一日の終わり
うちに帰ると玄関脇に鎖に繋がれている犬のタロウが、私の帰りを全身で歓迎してくれた。
「きゃ、止めてタロウ」
アイスの匂いがするのか盛んに私の顔を舐めてくる。
「散歩行こっか」
私の言葉を理解してるのか、尻尾の回転がさらに速くなる。家に入ると先に帰っていた妹がリビングから顔を出した。
「おかえりー、お姉ちゃんどうしたの?」
「どうしたって何が?」
「ちょっと怖い顔をしてる」
慌てて顔に手を当てる。自分でも気がつかなかった事に妹は気がついたようだ。私も男の人を振るというのは初めての経験だった。彼のことはなんとも思っていないとはいえ、ちょっと気にはなっている。
「何でも無いよー」
両手で顔を隠し誤魔化すように顔をマッサージしてこわばりを取る。手を離して笑顔を彼女に向ける。
「なら、良いんだけど、変な姉ちゃん」
「それより一緒にタロウのお散歩に行こう」
「うん!」
元気よく返事する妹を残し、着替えをしに2階に上った。普段着に着替え玄関に行くと妹は散歩ヒモを持って待っていた。
「明宏はどうする?」
外に出る前にリビングで寝そべってゲームをやっているにいる弟に一応聞いてみた。
「誰が姉や妹と一緒に出歩くか。かっこ悪い」
と、予想通りの答えが返ってきた。
「お待たせタロウ」
玄関を二人で出ると、妹が手に握っている散歩ヒモを見て、タロウは早く散歩に連れていけとばかりに大きく吠えた。
「ちょっと待ててね」
華加から散歩ヒモを受け取り、タロウの首輪から犬小屋に固定してあるチェーンを外し、お散歩用ヒモにつけかえるとタロウは一気に外に飛び出そうとした。
「こら、タロウ。危ないでしょ、車にぶつかるよ」
何とか全身を使ってヒモを引っ張りタロウを押さえた。
タロウは大きく口を開け舌を出し息を弾ませながら、私達をその強い力で引っ張っていく。私と妹は彼に繋がれた散歩ヒモを持っているだけだ。
お散歩のコースは特に決まっていない、毎日違う。
気分がよければ少し遠くまで行ったり、天気が悪ければ短くなったりもする。
道すがら近所の人達に挨拶をされた。妹はこの街に長く住んでいるが私はこの春やってきた新参者だ。それでもようやく覚えた顔を見ては妹と一緒に簡単な挨拶と愛想笑いを振りまく。
今日もタロウの散歩にエチケット袋を持って来なかったが問題は無かった。最初の頃はちゃんと持ってお散歩していたけれど、使用されることがないので今は持つことはない。
お散歩から帰ってきたらタロウを元通りお散歩ヒモから犬小屋のチェーンへとつなぎ替えた。お散歩のあとはこれも日課のブラッシングだ。
大型犬と中型犬の間くらいの大きさのタロウは、おとなしく座ってその全身を覆う白い毛並みを毛繕いされている。
妹が私の作業を見てすぐにまねをしたがるので、すぐに交代した。妹の不器用なブラシの入れ方にタロウは不満を表さず、ただ座って正面を向き、口を開けて舌を出していた。毛繕いが終わると今日のタロウのお散歩は終わりである。私たちが学校に行っている間、母がお散歩しているはずなので、そんなに何度も行く必要は無いのだが、実は散歩を兼ねた私の運動という側面もある。
家に入ると洗面所で手を洗ってうがいをした。居間では明宏が先ほどと同じ体勢で携帯ゲーム機とにらめっこしていた。その画面は何も映してはおらず、ゲーム機を左右上下に揺り動かし、その画面に向けて彼は時々文句を言ったり舌打ちをしたりしている。
彼を横目に見ただけで何も言わずに二階の自分の部屋に入り、机に向かい教科書とノートを拡げ宿題をした。今日は国語の宿題だ。
もうすぐ期末テストが始まる、それを考えたら憂鬱だ。でもそれさえ終わればその次に待っているのは夏休みだ、その想像で心にかかった雲を吹き飛ばした。
「ご飯できたわよ~」
ちょうど宿題をやり終える頃、母が階下からこちらを呼ぶ声が聞こえた。
「はーい」
正面を向いたまま返事をして、右手に握っていたシャープペンを筆箱にしまい、机の上の教科書とノートを閉じ、他のものも簡単に整理してから部屋を出た。
「わーい、ハンバーグだー」
食卓に来た妹が、何ものっていない皿を見て手を上げて喜び、明宏は黙って自分の席に座った。
「お父さんは珍しく残業で遅くなるって連絡が来たから先に頂いてしまいましょう」
テーブルの上にのっている皿は父の分をのぞいて四つ、だがハンバーグと付け合わせのスパゲッティと輪切りになったゆで卵がのっているのは私の前の一つだけ。他は空だ。
お茶碗とサラダボールも四つあるがご飯とサラダが入っているのは私の前のものだけだ。
「いただきまーす」
と私と妹と母は言った。
「はい、召し上がれ」
といわれてから私達は箸を取った。弟は無言で同じ動作をとる。
「おいしい」
と夢中で茶碗を手に、皿の上とお茶碗の上を交互に箸を動かす妹の華加。
黙って妹と同じ作業をする弟の明宏。
私は彼らと違い食事の振りでは無く、本当の食事をはじめた。ご飯とお味噌汁はハンバーグは出来たてで湯気が立っている。サラダに使われている野菜も新鮮だ。母は料理上手で不満なのは少し薄味であることぐらいだが今はもう慣れてしまった。
「ご飯たくさんあるからおかわりしてね」
自分の子供達の様子に満足げに微笑んだ母は自分の食事をはじめるが、やはり何も無い皿やお椀を箸でつついている。
みんなで囲む私一人だけの食事。これが家でも学校でもこの春から続いている。
私が食事を終えると他のみんなも無益な作業を終え、席を立った。
母は私が使って汚れた食器と、皆の前に置かれただけのきれいなままの食器を、テーブルからシンクへと移し、鼻歌交じりで泡まみれにしたスポンジを使って洗い始めた。
食後は華加に誘われ一緒にお風呂に入った。彼女は明宏にも「お兄ちゃん一緒に入ろう」と言ったが彼は「アホか」と一言言いのこして自分の部屋に戻っていった。
お風呂に入った後は寝る時間までの間に残りの宿題とほんの少し勉強をした。
こんなに勉強をしてそれが一体何になるのだろう。将来大人になった私は何をしたら良いのだろうか。
私は視線を教科書とノートから、机に備え付けの本棚に向けた。そこには辞書や参考書、ノート類が並んで収まっている。
その棚から私は一冊の大学ノートを抜き出し、参考書とノートの上に置き開いた。それの中は一ページが、いくつにもコマ割りされており、そのコマの中には人物がいろいろな角度で書かれている。彼らは表情が豊かで、そのセリフは吹き出しという多くは円型で表現されたものの中に書かれている。それらが全てのページに鉛筆で荒書きされ埋まっていて、これらは全て私が書いたものだ。このノートは他にも数冊ある。
期末テストが終わるまでは漫画を描くのは一時お休みしよう。慌てなくともこの世界には新人賞が無い。漫画家になりたいといえばおそらくやらせてもらえるだろうが、そのとき私は読者のいない漫画を毎日せっせと書くことになるだろう。
ノートの最新の漫画が描かれているページを開いた。そこには厳かなドラゴンの前で若者が天に両手を広げ、何かを叫ぼうとしているところが描かれている。
このドラゴンの名はクリスタルドラゴン。朝方登校途中に由香ちゃんに話した、何でも願いを叶えてくれるドラゴンである。
ただの靴職人の彼が、つらい冒険に耐え、ようやく巡り会えたクリスタルドラゴンに願いを言おうとしている。
彼の願いは死んでしまった妻を生き返らせることだ。だがその後はまだ白紙となっている。若者は願いを言っていないし、クリスタルドラゴンはその願いに応えていない。私はここまで書いて置きながら結末をどうして良いかここ数日悩んでいる。ファンタジーとはいえ、すでに死んでしまった者を生き返らせる事なんてことが許されるのか、私にはわからなかったからだ。
「もしもなんでも願いが叶うなら・・・・・・」
私がつぶやくとそれに応えるようにスマホが震えた。画面を見ると由夏ちゃんからのラインが表示されていた。
『毛呂に拐かされたと聞いたが無事か』
スマホを持ってベッドの上に移動、そこで腹ばいになって返事を送った。
『大丈夫、ちょっと公園で一緒にアイスを食べただけ』
『ならいいけどな、オレのために貞操は大事にとっておけよ』
『毛呂くんより由夏ちゃんの方が危ないよ(パトカーのスタンプ)』
『それにしても、あのやろー、懲りないやつだな。まだ、真央につきまとっていたのか』
『でも、大丈夫。今日、はっきりお付き合いできないってお断りしたから』
『ええっ、それはもったいない』
『ちょっとちょっと、さっきと言ってることが違うよ(熊がびっくりした顔をして口にくわえていた鮭を落とすスタンプ)』
『いやー、男の方からの告白がこれが最初で最後だったらどうしようとか、つい考えちゃうんだよな』
『もう一生男の人に告白されることがないとかそんなこと無いもーん、多分・・・・・・(人魚が岩の上に座りハラハラと泣いているスタンプ)』
『真央は大丈夫よ。由夏は心配した方が良いけど』
三人のグループラインだったので、千怜ちゃんが私たちの会話に割り込んできた。
『オレたち三人ともズッ友だよな』
『私たちを巻き込まないで、あなた一人だけ寂しい老後を送るのよ』
『それとこれとは別だよ由夏ちゃん(手でバッテンを作っているスタンプ)』
『そんな~非道いぞ二人とも』
ラインを使った会話は一時間程続いた。
『それじゃお休みなさい、また明日』
『おやすみー』
『おやすみなさい(月がパジャマを着て枕を抱き大あくびをしているスタンプ)』
私はベッドから降りると机の上にスマホを置き、充電器に繋いだ。
机の上には漫画が書いてある大学ノートが開いたままだった。
私はノートを閉じ、机の本棚にしまうと、ガラス戸を開けて外に出た。
ベランダの鉄柵に手をかけて空を見上げると星がとてもきれいだ。そのまましばらく見ている。
「お父さん、お母さん」
言葉が口から勝手に零れる。
「みこちゃん、たーちゃん、てっちん、うり坊」
言葉を吐くと同時に、かつて友達だった彼女たちの顔が心に浮かび上がる。
私は星が輝く天に向かって両手を広げ願った。
もしも、何でも願いが叶うなら、
本物の家族が欲しい。
本物の友達が欲しい。
本物のボーイフレンドが欲しい。
視界がゆがみ、そこからあふれた液体が私の頬を流れる。液体が通ったあとが熱い。
こうして私の一日は、終わろうとしていた。
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