ボーイフレンド

 飛び出した勢いで力の限り走った。とにかく家から遠ざかりたい一心で。走る力が尽きるとしばらく休んで息を整えた後歩いた。飛び出したはいいが、行く当ても無ければ助けてくれる人もいない。


 気がつくと私が通っているのとは別の中学の前だった。校門からは私と違う制服を着た近い年の子達が、まばらに出入りするのが見て取れる。

 古田くんだ。

 縁もゆかりも無いはずのその中学校の校門の前に、見知った顔を見つけた。

 無意識に私の足はそちらに向かった。彼は校門の中の方を注視していて、背後から近づく私に気がつかない。あと一歩近づけば彼の肩に手が届きそうだというところで私の足が止まった。

 女の子が校門の中から走り寄ってきて、私より先に彼に声をかけたからだ。

 彼も返事の代わりに軽く右手を挙げた。


「待った?」

「うん、待った」

「もう! そこは普通、今来たところだよ、でしょ」


 二人は仲が良さそうだ、彼は彼女を待っていたのだろうか。

 彼女は彼の少し離れた背後から視線を送っている私に気がついた。


「何か用?」


 古田くんも彼女の視線を追ってこちらを振り返り、そこに立っている私に気づき笑顔を向けた。


「あ、唐沢さん。こんにちは。こんな所で会うなんて奇遇だね」


 彼は女の子を連れてこちらに寄ってくる。


「この子だ~れ?」


 彼が私の名前を呼んだ事に不審を抱いた彼女は、訝しげに私を見た。


「この人は唐沢真央さん、同じ中学の人だよ」

「ふ~ん」


 古田君の紹介を聞き、彼女は値踏みするように私の上から下まで見回した。


「それで、唐沢さん。この人は有田優さん」


 右手の平で彼女を差し私に紹介した。


「どうも~、優で~す。古田光の恋人やってま~す」 


 そう言って彼女は彼の左腕に自分の右手を絡ませ、左手で作ったピースサインを私に向けた。


「え? 恋人?」


 私は口を開けたままそれ以上何も言えなかった。


「ほら~、彼女目が点になってる。なあに~、光。浮気は駄目よ」


 彼女は古田君の脇をつねった。


「いてて、そんなんじゃ無いよ、彼女はただの知り合いさ」


 彼は明確に私との特別な関係を否定した。


「信じらんな~い」


 彼女は横を通り抜け、私たちをそこに置きざりに行ってしまう。


「ちょっと待って」


 古田君は慌てて彼女を追いかけた。


「君のお母さん怖いね」


 すれ違いざまに彼はそれだけをすばやく私の耳にささやいた。当然てっちんたちの親に言ったんだから、その合コン相手の男の子の家にも行ったのだろう。教師からも彼らは何か言われたのかも知れない。


「信じてくれよ。俺の彼女は君だけだよ」


 彼女は本気で怒っていたわけじゃ無いようで、彼はすぐに追いついた。

 彼が追いつくと彼女はまた腕を絡め、二人はそのままこちらをふり向かず私から離れていった。


「あいつ、南中の古田だろ」

「あのスケコマシ、どうせ有田のやつも飽きられてすぐ捨てられるだろうさ」


 そこに立ち尽くす私の耳に、通り過ぎる男子達の会話が聞こえる。


 確かに私達お付き合いしてないけど。

 合コンの時ちょっとお話ししただけの間柄だけど。

 なぜ私に思わせぶりな態度をとったの。

 彼女がいるくせに合コンに来るってどうなの。

『こんな所に来る男なんて頭も尻も軽いやつばかりやで』

 てっちんにそう言われたときそれは偏見だ、と私は思った。でも彼に関してそれは正しかったと言える。彼は場慣れしているって私は彼女たちに言ったじゃ無いか、なのにそれをすっかり忘れて浮かれてバカみたい。


 私は上着の内ポケットに手を入れた。そこにまるでお守りかのように入れてあった、彼がくれた自身のアドレスのメモをとりだし、その場で細かく破り捨てた。

そして当てもなく歩いた。とにかくこの場から離れたかった。


 学校からも塾からも親からも友達からも、この街から離れたかった。


 私は歩いた。

 ただ歩いていたのでは無く、足は南の方に向かっていた。

 そこには前住んでいた街がある。そこには幼稚園から小学校までを一緒に過ごした、たくさんの友達がいる。今もまだ私の家族が住んでいた団地に残っている人がいるだろう。


 携帯電話なんか持って無くて当然。男子も女子のへだても無く、暗くなるまで遊んでいたあの時代。両親が共働きだったのでよく上がり込んではお菓子をもらっていた、お隣のおじいちゃんとばあちゃん。

 まだ家族が仲良しだったあの街に、家族が笑顔だったあの部屋へ帰りたい。

 この間の合コンでお小遣いもかなり使ってしまったので、公共機関を使うお金が無い。 そのときの私は一人で生きていくつもりだったので交通費に費やすつもりはなかった。


「うう、寒い」


 私の体に一陣の冷たい風が打ち付けた。

 絶望に胸と頭がいっぱいだったが寒さで頭が冷えた所為だろうか、自分は時間を忘れ、全く知らない人気の無い山道を一人で歩いているのに気がついた。

 辺りを軽く見回しても家の一軒もなく人工の光が一切無い、へんぴな場所だ。自分がどこから来たのか帰る方向さえわからない。


 辺りは暗く、足下さえおぼつかない。

 人気の無いところに一人でいることに不安を感じた途端、追い打ちをかけるようにが足は疲れで重くなり、じんじんとした痛みが断続的に走る。


 お腹が空いた、そして寒い。突発的な行動をとってしまった事への後悔の念が私を襲う。

 降ってきた雨がさらに追い打ちをかける。手ぶらで飛び出してきたので当然傘なんて持っていない。このままではずぶ濡れになってしまう。辺りを見回し雨宿りの場所になりそうな高い木を探した。


 運良く道の横に工事現場によくあるプレハブ小屋を見つけた。建物の前には休工中の看板があり、今は使われていないようだ。

 引き戸の取っ手にそっと手をやり力を込めるとそれには鍵はかかっておらず、ガタガタと音がしてドアは横に開いた。


「おじゃまします」 


 小声で言ったが中から返事は返ってこなかった。

 開いたドアから静かに中に体を滑り込ませるとたばこのヤニの匂いが私を襲った。

 若干咳き込みながらベニヤ板の床をギシギシ言わせて中を歩き回って調べると、広さは学校の教室くらいの大きさで、部屋の中には会議室にある三人ぐらいが座れるキャスター付きの長い机と、金属製の折りたたみができるパイプ椅子が並んでいるだけで人は誰もいなかった。


 壁に電気のスイッチを見つけ、押してみると天井に並んだ蛍光灯に一斉に灯がともった。 思ったよりその灯はまぶしくこの光に気づいた工事現場によくいる気性の激しい男の人が、部外者の私を排除するために、怒鳴り込んで来ないかとビクビクしたが、しばらく待ったがそれはなかった。

 このプレハブ小屋は中だけでは無く周囲にも人はいないようだ。


 ひもを引いて二つあった換気扇の両方を回し、ヤニ臭い空気を外に追い出し、壁にくっついているエアコンのスイッチを操作し、最高温度の暖房に設定した

 その大きいエアコンは最初ガタゴトと大きい音で強い冷たい風しか吐き出していなかったが、それは少し待つとあたたかい風に変わった。


 あたたかい空気が充満し、代わりに脂臭い空気が部屋から薄れる。

 人心地つくと私は全身に疲労を感じた。

 体を休めるため、椅子はたくさんあったがそれらは使わず、靴を脱いで机の上に直接座り、そこに膝を抱えてうずくまる。


 他に何もすることが無く時間だけが過ぎていく。

 雨の音を聞きながら働かない頭を使ってこれからどうするかについて考えた。


 今頃家では出て行ったまま帰ってこない私に大騒ぎしているだろうか。

 案外いなくなってほっとしているかもしれない。

 母はてっちん達四人に所在を確かめたりしているだろうか。もううちの娘と付き合うなといっておきながらそれはないだろう。もしそれをしてたらこんなにおかしい事は無い。携帯が無いので連絡の方法がないことに気がつき、持たせていなかった事を後悔しているだろう。いい気味だ。

 

 体の疲労がうすまり考える余裕が生まれたと同時にお腹がペコペコな事にも気づいた。

 机から降り靴を履き、再び部屋の探索にはいる。

 何か食べ物は無いかうろつき回って探したが、この部屋には椅子と机と灰皿以外めぼしい物はない。


 それでも隅から隅まで探索した結果、賞味期限が切れたショート缶のブラックコーヒー一本を見つけた。


 その黒い鉄の缶を手に持ちしげしげと眺める。 

 缶に書かれている内容量の説明のところには砂糖もミルクも表示されていない。つまりこれらは入っていない。それ以前に私はコーヒー自体飲んだことも無い。

 お腹がすいていたが喉も渇いていたので仕方なく飲み慣れないそれに挑戦することにした。


 プルタブを引き開け、そこに鼻を近づける。匂いだけでも苦い。

 開け口を見つめてしばし逡巡したあと、そこに口をつけて傾け、中の液体を一気に喉に流し込んだ。

 その苦みに顔が引きつる。

 これが旨いと感じられるのが大人なんだろうか。私が大人になるのは大分先になりそうだ。


 大人の階段を一歩登った後、さらに口に入れられるような物を探したが他には見つからなかった。

 探索は切り上げて本当に他にすることもないので電気を消し、固い机の上に横になった。缶コーヒー1本では満腹になるはずもなく、空腹を抱えたまま眠りについた。


 雨はさらに激しくなり、屋根を叩くその音が直接室内に響きわたる。

 これからどうしたらいいかわからない。でも今は雨と夜のおかげで私はここから動かないでいい理由があった。

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