112. 鏡

 ふと、思った。

 勇者というのは鏡のようなものかもしれない。


 ココも、ジゼルも、フィオナ姫も、グラントーマ王も、イネルの父も、もしかすると魔王すらも……トリスタはあまり言っていなかった気もするが、それはともかくみんな、俺の、そして、イネルの見え方が違っていた。


 自分の内側にある「勇者」像を投影して、俺に見ていたから、なのだろう。

 だからイネルも、相手によって微妙に立居振る舞いを変えていたように思う。

 いろんな人に聞いて回れば回るほど、イネルの人物像が掴めなくなっていったのはそれが原因に違いない。


 勇者を目指し始めたのは、父親の影響か。

 いや、影響というよりは希望、夢だ。


 イネルの父は、自らが果たせなかった夢を、息子に渡した。植え付けた。

 異世界から転生してきたにもかかわらず、これといって何者にもなれなかった自分の寂しさを、息子に語り、そして思いを託したのだ。


 それからイネルはずっと己を滅して、「誰かのための勇者」であり続けた。

 心をほんの少しだけでも開いていたのは、ジゼルに対してくらいだった。それも、出会った本当に最初の頃、二人きりで旅していた頃だけだ。

 その他の時間はずっと、彼は孤独だった。


 そんな彼は、突きつけられたのだ。

 魔王の策略を。


 否が応でも魔王の片棒を担ぎ、世界を支配する手助けをさせられそうになった。

 どんな気持ちだっただろう。

 それまで懸命に、人生をかけて世界を救おうとしていた人間が、魔王の支配に全てを利用されられることになるのだから。


 彼には二つの選択肢があった。

 一つは、今まで通り他人の望む「勇者」として、偶像として、理想として、鏡として生きること。


 これはなんの問題もなく可能だった。本当にそれまで通りの生き方をすれば良かったからだ。

 誰からも非難されない。例え、魔王の支配下に置かれていたところで、計画通りに行けば誰にも気づかれない。


 皆から生涯、勇者様として愛され、幸せに生きることができる。

 裏側で世界が魔王に実質支配されているとしても、勇者はあくまで偶像として崇敬され続ける。魔王も、世界の人々も、誰も不満を感じない。「求められた通りの勇者という役柄」を演じ続けるだけだ。

 虚構の希望を象徴し続ける人生。勇者という型通りの役割をこなすことだって、彼には極めて容易にできたはずだ。


 でも。

 イネルはそれを、選ばなかった。

 もう一つの道を、選んだのだ。


 王の謁見の間への巨大な扉を開く。

 俺は再び言った。


「行くぞ。魔王のもとへ」


 そして俺たちは、人の気配のない謁見の間を歩いていった。

 その奥にある玉座の上には、異様な暗い力が渦巻いているのが見て取れた。今はまだ日のある時間であるにもかかわらず、玉座の周囲だけは黒く沈んでいるように感じられた。


「勇者よ」


 少女の声が聞こえる。


「待ちわびたぞ……いや、違った。そなたは、勇者ではなかったのだな」


 皮肉な調子で少女、マヤは言う。その目には、今や光はなかった。邪悪な念が、眼差しから漏れ出ていた。


「ならば、そなたは何者だ。いつの間にイネルと入れ替わった。あの砂漠の民の元で転生の術を調べていたのは、それと関わりがあるのか。


 だがそれもおかしい。そなたの体は明らかにイネルのもの。魂ごと異世界で生まれ変わる転生とも、体ごと異世界へやってくる転移とも異なる。

 何が起きた。何をした。そなたは誰だ」


「俺は……何者でもない」


 俺は、静かに答えた。

 三日前、トリスタの話を聞き、ようやく出た「答え」だった。


「俺は、どこの誰でもない。どこかの異世界から来た、誰かですらない」


 それはあまりに辛い結論だったけれど、でも、全ての疑問に答えてくれる真実だった。


「俺は、イネルが自らの魂を書き換えるために作り出した人間なんだ」

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