39.電脳世界〈ログアウト〉15時〜

 風が吹いた。風は僕の頬を撫でて、そのまま通り過ぎていった。まるで、僕のことを一瞬知り合いかと思って話しかけたが、すぐに他人だと気がつきそのまま去っていくように。

 僕はディックが来るのを待っていた。彼は絶対にここに来るのだ。

 通り過ぎていく人は僕のことなど、気にも止めていなかった。15時から電脳世界に入り浸り、ベンチに座っている人間など、社会的にはあまり評価されないが、少なくともここの人間は僕のことなどまるで見えていないかのようだった。あるいは見えていたとしても、それはただの風景として受け入れられているのかもしれない。

 僕が彼らにとって風景であるなら、それはどのような風景なのだろう? 例えば、キャンバスに描きたくなるような風景だろうか? 写真に残したくなる風景だろうか? 早く記憶から消し去りたいと思われるような風景だろうか? それとも、それは直ぐに次の風景へと流れていってしまう、なんでもないものなのだろうか? なんであるにせよ、僕は彼らに少しでも意識されているだろうか?

 何故だろう? 僕はとてつもなく、誰かの記憶に残りたい、と考えるようになっていた。前はそんな風にを考えるようなことはなかった。むしろ、僕はどこか人の意識の外でこじんまりと暮らしたいと考えているようなタイプだった。しかし、今は誰かの記憶に残りたい、と考えている。それは何故だろう?

「人の考え方なんて、その状況によって変わるものさ」

 輪郭を持たない空間(あるいは思念)がそう告げた。それは僕にだけ見えるものだった。もしかしたら僕というプログラムの目の前に現れた、ある種のバグに過ぎないのかもしれない。

「そういうものかな?」

「そういうものさ、オーウェル君。君は今、死の淵に自分から立っている。そしてそこに半分、いや肩くらいまで浸かっている。そんな状況に瀕して、今までの自分を保っていられる人間なんていないさ」

「それが人間にとって自然なことだから」

「そう、それが人間にとって自然なことだ」

「何故僕はそのような、『人間として自然な考え方』というのを持ち合わせてしまったのだろう? そんなものを持ち合わせないで、もっと淡白な考え方をする人間に組まれていたなら、何も迷わずに死に迎えるのに」

 僕は彼に心の内を正直に話していることに驚いた。僕はあまり人に自分のことを正直に話す人間じゃないのだ。僕は自分にしか、本当の意味で素直になることはできない人間なのだ。

「あなたは僕ですか?」

 僕はなんとなくそう思って聞いた。

「ある意味ではそうだよ」

「ある意味?」

「俺は人の心というやつさ。大体は人の中に宿るもので、普通は姿を表せないが、君という人間は例外的だからな。君はプログラムとして存在しているから、俺自身のこともプログラムとしての存在を証明できた、とでも言おうか。俺は君の無意識によって感情について命令されて、君の心を命令の通り動かしているんだ。だからある意味では君自身だ。俺は君の考えるあらゆることを知ってあるからね。何故なら君の無意識くんが伝えてくれているから」

「あなたは」と僕は言った。「あなたは、僕の正体について知っていましたか?」

「いいや、知らなかったよ。俺は君が何かを思って初めてそのことを思う。何かを知って初めてそのことを知る。つまり俺は君以上のことを思えないし知ることはできないんだ」

「でもあなたはあまり落ち込んでいなそうに見える」

 僕がそう伝えると、彼は笑った。

「そう見えるかな? あぁ、実際そうかもしれない。でもね、俺は君の思うことを、心という形で代弁しているに過ぎないんだ。いわばコピーさ。俺が悲しくないってことは、つまりは君も悲しくないことになる。それについて思いあたることは?」

 そう言われて、僕は考えた。僕は落ち込んでいるだろうか? 悲しんでいるだろうか? 

 考えてもよくわからなかった。僕はこの状況を理不尽に思いつつも、何故か受け入れようとしている。僕は何故か自分のことを悲観的に見ていたが、その実僕の内心はあまり悲しんでいないのだ。

「君はきっと強い人間なんだ。俺は心からそう思うよ。そして、俺がそう思うってことは、君はそう思っているということだ」

 強い人間、と僕は思った。たしかに、それくらい僕は自分を認めてもいいのかもしれない。今までだって、そこそこ頑張ってきたじゃないか。僕は彼女を味方につけて、色々なことを乗り越えた。強いものを味方にすることもまた強さだ。そして今僕は死を受け入れている。それが強さじゃなければ、きっと強さという概念は、たちまち消えて無くなってしまう。死は僕たちが最終的に、自分の強さで受け入れなければならないものだから。

「そうだよ、それは立派な強さだ。君がそれに

 僕は、「ありがとう」と言った。そうすると、彼は消えてしまった。

 不思議な出来事だった、と思った。僕の心と僕が対談をする? 彼女に話せば、笑ってくれるかもしれない。僕はそんな風に思った。そして、それは僕が失ったことだった。僕が唯一心から悲しめることだ。彼女とのことだ。

 そんなことを考えていると、彼と入れ違いのように、ディックが現れた。彼は端末を覗きながら、あたりを見回していた。僕を探しているのだろう。

 僕は立ち上がって、彼の目の前まで歩いた。足が世界中の人間の重心を受け入れているのではないかと思うくらい、重かった。一歩いっぽがなまりのように重厚だった。

 彼は僕に気づいたようだった。動いていた目が僕の方を向いて止まったから、すぐにわかった。終わらせる時が来たのだ。

「やぁ、ディック」

 僕がそう言うと、彼は少なからず動揺したのか言葉を見失っていたが、やがて「やぁ」と言った。

 彼は事態を上手く飲み込めていないようだった。僕としては、彼が気付くまでの不毛な時間を過ごしたくはなかった。人生(人生という言葉が適切かどうかはわからない)最後の時間くらい、僕はもっと華やかにしたかった。そう思う権利くらいはあるはずだ。

「君が探しているのは、きっと僕だ」

 空気が変わるのを感じた。彼は全てを理解したはずだ。僕はそれがわかった。

 彼はしばらくの間黙っていた。周囲の喧騒から、僕らだけが孤立していた。騒がしい世界の中、僕たちだけ強固な壁で囲われて、周りの存在から遮断されているように。

「いやな予感はしていたんだ」

 彼は切なく笑いながら、そう言った。

「つまり、相手が僕なんじゃないかって疑っていたということ?」

「いいや、そこまで俺の感は鋭くない。ただ、漠然といやな予感がしていた。じゃんけんで、今グーを出したら負けるような気がしているのに、手はもう握り拳を作ってしまっているような感じだよ」

 僕には彼の言わんとすることがわかった。当たり前だ、僕は彼の影なのだから。

「君は銃を持っているはずだ。それで君は僕を撃つといい」

 僕は覚悟を決めて、言った。彼がハッとするのが、見受けられた。

「そんなことできないよ」

 彼は心底辛そうに、そう言った。おそらくそう言うであろう、ということは僕にもわかっていた。彼は友人を殺せる人間じゃない(正確に言えば、僕は友人を殺すことができない。それが功利主義に基づく結論であったとしても)。

「いいや、君はそれをやらなきゃいけない。つまり、君がそうしなきゃ殺されるのは君だけじゃなく、彼女もだから。わかるだろう? 事務の女の子のことだよ。そして当然のことながら、君の不始末は、ハリスンが何らかの形で尻を拭うはずだ。彼は君に僕を殺させることに意味があるように感じていたらしいけど、君がやらなかったらおそらく自分で何かしら行動して、僕を殺すだろう。そういう男だからね」

 僕は淡々と彼に語った。そして、「やるしかないんだ」と最後に念を押した。

「俺...いや、よそう、僕はこれ以上彼女を巻き込むべきじゃない。それはわかっている。痛いほどには」

 彼が自分のことを俺と読んでいたのは、何故なのだろう? 僕はこんな習慣にも、そんなささいなことが気になった。しかし、それはどうでもいいことだ。僕は黙っていた。

「でも、君を殺すのは辛い。君は僕が心を開けた数少ないうちの一人だ、殺したくない」

「そして僕は君の影だ」

「そうだな、影を失った人間というのはどうなるんだろう? つまり、影を持たない人間なんていない。影がなくなったら、それは即ち例外的な人間ということにならないだろうか?」

「この世界にあっては、一般的な人間は影を持たない」と僕は言った。彼は「そうかもしれない」と笑って言った。

 やがて彼は僕に銃を向けた。僕は少なからず、安心した。恐怖はなかった。それはこのどうしようもない状況の中、唯一与えられた救いかもしれない。恐怖を感じずに死ぬことができる。悪くない終わり方だな、とさえ思った。

 彼は目を瞑っていた。見たくないものを見ないために目を瞑っているというよりは、ただ何かに想いを馳せているだけのように見えた。

彼はやがて目を開いた。僕が彼の立場なら、多分殺すときの状況をありありと眺め、脳内に記憶しようと試みるだろう。そうするのが、おそらく殺人をする上での礼儀だから。

「死ぬのは怖くないんだろうか?」

 彼は僕に尋ねた。

「怖くはないよ」僕は答えた。

「君が死んでも、僕の友人が君であることには変わらない。もちろん、君が僕であっても」

「ありがとう」と僕は言った。「僕を終わらせるのが君でよかった、僕はそう思っているんだ。彼女を残すのは少し惜しいけれど、きっと君が彼女を愛してやるだろう?」

「あぁ、もちろん」

 それからしばらく、静かな時間が続いた。まるで、周囲がこの状況という劇を楽しんでいるかのように。しかし、現実には音は流れていた。ただあらゆる音が僕の耳に届いていないだけだ。息をする音も、鼓動も、心の声も聞こえなかった。全ては生命を持たないただのオブジェクトのように、息を潜めていた。

 僕は小さく頷いた。撃て、というサインだ。僕たちの別れに、言葉は必要なかった。必要なのは引き金を引くことくらいだった。

 彼が引き金を引くのがわかった。その重い引き金を指にかけ、やがて引く音が聞こえた。それが唯一聞こえた音だった。



 僕の身体は砂のように崩れ落ちていった。足からどんどん、パラパラと。

 痛みのような具体的な感覚はなかった。死の予感さえ感じなかった。ただ眠りが訪れるように、白く薄いベールが意識にふりかかるだけだった。それはあまりに安らかなものだった。

 これで、過去の殺人を清算できるだろうか? 僕はそう考えた。そのアンサーについて考える前に、僕の意識と身体が離反していくのを感じた。

 大抵の人間が他人の記憶からやがて削ぎ落とされるように、僕だっていつかは全ての人間から忘れ去られてしまうのだろう。彼女もディックも、永遠の存在ではないのだから。

 やがて僕の全てが消えるのを感じた。後に残ったのは、ホテルの部屋に残してきた銃くらいだった。それだけが僕が生きていたことを証明していた。

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