36.現実世界〈終わらせよう〉8時30分〜
今日は僕は車で署に来ていた。これといって意味はなかった。30分前に着いたので、僕はしばらくそのまま車の中にいた。本を開いてみたりしたが、文字は上手い具合に頭に入ってはくれなかった。音楽をかけても、それはただの空気の振動にしか感じられなかった。ラジオは人間が無理に笑っているように感じて、これ以上聞きたいとは思えなかった。
結局のところ、僕は沈黙を楽しむことにした。楽しむという表現は適切じゃないかもしれない、とも僕は思った。なぜなら僕は、その沈黙に寂しさも少し感じたから。
人は生活を営むうちに様々な音を発する。それは歩く音であったり、息を吸う音であったり、時には声であったりする。そういう類の音が僕の周りで絶えて、沈黙を作り上げるというのは、いくらか不思議な気持ちになった。その不思議な気持ちの中に、寂寥が少しばかり含まれていた。まるで、ご飯の中に少し玄米が含まれているように。
やがて8時50分になって、僕は署に入ろうと考えた。仕事をしたいとも思わなかったが、僕にはやらなきゃいけないことがある。おそらく、今日ハリスンから〈暗殺者〉の情報が渡されるはずだ。そして、それは僕にだけ渡されるはずだ。もう後には戻れないし、戻るつもりもない。これは僕自身でやるべきことだし、僕が彼女に取るべき責任なのだ。
署に着くと、ハリネズミがもう仕事をしていた。なんだかその様子は、僕に不思議な感覚を与えた。別にいつも来るのが遅いというわけではないが、この時間帯からその仕事ぶりは、普通ではなかった。いつもなら、コーヒーでも飲んでるところだ。
「おはようございます。今日は何故そんな早くから?」
僕がそう尋ねると、よくぞ聞いてくれたとでもいうように、彼は笑った。
「ユートピアの創設者から、〈暗殺者〉を殺すためのプログラムを送られた。つまり、ユートピアの中で使える武器ということだが」
あぁ、ハリスンが動いたのか、と僕は思った。しかし、それは悟られてはいけない。僕はあくまで驚くフリをした。
「今日からは、ユートピア内でも操作を行える。ところで、君は何か前進出来たのだろうか?」
僕はどう答えるべきか迷った。真実はもちろん言えない。しかし、嘘をつくのも憚られた。できることなら、僕はあらゆる意味でクリアに生きたかった。さかし、それはもう無理な話だった。僕は無色透明のガラスだったのに、今はもう柄の悪い人間の車の窓のように、暗いスモークフィルムがかかっていた。外からは覗かないようになっているが、そのくせウチ側からはチラチラと様子を伺う僕のずるい内面が表れているような気がした。
結局僕は、曖昧な風に「はい」と答えた。これは嘘に値するのだろうか、と思った。
彼はそのプログラムを署にある、装置に反映させるために作業を続けていた。その間僕は、自分でコーヒーを入れたり、パソコンに向かって考え事をしたらした。しかし、自分で入れたコーヒーはただの苦い風味がしつこく口の中に残る液体に過ぎなく、考えはうまく浮かばなかった。味覚は精神的なものに作用されると聞いたことがある。僕の精神はやつれているのかもしれない、と考えた。うまく考えが浮かばないのも、きっとそのせいだ。
周りを見ると、署全体が活気付いているように見えた。実際的な行動に移せるのがきっと嬉しいのだろう。思えば僕たちは、前進しているのか、あるいはぬかるみの中を歩いていて全く進んでいないのか、まったく判断のつかない仕事をしていたのだ。やはり、警察らしい仕事ができるのは嬉しいことなのだろう、と思った。
やがて装置に反映させることができたのか、ハリネズミから全員に、ログインの指示が出された。僕らは全員分の装置がある部屋へと行った。
「各自アカウントは持っているだろう? それでログインしてくれ。銃を装備させるようにプログラムしておいた」
僕らは指示通りログインした。白い壁から聞こえる女性の声が僕の名前を告げた。
ターミナルにはもう皆が集まっていた。彼らは全員普通の身なりをしていて、警察には見えなかった。もちろんそれは、〈暗殺者〉にばれない為の工夫だった。僕らが武器を持ったとしても、相手に殺される危険性があるのは変わらない。
やがて僕の端末にハリスンからメッセージが届いた。そこにはユートピア上の座標が記されていた。〈暗殺者〉だ、と僕は思った。〈暗殺者〉?
僕の心のどこかが、その言葉の響きに疑問を抱いていた。違う。〈暗殺者〉じゃなく、〈ブレード・ガンナー〉だ。何故そんな言葉が脈絡もなく僕の頭に現れたのだろう? それは、僕の頭の中にもともとあった言葉が何かの拍子に現れたというよりはむしろ、今僕の頭にその言葉が迷い込んできたようだった。何故かはわからない。ただ漠然とそう感じるのだ。
どちらにせよ、僕はそこに向かわなければいけない。僕は彼らに、「僕はあそこの区域を調べる」と言って離れた。
さぁ、終わらせよう。僕はそう呟いて、そこへと向かった。
「殺人者になる覚悟は?」 影が僕にそう言う。
できている。当たり前だ。
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