入院

 なじみのある、サイレンの音と体に感じる断続的に続く小さな振動で私は目を覚ました。

 天井が低く、体の左側はすぐに壁となっている。


 体が動かない。唯一自由な頭を起こして足の先の方に目をやると、私は毛布を掛けられその上からベルトで簡易ベッドに固定されているのがわかった。


「真央ちゃん、気がついた? でも、このまま安静にしていてね、もうすぐ病院に着くからそれまで我慢して」


 声のする方に顔を向けると心配そうに私の顔をのぞきこむ母親と目が合った。

 私の右手に温もりと優しい圧迫を与えているのは、彼女が両手で包み込むようにそれを握っているからだ。


 母親のとなりには白い服を着て、額に赤十字マークが書かれた白いヘルメットをかぶった男性がいる。彼は手のひらサイズの四角いマイクを口に当て、私の意識が戻ったことをどこかへ報告している。私は空腹と混乱のあまり気を失って倒れ、救急車を呼ばれたようだ。私は生まれて初めて救急車に乗り病院へと運ばれている。


「迷惑かけてごめんなさい」


 私は謝った。


「そんなこと良いから、気にしないで。大丈夫、大丈夫」


 彼女は私の手を握っていた両手から右手だけを離し、それで優しく何度も叩いた。

 私と母親の救急車の中での会話はそれだけだった。


 救急車が病院につくと私と母親は引き離された。

 私だけがストレッチャーで別室に運ばれると、まずは医者による触診と問診が行われた。

 それが終わると私の体は次々といろいろな機械による検査が行われた。


 機械による検査が終わると担当の医師が中年の女性からおじいさんへと交代した。

 この人に体のあちこちを触られるのかと思い身を固くしたが、彼はベッドに横になっている私にいろいろな質問をするだけだった。


 生年月日、住んでいた街のこと、日常、親のこと、できるだけ怖がらせないように笑顔で私の話を聞いている。話を聞き終えた彼は笑顔を消し「やはり・・・・・・」と一言つぶやいた。


「何かの病気が見つかったんですか?」


 私の問いに彼は私の心配を打ち消すように再び笑顔を浮かべた。


「いや、何でも無いよ、君はどこにも異常が無いようだ。あえて言うなら診断名は「栄養失調による一時的な貧血」だね。点滴でも良いけど胃腸にも異常は無いし、今それを治療すべく食事の用意をさせているから、もうちょっと待っててくれ」


 食事が出来ると聞いた私は、病院に連れてこられた緊張が解け、お腹が大きく鳴った。


 私は窓が無く、一方の壁がガラスで隣の部屋から丸見えになっている、何に使うかわからない機器とベッドが並ぶ物々しい部屋に運ばれた。どこにも異常が無いと診断されたはずなのに、私は薄い青色の入院着を着せられ一応ベッドに入るように言われた。


 おとなしくベッドの中で布団をかぶって横になっていたが、しばらくして鼻腔をくすぐる良い匂いで私は飛び起きた。女性の看護師さんが食事をのせたワゴンと一緒に部屋に入ってきたのだ。昨日のお昼からブラックのコーヒーと水だけしかお腹に入れていない私の口の中に、よだれがあふれた。


「おまたせしました」


 彼女はベッドの上で使えるキャスター付きのサイドテーブルを持ってきて、その上に運んできた学校の給食に使うようなプラスチックのトレイをワゴンから移した。

 トレイの上には肉じゃがと何かのフライ、白ごまが振りかけられたほうれん草のおひたし、湯気が立ち登るスープが入ったお椀がのっている。彼女はその横に細長い箱に入った牛乳と透明なペットボトル入りの水を置いた。


「いただきます」


 私が手を合わせると「どうぞ召し上がれ」と言って彼女は部屋から出て行った。

 まずはお椀を両手で持ちあげ、口をつけゆっくりと中身をすする。

 具はタマネギとかき玉だけのシンプルなコンソメスープが、私の口からのどを通って空っぽの胃袋へと注ぎ込まれる。塩分の刺激とスープの温かさがそこを中心にしてさざ波のように体の隅々にまで伝わる。  


 覚えているのはその最初の一口だけだった。後は何も覚えていない。気がついたらトレイの上の物はきれいになくなっていた。

 人心地付いた私はペットボトルの水で口をゆすぐように飲んでいると、ふと視線を感じてその方向を見た。隣の部屋に母親とおじいちゃん先生がいて、彼らとガラス越しに目が合った。


 いつから見られていたんだろう。

 部屋に誰もいないと油断して、意地汚い食事風景を披露してしまったようだ。それをしていない自信が無い私は羞恥心で体が熱くなりうつむいた。


「満足出来たかい」


部屋に入りベッドのそばに来たおじいちゃん先生は、私の食事作法に触れることはなく、笑顔で食事の感想を求めた。笑顔なのは意地汚い私を見たせいでは無いようだ。


「ええ、お腹いっぱいです」


 私はお腹をさすって答えた。


「ならけっこう」

「ごめんなさい、心配かけてしまって」


 私は先生と一緒に部屋に入ってきた母親に謝った。


「私達の方こそごめんなさい。先生に聞いたわ、エネルギー不足、お腹が空いたっていう状態だったのね、全然知らなかったわ。それならそうと早く言ってくれれば対処出来たのに」

「みんなたべていないから、私だけ食べたいとは言いだせなかったんです」

「その事についてちょっと話があるんだ。ちょっと外に出てみないかい」


 おじいちゃん先生は私と母親を食後の散歩に誘った。

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