16. 妹との語らい、そして

 深夜、俺は一人で村の近くの、小高い丘の上に立っていた。


 別にナルシストでもないのでカッコつける気はないのだが、転生してからこっち、ろくに一人になれる時間がなかったので、ちょっと落ち着きたかったのだ。


 空に浮かんでいる月は、幸いにして前の世界で眺めていたのと変わらない姿形をしていた。

 多少は気が軽くなるように思えた。


 当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、周囲の人々は今現在の俺=勇者に対しては、各々得手勝手な期待を抱いているばかりだった。

 そりゃそうだろう。「魔王討伐」という最大のタスクを解決ところなのだから。


 勇者(と魔王)をめぐるさまざまな緊張の糸がまさに途切れたばかりなのだ、今は。

 世界中の人々が数日前まで一点に向けて意識を集中させていたのに、それが消滅した。

 いわばこの世界は、現在史上最高に緊張感のない状況とも言える。


 魔王討伐のために愛を我慢していた人たちはもはやその必要はないと欲望を解放し、おらが村の英雄を自慢したいと思っていた人たちは全力で誇り始める。


 そして、魔王討伐だけのために生きていた「勇者」という人は、途端にやることが何もない一個人に成り果てる。


「もしかしたら、それに耐えられる気がしなくて先代勇者はこの世界を去ったのか……?」

 不意にそんな言葉が、俺の口をついて出た。

 そして驚いた。

「あれ!?」


 バカみたいな声をあげて俺は手で自分の口をふさぐ。

 沈黙魔法のおかげで言葉は発せられないはずだったのに。もう解けたのか?

 割と勇者の力を込めに込めて呪文を唱えたつもりだったのだが。


 魔法を使うようになってたかだか二日くらいなので、どれぐらいの魔力を込めると何日くらい保つものなのかよくわからない。


 とりあえず、しばらくぶりに開いた口をパカパカなんども開け閉めして、顎の運動を繰り返した。

 関節がミシミシいっている気がする。


「兄様……」


 バカみたいな動きをしているときに突然背後から囁き声が聞こえたので、俺は飛び上がりそうになった。


 すぐ後ろに、勇者の妹、マヤがウェーブのかかった黒髪を揺らして立っていた。相変わらず、布の人形を抱きしめている。


「何をしてらっしゃるの」


 マヤに尋ねられて、俺はあからさまに挙動不審な表情でなんとか応じた。


「あいや、ちょっと気分転換にね」


 薄っぺらな回答でごまかしきれるかと不安だったが、ふうん、と大して興味なさそうにマヤは話を流して、そのぼんやりとどこを見据えているかわからない目で月の方を眺めていた。


 村に到着してすぐにこの子とは対面したが、いまだにどういう子なのか俺は把握しきれていなかった。

 不思議な雰囲気をたたえた娘で、まだ十歳になるかならないかなのに、母親にまとい付くわけでもなく、いつも一人で隅の方で俯いていた。


 俺が口をきけたら、母親にあの子はあれで大丈夫なのか、と尋ねられたのだが、あいにくそれもできず、あんな小さな子が静かにしているのをろくに気遣ってやることもできなかったのだ。


「ねえ兄様」


 突然、彼女が月から俺の方に視線をずらして言った。


「どうしてマヤの部屋、うちにないのかしら」

「え……? えー……」


 恐ろしく答えづらい。

 まだ小さいからだよ、と思うのだが、母親や宿の従業員たちがろくにこの子の相手をしていなかったあたり、理由は他にあるのかもしれない。


「それに、今日もお食事の時、みんなマヤに話しかけてくれなかったし。マヤと兄様の思い出話も、誰もしてくれなかった……」


 畳み掛けるようにそう言われ、ますます俺は答えに窮した。

 そう、本当にほったらかされていた。俺と父親の話とか、母親の話は村の人々はしていたのに、マヤと俺がどんな兄妹だったかは誰も話してくれなかったのだ。


 明らかに話の流れとしても妙だった(明らかにマヤの話題だけスルーされていた)のだが、これも俺が何も訊けなかったからフォローすることもできなかった。


 これはネグレクトとかいうやつじゃないか? 育児放棄。


 勇者の母親も、あんなに優しそうな顔と態度をして、こんな子をほったらかすとは何を考えているのか。というかそんなことをするタイプの人にはとても見えなかったのに。

 人は見かけによらないというが、なんだか残念だった。


 しかし理由は何なのだろう。身寄りのない子を引き取っている、だとか?

 確かに、母親とも俺=勇者とも外見はあまり似ていない。もしかしたら親戚をたらい回しにされて、母親が預かっている、だとか?


 仮にそんな理由だとしたら、無視して相手してやらないのはあまりにかわいそうだ。


「……」


 マヤの大きな黒い眼に、大粒の涙が浮かんだ。まずい。泣く。


「えーと、いや、マヤ! 大丈夫だ。お兄ちゃんが帰ってきたからにはもう安心だぞ。マヤの部屋も作ってやる。母さんにも掛け合って、みんなと仲良くできるようにするし、それに、ええと……」


 頼りない兄貴である。

 魔王は退治したけれど、十歳の女の子を安心させてやることもできないのだ。何が勇者だ。

 俺が焦って歯噛みしていると。


「……はははははははは!」


 唐突に。

 マヤが笑い始めた。


 心から愉快そうに、目の前で腹を抱えて笑っている。笑いすぎて少し咳き込んでいる。


 俺は何がおきているのかわからず、少女を眺めてぽかんとしていた。


 ようやく笑い終わったマヤは、なんとか呼吸を整えると、


「ははは……全く、まだ気づいておらんのか」

 と、口元をにやつかせながら言った。

 俺は何を言われているのかさっぱりわからなかった。


 マヤはまだ、クスクス肩を揺らしている。


「本当に……勇者様は勘が鈍いな。私だ。私だよ」


 そして、グッと目を見開いて、俺の顔をまっすぐに見た。


「魔王だよ」

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