第二章 ある少女の少し前の日常

家族

「漫画なんて書いていないで勉強しなさい! 何度言ったらあなたはわかってくれるの!」


 ノックもせずいきなり私の部屋に入ってきた母は、机の上にある書きかけの漫画の原稿を見て、それを指さしながら高い声を張り上げた。

漫画を書いている、といっても大学ノートにシャープペンで走り書きした落書きでしかない。


「勉強ならちゃんとしているよ! 言われたとおり行きたくともない塾にも毎日行ってる!」


 私も椅子から立ち上がって向かい合い、母に負けないくらい声を張り上げて反論した。


「勉強がまだ足らないって言ってるの! 塾に行くなんて今時当たり前でしょ、そんなの頑張ってるうちになんて入りません。世の中にはもっと頑張っている人がいくらでもいるのよ。漫画なんて描いている暇があるのなら、その時間も勉強にあてられるでしょう」

「息抜きに少しぐらい漫画を描いても良いでしょう!」

「今頑張らないと苦労するのはあなたなんですからね。今が一番大事なときなんだから」

「お母さんは口を開くとすぐに勉強勉強としか言わない。世の中には好きなように生きている人もたくさんいるよ、マンガでご飯を食べている人もいるし」

「そんな夢物語は言うのは止めなさい。知っているでしょう、そんな夢を掴めるのはほんの一握り。そんなもの目指したところでほとんどの人は漫画家になれずにその世界から退場することになるの。夢を追い続けていた結果、もうだめだと現実に返ったときはもう取り返しができないところにいるの。そのあとは社会から見放され、底辺を這いずり回るように生きるんです。私は母親として、娘にそんな生き方をして欲しくないからうるさく言ってるんです」

「私の人生なんだからどう生きても良いでしょう。たとえ底辺を這いずりまわることになっても後悔はしない。お父さんなんか大学を中退して世界を旅して歩き回った。好きなように生きているよ」

「だから見てわかるでしょう、そんなリュック一つ背負って世界を歩き回った、なんて経験が何の役にも立たないのが。結局は世の中は学歴。見てみなさい、お父さんは同期に出世でどんどん抜かれて給料は全然上がらない」

「私はそのお父さんの子なんだから勉強できるわけ無いよ」

「だ、か、ら、それを努力で何とかしなさいって言ってるの。頭のできが悪いなら、せめて時間をかけてそれを補えば良いのよ」

「なんだいなんだい、こんな夜中にそんな大声を出して。ご近所に迷惑だろ」


 父が私の部屋に顔を出した。ドアは母が入ってきたときに開けっぱなしだったので、家の他のところにいた父にも私達の言い争う声が聞こえたのだろう。

 母は今度は父に鬼のような顔を向けた。


「ご近所に声が届くほど小さい家にしか住めないのは、あなたの稼ぎが悪いからです!」

「小さくても一軒家に住めるだけで十分だろ。それとも前のように壁の薄い団地の生活に戻りたいというのかい」

「一軒家と言ってもピンからキリまであります。そしてうちは最低のほう」

「君は最低とか言うけれどもっと下なんて探せばいくらでもいるだろう。今世界では一日の収入が百円なんて家庭がいくらでもあるんだ。一人百円じゃなくて一家族で百円なんだよ、それに比べたら俺たちはなんて恵まれてるんだ」

「ここは日本です! そして私たちは日本人です! なぜあなたは毎度毎度極端な例を出すのですか! いちいち海の向こうの国を引き合いに出して、ご近所にはアフリカの事なんて気にしている人なんていません。そんなのただの現実逃避です。日本人は日本人同士で比べ合い、順番をつけあうものです」

「君はご近所の目を気にしすぎだよ。一日三食食べられて屋根があるところに住める。それでいいじゃ無いか、贅沢を言っていたらきりが無い」

「贅沢なんて言っていません、私は日本で平均的な生活をしたいといっているんです」

「それを贅沢だと言ってるんだ、手に入らないものを見上げて欲しい欲しい欲しいっていつまでも指をくわえてみてるなんて。世界にはパン一つ手に入れるのに苦労している人が何億人もいるんだぞ」

「あなたは世界で比べたら贅沢な生活をしてると言ってるのでしょう。でも実際私たちは日本では下の方の生活をしている。だいたいあなたはこんな早い時間に帰ってきて。残業をしてくれば多少は生活が楽になるのに」

「仕方ないだろ、会社は残業代を出したくないから早く帰れと言うんだから」

「だったらアルバイトでもすれば良いのよ」

「おまえ、まだこれ以上俺に働けというのか。大体副業は会社の規定で禁止されてるよ。君は真央に生き方を押しつけすぎている。学歴などなくとも女の子は結婚したらいい」

「いまどき専業主婦なんてあなたは考えが古いわ。もう黙ってて、真央の教育に口を挟まないで」

「口を挟むななんていうけど何の権利があって言っているんだ、真央は俺の娘でもあるだろう」


 私と母の言い争いは、完全に父と母の言い争いへと変わり、母の愚痴のターゲットは父へ移った。


「お風呂に入ってくる」


 私は言い争いを続ける二人を部屋に残し、着替えを持って部屋を飛び出した。

 二人の言い争いに加わるのも、この言い争いをただ聞いているのもうんざりだ。 そもそも二人の言い争いはいつも内容が同じでそらで言えるくらいだ。


 脱衣所で衣服を脱ぎ捨て、かけ湯もせずに湯船に身を横たえると、私の耳に二人の言い争いがまだ聞こえてくる。母の言うとおり安い建売住宅で壁が薄いせいか、二人の怒鳴り声が二階の自分の部屋から一階の風呂場にまで聞こえてくる。あと三十五年ローンがあると、この家に不満のある母は常々零していた。それはあと最低三十五年この家に住まなければならないということだ。


 うんざりだ、早くこの家を出たい。

 団地に住んでいた頃の両親の仲はこんなでもなかった。

 築40年であちこちコンクリートが剥げた、エレベーターの無いぼろい五階建ての最上階に私達は住んでいた。その六畳二間に小さなキッチンのついた一室で、私は父がする若いときに世界を旅した話をいつも笑顔で聞いていた。その頃の母もそれを笑って聞いていた。


 物心ついたときには私はそこに住んでいたが、父の話もそこの窓から見る田畑に小さな森が見える景色も好きだった。この家の二階の窓から外を見ても、隣の家の壁しか見えない。


 風呂桶で十分体を温めると洗い場へと体を移した。安物のプラスチックの椅子に座ると正面の壁には鏡があり、その中から地味な顔をした女の子がつまらなそうな顔でこちらを見ている。水分を含んだ髪の毛はまとまらずぐしゃぐしゃになっており、鼻は低く目も大きくなく胸も貧相だ。シャワーのコックをひねると腹立ち紛れにヘッドをそれに向けた。しかし、そのつるつるした表面を洗っただけで、湯が全てしたたり落ちると、直前のように地味な顔の少女を映し出し、消し去ることはできなかった。


 母の言うとおりこの世には産まれながらに恵まれている人がいる。特に訓練をしなくても足が速かったりスポーツが上手かったり、勉強をしなくても頭が良かったり、努力しなくても足が長かったりスタイルが良かったり、産まれたうちがたまたまお金持ちだったり。


 そしていま鏡に映っているのは恵まれていない子だ。産まれた家は金持ちではない、そもそも親を見ればわかる。頭がいい人と美人な人の遺伝子を持っていない。美人で得をする人がいる。面と向かって言わなかったけれどそれもお母さんの子だから将来望み薄だ。


 私は地味は地味なりにせめて清潔にしようと丁寧に体と髪を洗い、再び湯船に身を沈める。

 二人の言い争いがまだ聞こえる。もう聞きたくなくて頭をお湯の中に沈めるがまだ音は完全に遮断できない。

 世界は私に優しくしてくれない、世界なんて、人類なんて滅んでしまえば良いのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る