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マルコが料理店に着いてから、ずっとがっかりとした表情で品書きを眺めている。透は気に留めることはなく、漫画雑誌を読んでいた。
当初マルコは料理屋に連れて行ってもらえると聞き、日本ならではの寿司屋、焼肉屋など思い浮かべ、さらに箸が使えるかどうかを聞かれたので間違いなく洋食ではないことを確信し楽しみにしていた。だがしかし連れて来られたのは洋食でも和食でもなく、まさかの中華料理屋だった。日本に来て中華料理屋だった。学校の近くに建っているが客は自分たち以外いない。内装と外装が共に古く脂っこい中華料理ということもあり女学生で入ってくるとしたら透ぐらいだった。
「透さん……なんでここのお店なんですか」
久々の外食でかなり期待し浮かれてしまっていた。姉以外のとある人の言いつけを守り、アメリカでもハンバーガーすら我慢していた。
マルコは納得の行く理由が欲しかった。
「ここはね、とっておきの場所なんだ。漫画雑誌が充実してる」
「漫画! ここに来たの漫画目当てですか!」
納得の行くはずがない。冗談であってほしい。実は三ツ星レストランだったり、せめて昔、シェフが本場の中華街で働いていたとかそういう情報が欲しかった。
「そうだよ」
あっさりと認めた。
「すごいぞ、ここ。週刊だけでなく、月刊も揃えている。しかも発売日の昼には必ず最新号が置いてある。コインランドリーはこれぐらい見習ってほしいものだ」
「あの、漫画の話を力説してもらっているところ悪いんですか、ここのお店のメニューのオススメを教えて下さい……」
料理と関係ない話が長くなりそうだったので年上の女性の話だろうが流れを切らせてもらう。
「いつもラーメン半チャーハンセットを頼んでるからオススメとかないかなぁ。ぱっと見、サンマーメンとか美味しそうじゃん、秋刀魚とか入ってそうで」
料理の説明はまるで熱がない。
「……僕も透さんと同じのにします」
マルコは怒る気も失せて脱力した。透は注文を伝えると再び読書に戻った。
貸切状態だからか料理は早く届いた。エプロン姿のおばちゃんがお盆からテーブルに移す。
「ラーメン半チャーハンセット二つ、お待たせ」
ラーメンと半チャーハン、スープ。そして餃子が四つ乗った皿が一枚付いてきた。料理が届くと読んでいた漫画雑誌を本棚に戻し食事を始めた。勤労の後のご飯が思いの外、美味に感じられ箸が進み、ずずずと意図せず音を大きめに立てて啜る。
『啜る音やめてもらえないかしら』
突如、若い女性の玲瓏な声がした。その声は不思議と透の耳によく響く。
「あ、すみません」
反射的に謝り、今度は控えめに啜るもすぐに違和感に気づき、店内を見渡すが声の主の若い女性はいない。透視をしてもおじさんは屋外でタバコを吹かし、おばちゃんは厨房に引っ込んで隠れて携帯電話をいじっていて他には誰も隠れていなかった。ラジオやテレビの類も置いてない。
周辺を確認した後に再び大きな音で啜る。
『啜る音控えなさいって言ってるのよ、下品ね』
透は頭を抱えた。
「場末感が漂う古い建物だとわかってはいたが、ついに幽霊が出るようになったか……」
それは冗談で、透はマルコの巻いている腕時計に注目した。
「ケ、ケイトさん……ここでお話は」
マルコが慌てた様子で腕時計と会話を始めた。
「その腕時計喋れるのか……妖怪の類かな」
「……驚かないんですか」
「まあさっき、ちょこっと透視しちゃってね」
とは言うものの内心は通信機能が備わっていたことに少なからず驚いていた。腕時計を透視し、歯車とソーラーパネル、スピーカらしき部品が見えていた。わかったのはそれだけで他にも見たことがない部品が細かく、見てるだけで疲れてくるほど、びっしりと詰まっていた。どの部品が担っているのかギークでもエンジニアでもない透にはさっぱりわからず、そういうものなのだろうと丸め込んだ。
透は箸を止め、軽く身だしなみを整えてから、
「自己紹介が遅れました、里見透十六歳です。透視能力者です」
マルコの関係者なら特に危険はないと判断し、少々他人行儀な自己紹介を済ませる。それに対し腕時計は軽快に、
『あらあら、何でもかんでも透視しちゃうのね。まるで庭に我が物顔で入ってくる野良猫ね。早く餃子食べて中毒起こして動物病院に運ばれて頂戴。このピーピングトム』
毒を吐いた。
「あー……マルコ、この口の悪い人は誰なんだ。カレン・リードさんか」
「僕のお姉ちゃんはここまで口は悪くないですよ……この方はケイトさんです。時々腕時計越しのみでお話をするんです。彼女は説明しにくいんですけど僕の後見人というか保護者というか監視……相談役みたいな人です。僕が小さな頃に一度会われたことがあるようなんです」
「へえ……ところでピーピングトムってどういう意味?」
「えっと……日本で言う覗きでしょうか」
「出歯亀みたいなものか」
「それ、なんですか?」
「起源はよく知らない。でも慣用句としてある」
今のご時世に合ってるのか合ってないのか、スマートフォンを使わず高機能腕時計で会話をしている。
『別に紹介なんていらないわ、仲良くするつもりはないし。名刺もいらない、持ってなさそうだけど』
「マルコ、一刻も早くこいつを黙らせて。飯がまずくなる」
おろおろと困りだすマルコ。愛人と浮気してたら本妻が突入してきた男のように困り果てた。
「ま、待ってください。連絡をくれたってことはきっと大事な話があるんですよ」
『そうよ、大事な話よ』
「話って何でしょうか。出来るなら透さんを怒らせないような話をお願いします」
『マルコに音を啜って食べる下品な料理を食べさせるわけには行かないわ、今すぐ帰りなさい』
「え、えっと……それだけですか。もっと大事な話があるんじゃ」
『大事な話よ。預かってる子だけど躾はちゃんとするわよ』
ケイトの主張は容易に否定できたがその圧迫的な態度に押され気味だった。
「でもまだ一口も食べてないですし」
『返事は?』
「はい……わかりました……」
声だけで威圧され、持っていた箸を下ろそうとしたが透はそれを止めた。
「ヒステリー起こしてるババアの言うことは聞かなくていいぞ、マルコ。お前がいるのは日本だ、日本では麺は啜って食べるもんだ」
自国の文化を否定され、さらに御馳走を出した瞬間に帰るなんて非礼を許してはならない。
「で、でもケイトさんが……」
「それじゃあ一口だけで良い、食べていけ。それだけでいいから」
「ケイトさん、一口だけ良いですか」
『……一口だけよ』
マルコは再び箸を握った正しく完璧で優雅な箸の持ち方で教育が行き届いてることが見て取れる。麺を啜る行為に慣れておらず、レンゲを使いながら麺を口に運ぶ。
『食べたわね? それじゃあもう帰るわよ』
「……もう一口だけ」
箸とレンゲは止まらなかった。次は一口目よりも大量の麺をレンゲに乗せて冷まさずに食べる。
熱々の醤油ベースのスープが絡まったややちぢれた麺が舌の上を撫でながら過ぎる。コシの少ない柔らかなもちっとした食感。スープの味は濃すぎず薄すぎず、飽きさせも物足りなくもない絶妙なバランスだった。麺の中に薬味の刻みネギが紛れ込んでいて奥歯でしゃきしゃきと音を立てる。青臭さはなく、辛味の刺激が舌に残っているスープの味を邪魔するどころかさらに引き立てる。ネギの大きさすらも計算づくで刻んでいるのかもしれない。
マルコにとって、これは未知の料理。彼の知っているラーメンはカップ麺のみだった。ラーメンと名が付いているはずなのに今食しているラーメンは別次元で比べるのさえ失礼に感じる。
「おいしい?」
もはや透の声も聞こえていない。箸の持ち方は上品だったが、食べ方は良く言えば歳相応、悪く言えば豚のようながっついていた。食欲の前に理性など保つわけがない。一口でも舌を許してしまえば一気に付け込んでくるのが欲求というものだ。
今まで食事で我慢してた分を取り戻していた。夜にお菓子、ジュースが飲みたくなっても我慢していたのだろう。その鬱憤を今ここで晴らしている。
『……全くこの子ってば……』
「おやおやまだいたんですか、いじわるケイトばあさん」
勝利を確信し、からかい始める。
『……私はまだ十八よ。それにいじわるじゃないし。さっきはああ言ったけど本当は栄養バランスが気になっただけよ。何よ、ラーメンにチャーハンに餃子って。野菜はどこ。炭水化物だらけじゃない』
おもむろに橋の先で刻みネギを一枚摘む。
「あるだろ、ネギ」
『小さすぎるわよ!』
「まあまあ、アメリカだって肉&肉&肉で人の国のこと言えないだろ。ってかケイトさんはアメリカ人? 日本語上手だね」
『さあね、それほどうかしら』
彼女は苗字を名乗っていない。マルコも知らないようだった。
「誰からか頼まれてんの」
『そうね、強いて言うならカレン・リードからかしら』
カレン・リードを呼び捨てに呼んでいる。後見人に指定するほどなのだから信頼を築き親しい間柄なのだろうか。それと十八歳なら、もしもカレンが生きてたとしたらケイトと同い年になる。
「それは生きてる時に頼まれたの、死んだ時に頼まれたの」
『ご飯は冷めないうちに食べなさい』
ケイトは質問を無視する。直接対面していれば彼女の嘘を吐いているかどうか一瞬で暴けるが彼女の姿はない。
透にとって思考の透視はお茶等を買った時におまけで付いてくる興味のないキャラクターのおもちゃみたいな存在だったが、通用しないとわかると悔しく思えた。我ながら図々しい性格をしていると自嘲した。
「どうしても教えてくれないんですか、ケイトお姉様」
今度は下出に出る。
『私にラーメンを奢ってくれたら考えてあげなくもないわ』
「この場にいない人物にどうやって奢れというのか。食べたければ出前しろ」
『あら残念。ラーメンに興味があったんだけど、あなたは奢ってくれないのね』
「まるで私をケチみたいに言うな……そうですね、ラーメンは奢れませんのでせめて麺を啜る音だけでも楽しんでください」
『や、やめなさい! ほんとに啜ってる音、不快で苦手なの!』
効果は想像以上に効くようで本気で焦っている様子だ。どういう仕組みか不明だが、マイクは常時オンになっており、こちらの音を切るに切れないようだ。
「なんてね、そんな子供みたいな真似はしないよ。なるべく音を控えます」
ちゅるちゅるとストローで吸い上げるように食べ始める。
「……こんな食べ方してたら冷めるし伸びる」
ラーメンは若干冷め始めていたが美味には変わりなかった。
『ラーメンってそんな美味しいものなの』
「あ、本当に食べたことないの」
『啜って食べる印象が強くて食わず嫌いしてたわ。アメリカでもインスタント食品として食べられるけどね。でも、マルコが夢中になるようだし、きっと美味しいのね』
「アメリカにだって日本のラーメン屋があるらしいし、行ってみればいいよ」
『……そうね、行けたら行くわ』
「なんだ、行かなそうだな。ひょっとして住んでるところ、よっぽど田舎なのか」
『あんまりお喋りしてると冷めるわよ』
途切れかけた会話を繋いだのに一方的に切る。どうやら答えたくないようだった。失言のないように情報を小出しにしている。腹の探り合いにならないように壁を作っているよう。そんな雰囲気を透は感じ取り、どこか既視感を覚えた。
「透さん、餃子もっと食べていいですか!」
「全部食べていいよ」
律儀に半分残していた。躊躇いなく譲る。
「ありがとうございます!」
このテンションの高まりよう、恐るべし餃子。レンゲを放した手はテーブルの下に隠れて透の目から見ても少々行儀悪く見えたが今日のところは多めに見た。
すでにマルコ分の食器は空き始めていた。育ち盛りの男とはよく食べるもので見てるほうも気持ちよくなる。
そろそろ会計の準備をしなくては。透は財布を開き中身を確認する。財布の中は空っぽだった。
「……んっ」
まさかまさかまさか、飯を奢りに来ておいて一文無しとはそんなわけはない。今度は透視をして財布の中を要チェック。良かった、レシートの中に五百円玉が一枚隠れていた。一文無しではなかった……そういう問題ではない。五百円だけでは二人分どころか一人分も足らない。
「ごちそうさまでした」
マルコが満足気に笑っている。美味しいものを思う存分に食べた幸せに満ち足りた笑顔だった。守りたい、この笑顔。
「マルコ、食べ終わってたなら外の空気吸っておいで。涼しくて気持ちいいぞ」
「わかりました、外で待ってますね」
何の疑いもなくマルコは鼻歌混じりで外に出て行った。制服のスカートがふわふわと上機嫌に揺れる。その愉快なパレードの後ろ姿を見送った後、ため息を漏らしレジに向かう。
お金の準備はできていない。できていたのは本日の二度目の土下座の準備だった。
透は店から出ると外の暗さに少し驚く。太陽は舞台袖にはけて外は暗転幕で覆われていた。街灯が少なく、今夜の月はやや頼りない。そんな空の下、二人は並んで歩いている。マルコは今にもスキップを始めそうなほど上機嫌だった。
「また行きたいですね、透さん」
「あぁそうだな、また来よう。ってか行かなくちゃいけないな」
生徒手帳を担保にツケにしてもらうつもりだったが常連だったことが助かり、温情で担保なしのツケとなった。しかしタダ食いは後味が悪いため日を改めて払い直そうと透は決めた。また爽やかにあと腐れのない充実した漫画ライフを送るためにも必ず行かなくてはいけない。
少し先を歩くマルコに透は話しかける。
「気に入ってくれた? あの店」
「はい! どれも美味しかったです!」
疑うことも透視するまでもなく、彼の満面の笑みは真実を語る。内心を語ると一般の高校生が奢れる値段の料理屋が近所にあそこぐらいだから選んだのであって味に自信があったわけではなかった。
「んじゃまた行くか、ケイトさんに秘密で」
「そうですね、ケイトさんに秘密で」
『聞こえてるわよ、全く……』
「……怒ってます?」
マルコは恐る恐る尋ねる。
『……週一ぐらいにしておきなさい』
呆れてはいるが怒っている様子はなかった。
二人の距離が近づいたことを透は側で確認し、満足げに頷く。
「マルコはどこかホームステイしてるの。そこまで送るよ」
「駅前のビジネスホテルに滞在することにしてます」
「ブルジョアかよ……まあなんだ、公園で寝泊まりじゃないならいいか。それか砂浜にテント立てて野営とか」
「それも考えましたけどキャンプの経験がないので諦めました」
「やろうとはしたんだ……」
またここでも節約。透に負けず劣らずの倹約家だった。
「透さんはどこにお住まいなんですか」
「学校脇のオンボロな寮。畳だし風呂は追い焚きできない。誰も住もうとしないから家賃は格安なのが良いところ。でもやっぱ古いから私以外の部屋空いてるんだよね」
「それって寂しくなったりしませんか? 心細くなったり」
「特に感じないかな。テレビや漫画があるし暇になればとっとと寝ちゃうし」
「テレビや漫画あるだけで寂しくないんですか?」
「そりゃあまあ、そうだけど」
「透さんは大人なんですね……」
マルコは俯きながら寂しい表情をした。
「そうかな、皆そうだと思うよ」
「僕も見習います、立派な大人になるためにも」
そう言うと走りだし先に進んで振り返る。
「透さん、今日はありがとうございました! ここでお別れにしましょう!」
大声でそう言った。透は駅前まで送るつもりだったが、その前にマルコが勘付いた。駅から学校は遠い。今、二人は学校と駅のちょうど中間地点にいた。ここで別れるのが平等と言える。しかしマルコはまだ子供だ、お姉さんとして最後まで見送らなくてはいけない、という義務感から一歩踏み出すも、
「レディがこれ以上遅い時間を歩いちゃいけません」
ほうレディと来たか、と二歩下がる。レディ扱いされ良い心地になり、妥協し帰ることとした。追いかけても逃げそうだし帰ることにした。
「わかった、今日はここでさようならね」
無性に外国人籍相手にオシャレに英語で挨拶を決めたくなるも英語でさようならをなんと言うのか、ど忘れしてしまう。今日の別れ際にも言ったはずなのにそれすら出てこなかった。生徒の語彙力が中学生以下だと知ったら英語の担任は泣くに違いない。
「うん! さようならだ!」
透は早々に諦めて手を振り返し、身を翻し軽快に家路についた。
その後ろ姿を遠くからマルコは見送っている。言い残し、言い忘れはないはずのに、じっとその場に留まる。
『本当にレディ扱いなら家の前まで送ってあげれば』
ケイトはそう勧める。
「そしたら、なし崩しに家の中に引き込まれて泊められてしまいそうなので辞めておきます。ご飯ばかりか宿泊先まで提供してもらっては悪いです」
『そう。それじゃあ早く帰りましょう。いくら日本が治安が良いからって夜は危ないわ』
「そうですね、でも……せめて透さんが見えなくなるまでここにいていいですか?」
『そこまでご執心なのね、彼女に。あなたの姉に似てるの』
「いえ全然違いますよ……あ、でも……いや何でもないです」
『でもって何よ。カレンには内緒にしててあげるからケイトおばさんに教えなさい』
「絶対に秘密ですよ? ……滅茶苦茶なところはちょっと似てるかもしれません。でも違いますよ? 僕のお姉ちゃんはもっと峻厳で立派な人でした」
『わかった、絶対に話さないわ。それとずっと言いたかったけどそのお姉ちゃんって呼び方も止めなさい。子供っぽいわよ』
「はい……すみません……お姉さん、ですね」
姉の生前、彼女とはいつも英語で話し、呼ぶ時はいつも名前で呼んでいた。家族ではない他人が呼ぶ時と変わりない呼び方だ。弟でありながら、どんどん有名になり超能力者と成長していく姉と縮まらず離れていくだけの距離のせいで彼女がまるで別人のように思えるようになっていた。そんな距離を縮められるような気がする魔法の言葉を母から教わっていた。それが「お姉ちゃん」だった。親しみやすく姉を近くに感じられた。いつか機会があれば、お姉ちゃんと呼ぼうとずっと思っていた。絶好の機会が巡ってきたが虚しくもその直前に彼女は自分の前から姿を消してしまった。そんな悲しい過去がマルコにあった。
電灯の有無で透の姿が見え隠れする。
また明日会えるはずなのにどうしてか心細くなる。
だからお別れの前に留学初日から世話を焼いてくれた年上の女性に言わなくてはいけない気がした。
「透……お姉ちゃん……」
そう呟いた瞬間、透は突然スカートの裾を引っ張られヘソ周りが締め付けられ前のめりになって転びかけた。
「うおっ!!! なんだ!!!!」
透は素っ頓狂な声を上げた。その怪奇現象は一瞬で止んだ。
「今のは……食べ過ぎたから……じゃないよな」
お腹を擦りながらそう呟いた。腹八分目ぐらいで満腹にはなっていない。誰か引っ張ったかと思って振り返っても誰もいやしない。手のひらに乗るぐらい小さくなったマルコだけが遠くにいた。
「まだあそこ……」
同じ場所に突っ立っている。一歩も動いていない。
「今のってもしかして……」
スカートの裾を念動力で摘まれたことを思い出す。
「でもまさかな、この距離だし」
遠く離れているのに念動力が届くはずがない。カレン・リードほどの実力者ならともかく、未熟な彼の力だとは想像できない。
何となく手を振ると彼が手を振り返す。華奢な手首で腕時計が上下する。透はとある悪戯をふと思いつく。それはあまりにバカバカしく、幼稚な悪戯だったが、思いついてしまったばかりに実際に実行してみたくなった。
「……よしっ」
マルコからの視点だと、透が転びかけたかと思うとおもむろにストレッチを始めていた。足でも挫いたのだろうか、という心配をよそに彼女がこちらに向かって走りだし、こちらに向かってくる。膝を高く上げ腕を振り回してスカートの翻りを気にしていない。あれは間違いなく速い。
「え、え、透さん……」
なんというか身の危険を感じたマルコは背を向けて走り出した。チーターに追いかけられる兎のように、本能がそうさせた。
「マルコおおおおなぜ逃げるううううう」
街頭の少ない暗闇のせいで猛スピードで追いかけてくる影がお化けに見える。
「透さんこそなんで追いかけてくるんですかああああ」
「お前が逃げるからじゃああああ」
勝負は一瞬で着いた。
「金髪オッドアイ女装男子ゲットだぜ!」
「放してください!」
必死に抵抗するも手のやり場に困り思うように行かない。胸に触れないよう抵抗するので効果は薄い。
「何言ってんだ、寂しがってたくせに~」
頬にキスをしようとするがすんでで止められる。
「寂しがってなんかいません!」
「まあまあ。せっかく留学してきたんだし、ホームステイだよホームステイ」
「せめてホテルに行かせてください!」
「まあ! この歳でもう女の子をホテルに誘うなんて!」
「そういうつもりは全くありません! 荷物を取りに行くだけですから!」
こちらは通じた。からかう相手は初々しい反応する人に限る。
そして一行は一旦駅前のホテルに荷物を取りに行き、透の家に向かうことになった。
「自分の家だと思ってくつろいでね」
透は決まり文句を言うも、
「……空き巣に入られたんですか」
マルコはくつろごうにもくつろげない。そう言うのも無理はなかった。彼女の部屋は散らかりに散らかっていた。本棚があるのにその下に文庫本サイズの漫画が作品、巻数もバラバラに積み重み。テーブルがコンビニ弁当のゴミ置き場。押し入れは開いたまま。布団は畳まれているがその上に畳まれていない洗濯物の山。テレビ周りに落ちている、後で整理しようと見えるところに置いてたであろうレシートは埃を被っている。
彼の中の女性神話が音を立てて崩壊する。女性の部屋は必ず綺麗に片付き、整理整頓され、果実の香りがほのかに舞っているとばかり思っていた。あれは姉限定の話だったのかもしれない。世の女性は、もしくは日本の女性はこんなにもだらしないのだろうか。
家の掃除が習慣だった彼は自然ときれい好きな性格になっていた。こんなに散らかっていた部屋に人を泊めようと思う神経を疑う。
「私は本気を出してないだけだ」
初対面の年下の男子に怪訝な顔にされながらも怠惰な部屋の主はふんぞり返る。
「部屋の整理に本気も手加減もありません! まずはテーブルの上の物を片付けましょう! その次は本棚です!」
「えー……今日は疲れたから明日にしよう? ね?」
「今日できることを明日に持ち越してはいけません!」
「もう夜中だしあんまり騒ぎすぎるとご近所に迷惑が……」
「この寮、透さん以外には住んでないんですよね?」
笑顔だったが目が笑っていない。
「……うぃっす」
「返事ははいでしょ! 本棚の次は台所です! その次はお風呂! 最後にトイレです!」
「それって全部の部屋じゃん……」
説教をされながら片付けを手伝う。おかしなことに宿泊客が手伝うのではなく、住人が手伝う。
マルコがテキパキと送ってくる指示をダラダラと実行する。主夫は整理整頓にうるさかった。可愛い顔して将来は亭主関白になるかもしれない。
片付けが終わる頃には日を跨いでいた。
「マルコ先生、本日はありがとうございました。つまらないものですがお納めください」
本日三度目の土下座。そして枕を添える。枕は一つしかないので透は折った座布団を枕にする。透は敷き布団、マルコはベッドで寝る。透はいつもベッドに寝るが、アメリカ育ちの客人に気を使い、親しみ深いベッドを貸した。一応ホームステイ中なので日本の布団で寝かせてあげるべきだがそれはおいおい体験させていく予定だ。
透は心地よく布団に寝転がっていた。布団の中はいつもより気持ち良かった。そう感じるのは疲れているからであろう。学校を走りまわったのもそうであるように、話し疲れて舌辺りがぴりぴりし喉が痛んでいる。
朝目覚めたら舌や頬を含めて全身が筋肉痛になっていそうだ。
もう一方のマルコは眠るにも眠れなかった。初めて来る場所で何もかも初めての体験の後で馴染みのあるはずのベッドの上でも落ち着かなかった。枕もスプリングも悪くない。だけど自分のものでも姉のものでもない透の香りがした。
落ち着かない理由を客観的に考える。不安で眠れないのだろうか。姉に会えない不安があるのだろうか。物体だけでなく、思考の透視もできる突然変異な協力者が側にいて心強いのに。
それなら眠れないのは協力者が信用できないからだろうか。それも違うような気がした。
起き上がり、ベッドの下に横たわるその協力者を見下ろす。思わず息を呑む美少女だった。振る舞いや言動は少々乱暴でがさつな点があるが、静かに寝息を立てていると白雪姫のように見える。高原に咲く一輪の花のような女性だった。高嶺の花と思いがちだが実力のある超能力者なのにそれを鼻にかけなかったり初対面の自分に親身になってくれたり親近感が湧く人柄だ。
きっとカレン・リードと同じようにクラスの人気者に違いないと、最初に会った時に彼女の美貌に見惚れながらそう思っていたが現実は全然違った。彼女に友達らしい友達はいない。会話らしい会話をしたのは担任教師のみ。それ以外、行動するときは常に一人だった。周りから隔絶されている様子はない、反目もない。むしろ透が自分を透明人間であるかのように振舞っている節がある。そうしているのはきっと超能力のせいだろう。その超能力者であることは公言しているがその能力は隠していた。
掃除ができないことと一緒で、能力をひた隠しにする行動がマルコには理解ができなかった。自分は身を隠すため超能力者であることを公言できないが彼女は違う。堂々と超能力を名乗って活躍できるというのにそれをせずにこそこそしている。
いくら考えても埒が明かないので諦めてベッドに沈む。シーツに顔を埋める。ふわっとベッドの主の香りがした。眠くて寝たいのに昼寝しすぎた日のように目が覚めてしまう。
眠れない夜は初めてではない。姉が姿を消した直後の夜はいつも眠れなかった。姉を思い出してしまい、眠れなかった二年前。
そう、あれは二年前。長期休暇で姉と二人で海外に行く予定だった初日のことだ。行き先は母親の生まれ故郷である日本だった。
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