38.電脳世界〈静寂よこんにちは〉13時〜

 僕はいつものホテルの一室に居た。彼女がここに来てしまう可能性があったから、本当は別のところに行こうと思っていたのだが、どちらにせよ彼女は来るのだろうと思ったからここにした。結局のところ、始まりも終わりもここなのだ。

 部屋の中はとても静かだった。まるで、辺りの音が僕を刺激しまいと、息を潜めているようだった。しかし、静寂は僕を落ち着かせてくれたが、同時に少し寂しい気持ちにもなった。結局、僕は音楽を流した。せっかくの静寂だが、できれば明るい曲が聴きたかった。結局、ルイ・プリマの「sing・sing・sing」をかけた。この曲はあまりにも有名だが、有名なのには理由があるもので、やはり素晴らしい音楽だった。演奏はもちろん(もちろんと言っていいのかはわからないが)、ベニー・グッドマンの楽団だった。sing・sing・singはドラムが注目されがちだが、サックスだって素晴らしいのだ(もちろんそんなことを言い出したら、全部が素晴らしいという風に帰結してしまうが)。

 僕に音楽的な知識はほとんどなかった。だからsing・sing・singをかけたのだ。僕はジャズとスウィングの何が違うのかもよくわかっていない。しかし、音楽というのは理解とかそういったものの先にあるものだと、僕は信じていた。違うだろうか?

 やがて、部屋のドアがノックされた。彼女がきたのだろう。僕は、ドアを開けた。

「僕とは会わない方がいいと言ったと思うけど」

「でも昨日別れの挨拶なんてしてないわよ」

 彼女にそう言われ、僕は昨日のことを思い出した。確かに、僕は彼女とまた会うことを前提としていたのかもしれない、と思った。

「それに」と彼女が言った。「それに、またここにいるってことは、私が来ることくらい予想していたんじゃないの?」

「どこに行こうが君は僕を見つけて、そこに来るだろうと思ったんだ」

「わかってるなら最初から会わないほうがいい、なんて言わないことね。私、ちょっぴり傷付いたんだから」

「ごめん」と僕は言った。確かに、どうせ彼女が来ることくらい、僕はわかっていたのだ。そして、彼女をそうさせたのはある意味では僕だということも、僕はわかっていたのだ。

 彼女は部屋中に流れるベニー・グッドマン率いる楽団の演奏するsing・sing・singに耳をすませていた。そして、ふんふんと鼻歌を歌った。その楽団の曲がテンポが良くダイナミックな演奏なら、彼女の場合は可愛らしい小鳥の囀りといったところだった。

「ジャズとかが好きなの?」

 彼女はそう尋ねた。

「たまたま知っている曲をかけただけだよ、他はほとんど知らない」

「私もこれくらいしか具体的な曲名は知らないな。本読む時とか、お酒を飲む時とかにジャズをかけることはあるけれど、だいたいネットにある適当なやつをかけるから、曲名なんていちいち覚えてないのよね」

「そういう音楽の聴き方も、あるいは正解なのかもしれない。曲の名前とかそのバンドの名前を聞くと、音楽を正当な評価ができたいことがあるから。芸術なんてきっとそんなもんなんだと思う。人は少なからずネームバリューに引っ張られてしまうから」

「かもね」と彼女が言った。


 しばらく、曲をループさせて二人で聴いていた。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。もうおそらく警察(というよりはディック個人が)は僕の場所を掴んでいるだろう。いつまでもベニー・グッドマンの演奏に聴き入っているわけにはいかないのだ。

「ねぇ、もうそろそろ警察が来る。もう彼ら...いや、彼は場所をわかっていると思うんだ」

「つまり何が言いたいの?」

 僕は深く息を吸って、それから言った。

「決着をつけてくるよ」

「決着?」と彼女が言った。

「そうだよ、あるべきところに物事を収めるんだ」

 僕がそういうと、彼女は不安そうな顔をした。

「警察を殺すの?」

 僕は、「どうだろう?」と言った。それは僕にもわからなかった。殺すかもしれないし、殺さないかもしれない。

「プランはあるの?」

「ないよ」と僕は正直に答えた。

「プランが無いのに、あるべきところに物事を収めることができるの?」

 それについては答えなかった。いいや、正確に言えば沈黙が答えになっていたのだ。そして、彼女はそれを察してくれたようだった。彼女はそれ以降は、特に何も言わなかった。

 僕は音楽を止めた。しばし部屋に静寂が戻った。僕も彼女も何も言わなかった。これから先のことをお互いに予感するような静寂だった。それは、さめほろと降る雨が微小の音の内に作る静寂を思わせた。僕と彼女はその静寂の音を聞き続けた。その間、僕は時間が歪むのを感じた。1秒を無限に近く感じ、10分を刹那のものに感じた。全てが反転していくような感覚がした。

 静かさというのは、何故人をそうさせるのだろう? 僕はそのように考えた。音が人の鼓膜を震わせるのなら、無音は心を震わすのだろうか? 考えているうちに、それが正解なような気がした。もちろん、それが本当に正解なのかはわからなかった。だけど、それをひとまず正解にすることくらいは、許されるような気がした。

 僕はその静寂を破った。もう少し味わっていたいような気もしたが、破らずにはいられなかった。

「僕はもう行くよ」

 僕がそう言うと、彼女は僕の方を見た。目には少しばかりの涙が浮かんでいた。きっと、彼女は僕がこれから何をするのかわかったのだろう。あるいは、それは静寂が教えてくれたのかもしれない。

 僕は銃をポケットから出して、テーブルに置いた。

「武器は置いていくの?」

 彼女は尋ねた。僕は頷いた。

「うん、武器はもういらない。必要ない。これは人を悲しみに導くものだから。愚かなものだから」

「そう」と彼女は言った。そして、それから僕の手を握った。

「あなたが仮に実体を持たなかったとしても、手を握った感覚は本物よ、あなたは生きているし、私はそれを覚えている」

「ありがとう」と僕は言った。

 僕はドアを開けた。ドアを開けると、様々な音がした。人は生きている限り様々な音を作り出す。静寂というのは、ある意味では生きることの正反対に位置することなのかもしれない。

 僕が部屋を出るときに彼女が言った。

「これっきりってことは、無いわよね?」

 彼女はきっとわかっているのだ。僕とはもう会えないことを。だけど、そのことはお互いに口にしなかった。口にしない限りは、いつか会えるような気がしたからだ。

「もちろん、また会える」

「よかった」と彼女が言った。そして、それを最後に何も言わなかった。僕は黙ってドアを閉めた。それ以上言葉は要らなかった。全ては無言のうちに伝わったはずだから。

 僕はポケットに手を入れ、今はない銃の面影を握った。あの銃はある意味では僕の存在意義だった。しかし、今はその銃無しに僕は存在している。

 僕はホテルのエレベーターのボタンを押して、ロビーへと向かった。やがてドアが開きロビーに着いた。そして、僕はホテルの外へと出た。何故か、太陽の光(もちろん人工のものに過ぎない)がやけに眩しく感じた。

 僕はホテルのそばのベンチに腰掛けた。そして目を瞑り、彼女のことを考えた。彼女はsing・sing・singをもう一度聞いているだろうか? もちろんそれは確認しようがない。だけど、多分聴いているだろうと思った。僕も多分彼女の立場なら聴くだろうから。

 僕もまた頭の中で音楽を流した。ベニー・グッドマンは演奏を続けた。それはあらゆる人に訪れる喪失のように、絶え間ないものだった。その絶え間ない演奏の中、僕は待ち続けていた。ディックを、あるいは終わりを待ち続けていた。

 僕の前を過ぎていく人の群れは、あらゆる概念そのもののように見えた。それは時代によって形を変え、意義を変えるもののようだった。昔の美的感覚が今とは異なるように。

 時計は辺りに無かった。僕は仕方なく端末を開いた。できればそのような手段に頼りたくはなかった。それらの手段を使うたびに、僕は自分の存在というものについて考えさせられるからだ。

 もうそろそろ彼が来る頃だろう。僕は頭の中の音楽を止めた。頭の中にまた静寂が現れた。

 静寂よこんにちは。僕はそう呟いた。

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