命と気持ち

白と黒のパーカー

第1話 

それは夏の濃い日だった。いつにも増して暑苦しく、窓の外から聞こえてくる蝉の強い生を報せる音は、それを明らかに助長している。

  今の自分とは全くの正反対と言っていいほどの彼らの調べは不思議と心地良かった。


 先日、医者により余命が幾ばくもないと宣言された。いつも何か忙しなく考えていないと落ち着かない性格がその時ばかりは鳴りを潜め、暫くの間呆然としていた。


  死ぬ前にもう一度会いたい人がいる。

  いきなりの宣告による自失の状態から抜け出した僕が、いの一番に考えたのがそれだった。

  昔に一度だけあったことのある、儚げでどこか存在が揺らめいて見えた湖畔に住む少女。

 もっともそれが本当に人だったのか、今となってはもう思い出す事も出来ないが、とにかく彼女に会いたい。それだけは確かな気持ちとして僕の心の中で強く輝いていた。


  そこからの準備は早かった。元々何のために通っているのか分からなくなっていた大学を早々に辞め、その足で彼女との思い出の地まで連れて行ってくれる電車へ向かう。

 それは僕を最期の目的地まで運んでくれる方舟のように見えた。

 自覚は無かったが少し浮かれているのかもしれない。もうすぐ死ぬのだと言うのにお気楽なものだと、我ながらに思う。


 そして僕は今、電車の窓から微かに聞こえてくる蝉の鳴き声に耳を傾けていた。はて、僕はここまでロマンチストだっただろうか?

 なんだか無性に可笑しくなったので思わず笑ってしまう。

  周りの座席に座る人たちからは訝しげな顔を向けられるが今だけは、いや、もう二度と関係ないのだ。好きなだけ笑ってやれ。

  ひとしきり可笑しさに腹を抱えて笑った後、ふと素面に立ち返る。すると今度は恥ずかしさに顔が熱を持ちはじめる。

 この僅かな間に僕はどれだけ表情の変化を繰り返すのだろうかと考えだして、 ふとこれが生きていると言う事なのだろうかと思う。

 普段何気ない日々に身を委ねていると、次第に自分が本当に生きているのか分からなくなってくる事がある。だが、皮肉にも余命宣告されてみればこんなにも簡単に生きていると実感できる。

 こんなにも太陽は素晴らしく綺麗で朗らかに僕らを照らしてくれていたのか、海から香る潮の匂いはここまで世界をはっきりと彩色し得るスパイスだったのかと。

 今までつまらない障害物競争のギミックの一つとしか思えなかったものが鮮明に生を僕に教えてくれる。

 生きていようと死んでいようともはやどうでも良い。そんな考えが湧くのはもしかすると健康に生きれているが故の戯れなのかもしれない。


 思考の海に呑まれていた自我を、電車のアナウンスが呼び戻す。僕を乗せた電車がいつのまにか停まっている。

無論、目的地まではまだ暫く掛かるため僕には関係のない停車である。それでも、ここで暫く停車する予定などあったろうかと繰り返し流れる声に耳を傾ける。

 なるほど、聞けばどうやら運転整理のための停車らしい。もう少し先の踏切で事故があった様だ。


 そこまで聞いて漸く、自分が両手を強く握りしめていることに気づく。

  余命が生まれ、以前よりも死という存在が身近になったことで今まで気にしたこともなかった他人の死の報せに驚くほどに動揺している。

 心臓が早鐘を打ち、耳鳴りがひどく、頭がいたい。

  電車に乗る前に購入した水を勢いよく喉に流し込んでは思うように飲み込めずにむせ返る。

 震える手を抑え、浅くなった呼吸を落ち着けるために首にかけたイヤホンを耳につけ、好きな音楽を聴き始める。

 幾らか気分がマシになる。まさかここまで自分が弱気になっているとは思っていなかった。案外追い詰められている人間は自分がそうだとは気付かないものなのだ。


  後ろから急に肩を叩かれる。

  ビクリと肩を震わせ片方のイヤホンを外して振り返る。そこには心配そうにこちらを伺うお婆さんがいた。

  どうやら先程から様子がおかしい僕を心配して話しかけてくれたらしい。

  いつもとは違う自分を自覚しながらも僕は一人で抱え込むには些かに重すぎる悩みを打ち明けてみる。普段なら関係のない人間にこんなことを話すなど馬鹿げていると思うが、今ばかりは相当に参っているのだ。

暫く黙って僕の話を聞いてくれていたお婆さんは徐に鞄を探ると芋羊羹を取り出し、美味しいよと僕に差し出す。

脈絡のなさに一瞬呆気にとられていた僕は、次の瞬間少し笑いながら涙を流していた。

 なぜ涙が流れるのかは自分でもわからない。でもなんだか拭い去るのは勿体無いような気がして流れるままにしておいた。

 漸く動き出した電車が次の駅に到着すると、お婆さんは僕の肩を優しく二回ほど叩いて、手を振り降りていく。心持ち大きく見える彼女の背中に向けてお礼を告げると、芋羊羹を頬張る。

 彼女から貰った芋羊羹はとても甘くて優しい味がした。


 長く僕を揺らしていた電車の旅がもうすぐ終わる。

 次の停車駅が僕の目的地、逢いたいと心から願う彼女の住まう場所。

 普通に考えるならば、今もあそこに居るとは考えにくい。でも、なんだろうか予感のようなものがあるんだ。彼女は今も変わらずここに居る。そんな根拠なんて何もないけれど、確かな予感が。


 電車が目的地にたどり着く準備段階に入り、窓から流れる景色が緩やかになる。

数年前に家族と一度だけ来た田舎町。あの日も今日と同じ様にとても暑かった。

 少しドキドキしながら下車した僕は切符を入れるポストの様なものを探す。

 完全な無人駅と言うわけでは無いのだろうが、限りなくそれに近いのどかな駅風景。勿論自動改札機などはなく、それの代わりになるものが出口付近に取り付けられており、そこに切符を投入するのだ。

 滞りなくその過程を完了した僕は、いよいよ駅から一歩踏み出す。

緊張のせいだろうか、一歩一歩が地面を踏みしめるように仰々しい。結局普通に歩けるようになったのは、約束していたタクシーを探すうちに迷子になったと気づいた時だった。


 不味い。ここがどこだかわからない。周りを見回してみるが同じような田園風景が映るだけだ。

田舎とはいえ、駅の近くには家もあれば店もある。そうそう迷子になるはずは無いのだが、緊張により余裕のなかった僕は思ったよりも道音痴らしい。

その事実が判明したのがよりにも寄って今だと言うことに些か頭を抱えたくなる。

 仕方がない。このまま彷徨っていても何も始まらないため、僕は移動を開始した。

 普通に考えれば駅の方面は多少なりとも栄えているものだ。だからその気がある方へある方へと自分なりに向かってみるがおかしい、やはりどんどん人気の無い道に出てしまう。

 もうどうにでもなれと暫く無心で歩いてみた結果、遂には青々と茂る木々に囲まれていた。


 流石にここまで酷いと違和感を感じる。おかしい、道が意図的に僕をどこかへ連れて行こうとしている?

そこまで考えてから何か薄ら寒いものを感じ始める。

もしかして僕は誘われているのだろうか、人ならざるものに。

 いや、馬鹿げている。勿論そんな非科学的な存在は今まで一度も見たこともなければ信じたこともない。

 だが、そこまで考えて思い直す。本当にそうだろうか。湖畔に住むあの少女。彼女がもし人ならざるものならばどうだろうか。

思い返してみればあの時も僕は迷子になっていた。


数年前、家族と旅行でこの田舎町にやってきていた僕ははしゃいで辺りを探索して回っていた。

 小さかった事もあって後先考えなかった僕は親とはぐれてしまい、探すうちに山の中に迷い込んでしまったのだ。

 次第に怖くなってきて、泣きながらがむしゃらに走り回っていた僕はそのまま気付けば周りを木々が囲み、シンとした空気が辺りに満ちる涼やかな湖に辿り着いていた。

 そこは、それまでの寂しかった気持ちなど忘れてしまうほどに綺麗な場所だった。

 ともすれば引き込まれてしまいそうなほどに。

気付けば僕はその湖に向かって歩き出していた。

自分の意思では無い、何かに引き寄せられるように。それは湖自体だったのか、それともそこに住まうナニカによるものだったのか。

 無意識に進み、もう少しで足が水に触れようとした所で後ろから誰かに腕を掴まれる。

 僕が虚ろな目で振り返るとそこには、僕より少し大きいくらいの身長をした少女がいた。

彼女は無言で首を振っている。それ以上進むのはやめておけと忠告してくれているのだろう。

 そこで漸く僕は自分が何をしようとしていたのかに気づく。

 汗だくになっていたのは暑かったからだと思っていたけれど、今思い返せば冷や汗だったのだと思う。

 とにかく僕はその後すぐに人がいると言う安堵感と先ほどまでの恐怖感が押し寄せ、泣き出してしまった。


 その後からの記憶はもうあやふやで、彼女が泣いている僕をみてあたふたしながらも頭を撫でてくれた事くらいしか覚えていない。

 気付けば泊まっている宿屋の近くに出ており、急にいなくなった僕を心配して探していた両親にこっぴどく叱られた。

 記憶の中の彼女は無表情で更に一言も喋る事はなかったけれど、もしかすると話すことは出来ないのかも知れない。

 そんな昔のことを思い返しながらも適当に歩き回っていると、鬱蒼と生えわたる木々が途切れ、一部がひらけた場所が見えてくる。

 あの時と同じだ。辺りを木々が囲み、シンとした空気が満ち満ちた寒々しい湖。この場所を隠すかのように霧がかっていて、記憶よりも些か幻想的な風景になっている。

 いつのまにか後退りしていた僕は、一度両頬を叩いて気合いを入れ直す。

 ここから進めばまた、湖に呑まれてしまうかもしれない。でも、それよりも僕は彼女にもう一度逢いたい。そして一言あの時は伝えることが出来なかった感謝を伝えたいんだ。

 意を決して前に進むと、意外にあっさりと湖のある場所まで辿り着く。

 もしかするとあの時ほどの力は無いのかもしれない。それか、僕の心が汚れきって以前ほどの感動を得られていないのか。あり得ないとも言い切れないのが悲しい所ではあるが、取り敢えず辺りを一周してみる。

昔とは違って様々な角度から眺める湖はやはりとても綺麗で、周囲に漂う空気は美味しい。

一歩真ん中に足を踏み入れ水面に顔を近づけてみる。

澄み渡る水が鏡面のように僕を映す。


“そこに映る僕はとてもつまらない顔をしていた。”


鏡に映る僕が徐に手を伸ばし、僕の首を絞める。

驚いて後ろに下がろうとするが動けない。いつのまにか地面はぬかるみ、僕の足をがんじがらめにする。

首を掴む手を離さそうと手を伸ばすが、実体が無いかのように朧げで触れることが出来ない。

もう耐えられない。意識を手放しかけたその瞬間、後ろから誰かに引っ張られて僕は水面から顔を引き上げた。

どうやら、首を絞められていたと錯覚していただけで、僕が自分で顔を湖に沈めていたらしい。

 水滴を顔中に滴らせ咳き込みながらも、背後にいる人物に礼を告げる。

落ち着いてからよく見てみると、僕を助けてくれたのは、背中に大きな猟銃を構えた男の人だった。

話を聞いてみると、どうやらこの近くに居を構える今時珍しい猟師の方らしい。

その人が言うには今日も山に住む鹿などを狩るために散策しているとなにやら胸騒ぎを感じ、この場所に来てみれば僕が溺れていたそうだ。

とにかく助かった。もう一度礼をいい顔を拭くために貸してもらったタオルを洗って返すと告げると、気にすんなと大らかに笑いながら受け取ってくれた。

それから何故こんなところにいるのかについて話を聞かれていると、お腹が鳴る。

ガハハと笑った後お腹が空いただろうと彼に言われ、ご飯に誘われる。もうそんな時間かと腕時計を見ると短針と長針が丁度お昼を告げていた。先ほどの命の危険から助かったと言う安堵感も手伝って酷くぺこぺこである。


 猟師の方の家に向かう道すがら、あの湖の話について詳しい話を聞く。

 どうやらあそこは昔から曰く付きの場所らしく、よく山に入る地元の人達も近寄らないようにしているらしい。つい数年前にも子供が事故にあいかけたと言う話を聞いた時は、何処かで聞いた話だと苦笑いするしかなかった。

 自分のこととは言えもう記憶も朧げだし、そもそもその時の事は当時ですらよく分からなかったのだ。何かのヒントになるかもとその話について詳しく聞いてみれば、この町に遊びに来ていた子供が迷子になってしまったことが直ぐに町中に広がり、迅速に捜索隊が組まれたらしい。そして丁度その捜索をしている途中に子供が湖の近くで誰かと楽しそうに話している声を聞きつけた地元の人たちが当時の僕を見つけて保護してくれようだった。

 だがそこには僕一人しかおらず、他には誰もいなかったようだ。

それでもやっと掴めた手掛かりに、もう少し切り込んで湖畔の少女について尋ねてみる。

湖畔の少女。その言葉を聞いた猟師は酷く驚いた顔をしてこっち向いた。

どこでそれを知ったのかと逆に聞き返されたので、素直にその小さな子供が僕だったと話す。

なるほどと彼は二度ほど頷いた後、行き先を自宅から町の図書館へと変えて、さらに詳しい話をしてくれた。


昔あの湖の近くには一つの祠があったらしい。

彼はそう言いながら本棚から一冊の古い本を取り出してくる。

 ぺらぺらと何枚かめくり、丁度真ん中辺りの見開きを僕に見せてくれる。

そこには大変綺麗で美味だとされた、湖を護る神様が祀られていることが記されていた。

町がまだ小さな集落だった頃からの記録だったので所々落丁してしまっている箇所もあったものの、そのページだけは大切に守られて来たように掠れひとつない。

 断ってから手に取り詳しく目を通す。

 どうやらあの湖の正式な名前は白露湖しらつゆこと言うようで、それに伴って祀られた神様の名前は白露様しらつゆさまと呼ばれているようだ。右下の方に小さく絵が描かれていたが、なるほど確かに湖畔に佇む少女として描写されている。

お礼を言って本を返しながら、今祠は何処にあるのかと尋ねてみる。だが、彼は少し哀しそうな顔をしたあと壊れてしまったのだと告げる。

 どうやらもともと古びていて壊れそうだった祠は、少女が僕を助けてくれたその日に役目を果たしたかのように壊れてしまったらしい。

 今更ながらに僕はもしかしたらとんでも無いことをやらかしてしまったのではないかと思い、咄嗟に謝るが彼は笑いながら君のせいでは無いよと慰めてくれる。

 それでもやるせない気持ちを拭えずにいると、空気を変えようと一度手を叩いてから、その壊れた祠は実は彼の家で保管しているのだと話す。

 丁度ご飯も食べる予定だったのだからついでに拝んでいけばいいと提案してくれる。

 正直僕はこのまま彼の提案に乗ってもいいものかと悩んだのだが、彼の大きな掌で豪快に背中をばしばしと叩かれ、いつまでもクヨクヨするもんじゃ無い、寧ろ神様に助けてもらったんだと誇れと言う慰めに少しだけ勇気をもらう。

 彼女にはもう会えない。その原因が僕自身であることに負い目を感じながらも、何処か諦めきれない気持ちもある。

打算的かもしれない、優しさに対する反応としては間違っているのかもしれない。でも、もうあと少しだけなのだ。

 僕の命も、この気持ちも。

最後なんだ、少しくらい僕のわがままを許してほしい。

腹をくくり、お願いしますと彼に頭を下げる。


彼の家はこの町の一等地にあった。

とても広く作られた庭の真ん中ほどには、酷く場違いに見える大きなプレハブ小屋が建っており、肝心の彼自身が住む家自体は対称的にとてもこぢんまりとしている。

 側から見ればただアンバラスな状況に、僕はこの町の人達がどれほど彼女を大切にしていたのかを理解する。

 一先ず彼の自宅の方へ招かれた僕は、食事を共にすることになった。

料理は猟師の奥さんが作ってくれており、彼が一人分多く作ってくれないかと伝えると、少し驚きながらも二つ返事で承諾してくれる。

 僕が申し訳無さそうにしていると、ご飯は大人数で食べる方が美味しいんだから気にしなさんなと手をヒラヒラと振って台所に向かっていく。

 何から何まで世話になりっぱなしだと少し反省するが、とはいえ部外者の僕にできることなどあまり無い。素直に彼と一緒に居間で料理が出来るのを待つ。

 十分ほど経った頃だろうか、彼女が三人分のご飯を乗せたお盆を運んでくる。

 献立は、塩の効いたおにぎりに豆腐の味噌汁、そして焼き魚だった。

 特におにぎりはじゃりじゃりするほど塩っ辛く、塩辛いのが好きな僕はぺろりと平らげてしまう。

 思えば、大学を辞める手続きを済ませるために朝早くから家を出たので、朝ごはんを食べるのを忘れていた。どうりで食の細い僕がここまでパクパクと食べられるわけだ。

 勿論、ご飯自体が美味しいという理由もあるが。

 暫く無心でご飯を食べていた僕は満腹を感じ、人心地つく。

 気付けば、猟師夫婦がこちらを見て笑っている。

よくよく考えなくとも、ここは人様の家である。さっきまでの振る舞いは流石にどうかと思い直し、顔を赤くして謝ると、奥さんが、美味しく食べてくれて嬉しいと言ってくれる。

二人の優しさに、今はいない人達の面影を重ねて少し涙が出てしまう。我ながらに今日はよく泣く日である。

急に泣き出した僕に少し驚いた顔をした彼らだが、すぐに何も言わずに肩を抱きしめ頭を撫でてくれる。

もう大丈夫だと言うように、優しくそして力強く。


  気がつくと夕方になっていた。

 どうやらあのまま寝てしまったらしい。

  泣き腫らして、疲れて眠るとは子供のようだと独りごちながら二人を探す。

 改めてお礼を言いたかったのだが、どうやら今は二人ともいないらしい。

何もする気は無いとはいえ、少し無用心では無いかと心配するが、田舎とはこんなものかと一人勝手に納得する。

このまま居間で一人過ごすのも悪くは無いが、本題である祠の入っているであろう庭にあるプレハブ小屋まで行ってみる。

 先ほど見たときは扉が閉まっていた筈だが、今は開いている。よく見てみると、ほんのりドアの隙間から光が漏れ出ている。

 少し近づくと、まるで僕を迎え入れるかのように扉が全開になる。

 光が強く、外側からは中の様子が見えない。

  進もうとしていた足が竦み、心が揺らぐ。

 恐らくここから先に進めば彼女に出会える。それは確信に近い直感だった。

  彼女に逢いに来たはずなのに、いざ直前になると恐くなる。竦んでいた足が今は立っていられないほどに震えている。

ついに恐怖に耐えきれず叫び出そうとしたその時、後ろから優しく肩を抱いてくれる感触に振り返る。

 猟師夫婦だった。

  二人とも優しく微笑みながらさっきと同じように大丈夫だと優しく背中を押してくれる。

  二人の言葉に幾分か持ち直した僕は一度強く頷き、一歩一歩踏みしめながら進む。

近づくたびに光は強く、大きくなる。だが先ほどとは違い、もう僕の心に恐れはない。

絶対に彼女に逢うんだ。そう心に強く秘めて、光に手を伸ばす。

水面に手を入れるような感触があった後するりと向こう側へ抜ける。

そのまま意を決して顔を突き入れてみると、目の前には白露湖が広がっていた。

いや、正しくは祠がまだ健在だった頃の白露湖だった。

 相変わらずの美しさではあるが、今日を含め二回目にした時とは違う感覚である。

引き込まれるような美しさではなく、優しく包み込んでくれるような美しさ。おそらくこれこそが正しい白露湖の姿なのだろう。

 恐る恐る祠のある方へ足を運んでみる。

近づくたびに打ち付ける鼓動の音が強くなる。

祠の前へ辿り着くと、再び目を眩ませるほどの光が溢れる。

 思わず目を閉じてしまったが、光が収まったのを感じ目を開くとそこには、僕の記憶そのままの湖畔に住む少女が立っていた。

 やっと、出会えた。

感極まった僕が涙ながらに彼女の方へ手を伸ばすと、優しく握ってくれる。

 まるで今までよく頑張ったねと労うようにそのまま僕を抱き寄せる。

 今では僕の方が身長が高くなってしまったが、それでも彼女は優しく僕を包み込み頭を撫でてくれる。今日一番の涙を流しながらあの時伝えられなかった彼女への礼を伝え続ける。

 今まで生きてきた中でどれだけ彼女の存在が救いになっていたのか、ここに来て初めて理解する。

 忘れた気になっていたが実のところずっと覚えていて、心の支えにしていたのだ。

 全てを受け入れて優しく微笑んでいた彼女だが、次の瞬間には少しムッとした顔で僕の頭を小突く。

 急に態度を変えた彼女に驚き、目を数度瞬きながら首を傾げる。

 やはり言葉は話せないようで、身振り手振りで一生懸命に伝えてくる。

 正直ただ可愛いだけで何を伝えたいのかはさっぱりだが、そこはそれ理解はしている。

 恐らく余命を知った段階で生きることを諦めようとしている僕を叱咤激励してくれているのだろう。

 疲れたのか肩で息をしている彼女に向かって今度は僕が優しく微笑み返し、言葉で伝える。


「僕はもう大丈夫。命の重さ、そして気持ちの暖かさを知ったから。残り少ない命だろうと僕はもう諦めたりしない。懸命に生きることを、他でもない白露様に誓うよ」


 黙って聞いていた彼女は暫く僕の言葉を噛み締めたあと、ゆっくりと頷きにっこりと笑った。

 そして、もう一度僕の頭をくしゃりと撫でると一瞬だけ悲しい顔をして僕から少し離れる。

 どうやらもうお別れらしい。

元々祠は壊れていたのだ、なのに再び彼女が顕現できるほどの力を維持し続けていたのは奇跡だったのだろう。

 短い時間ではあったがとても幸せだった。

なにより今度はしっかりと彼女にお礼を言えたのだ。もう思い残す事はない。

もう一度彼女の顔を見据える。先ほどよりも朧げで揺らいでいる。それでも彼女は笑っていた。

だから僕も笑う。笑って彼女に手を振る。

また逢おう。そう心で告げて一度目を瞑り、再び開くとプレハブ小屋の扉の前に立っていた。

振り返ると、心配そうにこちらを見ている猟師夫婦がいる。

僕は最大限彼らを安心させるように笑って告げる。


「ただいま」

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