは早歩きで、そして内股で旧校舎へと急いだ。
我慢の限界の一歩手前で辿りつけたが、また新たな問題が発覚した。
囲いが撤去され、便器だけが並んでいた。小便用なら男子なら見慣れた光景だが、並んでいるのは大便用だった。おまけに窓枠は外され、風通しも見通しも良くなっていた。戻ろうにも我慢はできそうにない。意を決して便器に腰を掛けた。過去に油断してしまい立ったまま用を足している現場を透視され性別がバレた時から、最近は座るようにしている。
誰も立ち寄らないことを祈りながら、羞恥に耐えながら、用を足す。
「ふぅ……」
無事に用を済ませ、服装を正し、水を流してから手洗い場に向かう。入った時は気付かなかったが鏡が外されていた。いつも対面するはずの姉の形見が見えないのが少し寂しい。
蛇口を捻ると水が出てきた。手の甲まである袖を捲るともう一つの形見が出てきた。
「これも濡れないように外さないと」
ご機嫌斜めのケイトのことは今も気がかりだった。彼女は二時間目から無言を徹している。試しに水をかけて驚かせてやろうと思ったが子供じみているので、やはり濡れないように外すことにした。
石鹸を探すも見当たらないので、水だけで洗うことにする。
指先が水に触れる、その瞬間だった。
「んー!!??」
後ろから何者かに寄って羽交い締めにされ、口に布を押し付けられた。布から正体不明の薬品の臭いが感じ取った瞬間から睡魔が強襲する。
「んん……!」
恐怖に屈しそうになったが持ち堪え、暴れて必死に抵抗する。
不審者の脇腹に手を伸ばし、腕の力だけ振り払おうとしたが払えなかった。子どもの力では勝てなかったが彼には超能力があった。念動力を加えれば成人男性並の力を出すことができた。筋力と念動力を合わせ、全力で背中から後方の不審者に体当たりを食らわせた。
「かはっ」
不審者のうめき声が聞こえた。
口から布が離れ、背中の感触から不審者と距離を取ったとわかった。
顔を見ようと振り返るも、今度は強烈な力で床に叩き付けられた。距離を取っていたと思っていたので完全に不意を打たれてしまった。顔の側に不審者の物と思わしき眼鏡が落ちている。倒されてもなお、目だけで不審者を追う。しかし強烈な眠気で焦点が定まらず、人の形をかろうじて捉えるが男性なのか、女性なのかもはっきりとわからなかったが不審者が手の届かないところまで離れていたのはわかった。
どこかを掴まれて抑え込まれている感触はない。まるで自分の周辺だけ重力が増したようだった。
(これは……まさか……)
直感で理解した。腕ではなく、超能力で押さえつけられている。そして不審者は自分と同じ念動力者だ。
意識が遠のいていくが抵抗を諦めない。筋力と念動力で立ち上がろうとするが不審者との力量の差は大きく指一本動かせない。
抵抗も虚しく、薬品の効果が効き始め気を失ってしまった。
「……」
不審者が気を失ったマルコの瞼を開ける。ここまでしても反応がない。睡眠状態を確認してから、落とした眼鏡を拾ってかけた。フレームが歪み、鼻あてが微妙に浮いて気持ち悪い。
チャイムが鳴る。不審者はその音に顔を顰める。
「……ちっ」
舌打ちをした後、マルコを小脇に抱えて早々にその場を立ち去る。
白昼に繰り広げられた念動力者同士の対峙の目撃者はいなかった。
超能力の衝動で手洗い場から落ちた腕時計に気付く者はいなかった。
持ち主の危機でも腕時計は寡黙を貫いていた。
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